2014년 12월 14일 일요일

生と死

生と死

(本文:ヨハ8章)


人は、誰もが生と死の戦争をしている。働く事も、食べる事も生きるためである。しかし、望んでいない苦痛と死がやって来る。

その昔、インドの王子、釈迦は、生老病死の理由を知るために造物主を探して旅に出た。しかし、会えず、その声を聞いて教えたものが仏教であり、高麗時代に八萬大蔵経を刊行した。1)この八萬大蔵経の意味を知る人は、今まで一人もいない。

大韓民国の三星財団の創立者、イビョンチョル氏は、生老病死の理由など、質問24をカトリック教のパク某神父に質問して、24年ぶりに、チャ某神父(教授)がその答を出したが、それは正当ではなく、でたらめな答であった。

神様は、約2500年前、釈迦に生老病死の苦痛を解決する事のできる答を「イエス」だと言われた。イエス様は、釈迦の後、約500年が過ぎて、神様が遣わされて、この世に来られた。イエス様が「生」について、ヨハネの福音書6章で、ご自身の血と肉を食べる者だけが永遠の命があると言われた。ユダヤ人たちは、イエス様を捕らえて、十字架にかけて殺したが、イエス様は、3日目に(第3日に)復活、昇天された。この後、イエス様が異邦の使徒に選んだパウロは、第一コリント15章で、一人の人(アダム)によって死が入って来て、一人の人(イエス様)によって命が入って来たと言った。アダムは、死んで土に返って、イエス様は、死なれたが、再び生きて、天に上って行った(創3:17-19、ルカ24:46、Ⅰコリ15:4、使1:9-11)。

私たち信仰人は、聖書の御言葉を神様の御言葉と信じる(ヨハ10:35)。初臨当時、この地に自分の肢体がないエリヤとモーセとイエス様は、変化の山の上に現れた(マタ17:1-8)。記録されたように、アダム(創3章)と、神様の息子たち(創6章)が善悪の実を食べず、罪を犯さなくても、土に返っただろうか?イエス様は、弟子3人を連れて高い山に上って行き、再び来られる時の姿を、この日、前もって見せて下さったのである。彼らの姿は、肉体は別に、霊体は別にではなく、肉体と霊体が一つに変化された姿である。

パウロは、終り(第七)のラッパに、突然、変化されると言った。肉体が死んだ者たちの、その肉体は、再び生きられず、その霊は、変化されて、天の心霊なる霊のようになって生きて、肉体を持っている私たちも変化されるので、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちない時には、死が命(勝利)に飲まれると言ったその御言葉が応じると言った(Ⅰコリ15:51-54)。

このような御言葉がヨハネの福音書11章(25-26節)にイエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は死んでも生き、生きてわたしを信じる者は、永遠に死なない。」と言われた。そして、弟子たちに、「これ(この言葉)を信じるか?」と言われ、弟子たちは、「主よ、信じます。主はキリストであられ、世に来られる神様の息子であられることを信じます。」と言った。そして、イエス様は、死んだラザロを再び生かした(ヨハ11:43-44)。この事は、イエス様の御言葉を信じさせた。

また、イエス様は、ヨハネの福音書8章で、「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。」と言われ、これにユダヤ人たちが、「私たちの祖先アブラハムも、ヤコブも死んだのに、あなたはアブラハムとヤコブよりも偉大なのか?」と言った。イエス様は、「わたしの中に父(神様)がおられ、父の中にわたしがいる。」と言われた。この言葉は、神様が永遠に生きられるように、イエス様も神様と共に永遠に生きられるという意味になる。イエス様の御言葉と使徒パウロのあかしを見る時、同じ意味の命を言っている。

啓示録20章で見たように、主の御言葉をあかしして首をはねられたたましいたちと、私たち生きている者がキリスト共に第一の復活にあずかると言った。第一コリント15章のパウロのあかしもこのように、肉体が死んだ者たちの霊が変化されて心霊なる霊で生きて、私たち肉体たちも変化されて、朽ちず、死なないと言い、この言葉は、死んだ殉教者と私たち生きている者が第一の復活にあずかると言った、その言葉が一致する。

(性質が気難しい)パウロは、私たちにキリストのような復活がなければ、この世で私たちが一番哀れな者になるだろうが、復活の初穂として見せて下さったイエス様のように、主の再臨の時、主に属した者が順番に復活すると言った(Ⅰコリ15:19-24)。

アダムが罪を犯した後、地球上には数多くの人々が死んで来た。数多くの人物たちも生まれては死に、罪を赦されるためのいけにえもして来た。なぜ、神様は、釈迦の問にイエス様をその答として下さったのか?イエス様は、私たちの罪の赦しのため、代わりに十字架にかかられ、血を流された。死が罪の価であるならば、イエス様が十字架によって私たちの罪の価を代わって負って下さったので、この地に死が終わってなければならない。ところが、なぜ、2千年間、死が相変わらずあるのか?

ヨハネの福音書6章で言ったイエス様の血と肉は、いつ、食べるようになるのか?ルカの福音書22章の血で立てた新しい契約は、「まことのぶどうの木(イエス様)からできたものを神様の国が臨む時まで食べない。」と言われたので、イエス様の血と肉は、啓示録の成就の時に食べるようになる(啓5:9-10、啓7:14、啓12章参考)。

このゆえに、パウロも、終り(第七)のラッパの秘密だと言い、この時、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちないと言った。7つのラッパのうち、6つは、啓示録8章からラッパの音が出て(啓8.9章)、この終りの第七のラッパは、啓示録11:15から吹かれるようになる。このラッパの音で世の国が神様の国になると言ったので、神様の勝利であり、救いであり、回復される事を知らせたのである。使徒パウロも、この啓示録の時の終りの第七のラッパの音を言ったのであり、救いの秘密を言ったのである。

それゆえ、イエス様が2千年前に流された血は、啓示録の時、その効力が現れるようになり、「父の国で新しいもので食べる時までは、食べない。」と言った、「父の国」は、啓示録5章で、ご自身(イエス様の)血であがなった国と祭司長たちである。白い群れも、啓示録7章で、イエス様の血で衣を白く洗った人々なので、これもまた、啓示録の時の事であり、血でできたものである。

アダムが罪を犯す事によって死が入って来て、イエス様の血で命が来るようになったのである。前で言ったように、釈迦に言った「生老病死の苦痛」に対する答えは、イエス様であられ、イエス様の血であった。

主を信じる聖徒は、イエス様が言われた御言葉の時と血の効力があるようになる時に、啓示録2-3章に約束された祝福と約束の牧者を知る事が救いの道であり、永遠の命に対する答えだと言えるだろう。アーメン!



1)釈迦の教えを記録したものが仏教である。「大蔵経」は、釈迦の教えとその他に仏弟子たちが叙述したもの、または、仏教の歴史、釈迦の伝記、その他の仏教に関する文献などを総合したものである。高麗の高宗の時、版数、約8万あまりの大蔵経を作ったので、これを「八萬大蔵経」と言う。

2014년 12월 13일 토요일

神様の愛のまことの意味

神様の愛のまことの意味

(本文:Ⅰヨハ4:8)



愛とは、何を言っているのか?愛は、命と平和を意味する。

天地万物は、愛によって保存されている。恐ろしい動物も、傷づくいばらも、毒のある草も、愛があるので、子どもがいて、また、愛によって保存されて生きている。

万物を創造された神様は、愛であられ、愛であられる神様が創造されたので、神様から生まれた者は、みんな互いに愛し合う。

(Ⅰヨハ4:7-11)愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神をわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

神様は、神様の愛を知っている者の中におられる。これは、神様が愛であられるからです。

(ヨハ15:9-12)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

(Ⅰコリ13:12-13)今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

神様も、イエス様も、ヨハネも、パウロも愛について同じような御言葉を言われた。愛の世界、平和の世界、自由の世界は、神様の世界であった。この世界が神様の国、天国であった。この愛の世界を壊したものが悪魔であった。地を混沌とさせ、空虚にさせ、天を暗やみにしたのであった。これはまるでぶどう酒に水を混ぜた事と同じである。二種類の思想が一つの心の中で互いに争う事になったので、すなわち、善と悪である。

この混沌とした世の中が6千年間続いて来て、神様は、人の中にいる悪を除去するため、羊の血を注ぎもされた(レビ16:14-16、ヘブ9:13)。イエス様は、混沌とした世の中が6千年間続いて来たこの時(再臨の時)を指して、ノアの時、ロトの時のようだと預言された(ルカ17:26-30)。ノアの時も、ロトの時も滅亡の時であり、ほんのわずかの何人かだけが救われた。再臨の時は、教会の終末であり、滅亡であり、少ない種で(イザ1:9、6:13参考)再び新しい国を創造する新しい時代である。キリスト教徒たちは、この時を待って来た。

神様は、時代ごとに一人の預言者を立てて、その預言者に啓示を与えて、彼によって全ての事を知らせられた。イエス様が「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われた(ヨハ8:32)。真理は、神様の御言葉である(ヨハ17:17)。新約に約束した御言葉を悟って知る事によって滅亡を逃れるだろうし、敵に捕虜になった所から抜け出る事ができるようになる。光である真理の御言葉がなければ、真っ暗な夜であり、夜は見えない暗やみであり、眠る時である。真理で救われる事によって平和になる。

初めの御言葉がいのちであり、光だと言ったので、神様のように、イエス様のように、初めの御言葉で再び生まれるならば、その人も御言葉になる。御言葉がまず、あってこそ、神様が共におられて、神様の導きを受けるようになる。神様に導かれる者は、本当に祝福され、死に陥らず、永遠の命に至るようになる。

愛の神様が人の心から離れたので、どうして人の中に神様の愛があるだろうか?離れて行かれた神様と愛を心に再び迎えようとすれば、何がなければならないのか?神様の御言葉が心になければならない。

ヨハネの福音書1:1-5で見たように、神様は、初めの御言葉と共におられた。御言葉があるところに神様がおられるからであり、神様がおられるので、神様の御言葉がそこから出て来るのである。この御言葉が、すなわち、神様であり、いのちであり、光であり、愛であり、真理であり、平和である。

今日、神様を信じる聖徒は、まことの神様を(ヨハ17:3)知らなければならないし、6千年の神様の系図と歴史をわからなければならないし、あった事どもをわかってこそ、認められて、信じられて、愛するようになる。神様が私たちを愛されたので、私たちも神様を愛する事が当然である。

長い歳月の間、罪悪によって互いに敵のようになっていたが、イエス様の血で罪を赦されて、神様のまことの種で再び生まれたので、神様の息子(子ども)になって、家族になった。家族として、父と息子として信仰して、愛して、往来して、互いに顔を合わせて見るのが当然な道理である。

罪の赦しもなく、再び生まれる前には、捨てられた孤児のようであったが、今からは、父にあった喜びと愛があふれて、啓示録22:1-5のように、父の顔を見るだろうし、永遠に共に王となる、王子として。アーメン!

2014년 12월 12일 금요일

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

(本文:Ⅰヨハ4:1-8)



地上には、数百種類の宗教がある。これらは、同じように神様を基準としている。そして、自分の宗教が一番だと言っている。果たして、宗教の経書が信じられるくらいの内容があるだろうか?まず、信徒数が多い宗教団体であるキリスト教から調べてみよう(キリスト教は、カトリック、プロテスタント、聖公会、正教会、反ユダヤ教などがある。)

キリスト教の歴史は、6千年であり、アダムの時、ノアの時、モーセの時、士師の時、イエス様の時があり、啓示録の時がある。キリスト教の経書である聖書は、神様から聞いて、見て、記録したもので、旧・新約66巻であり、記録者は、数十名である。キリスト教徒たちが同じように神様から聞いて、見た事を記録したので、これ(聖書)を神様の御言葉だと言う。この御言葉は、内容で見ると大きく歴史、教訓、預言、成就が記録されている。

神様がアブラハムと約束された事は、モーセの時、成し遂げられて、旧約の預言者たちと約束された事は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。新約の啓示録は、イエス様が預言(約束)されて、これは、再臨の時、成し遂げられる(啓21:6)。

約束した預言とその成就を見る時、初めのものが腐敗する時、壊して、再び新しいものを創造された(ヘブ8:7-13参考)。例を挙げれば、アダムの世界が腐敗する事によって終わって、再びノアの世界を創造され、ノアの世界が腐敗する事によって終わって、再びアブラハムのモーセの世界(肉的イスラエル)を創造され、モーセの世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の初臨の世界(霊的イスラエル)を創造され、今日、イエス様の初臨の世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の再臨の世界(霊的新しいイスラエル)を創造された。これが6千年間のキリスト教の聖書が語った預言とその成就である。しかし、モーセとイエス様は、出現前に約束された人物であった。

仏教と釈迦の歴史は、約2,600年としてみて、仏教も幾つか(宗派)に分かれている。しかし、経書は、だいたい同じで、釈迦は、王の息子、すなわち、王子でである。この釈迦は、宗教に預言された人物ではない。釈迦が宗教の道を歩くようになったのは、生老病死の理由を知るため創造主を探しに出て行ったのが、その契機であった。釈迦が天の声を聞いて、記録したものが仏教である。韓国では、高麗の高宗の時、仏教を総合した大蔵経を刊行したが、その版数が8万編だとして、八万大蔵経と言い、これは釈迦も、その弟子たちも、見ても悟れない内容である。このような事は、単に釈迦だけではなく、キリスト教の聖書に記録された預言に対して、それを記録した預言の使徒たちも悟れないのは同じであった。それゆえ、仏教の信徒たちのうち、記録された八万大蔵経の意味をわかる者は一人もいない。

神様は、生老病死の秘密を知ろうとした釈迦に、約500年後、イエス様が来れば、将来の事を、預言してくれるという事を教えられた。釈迦に将来の事をわからせようとする時、神様は、それを以前の預言者たちに約束したので、改めて言う必要がなかった。韓国のサムソン財団の創立者、イビョンチョル氏も、カトリック教のパク某神父に人生、宗教などについての24の質問をして、この質問には、生老病死に該当する内容も含まれている。しかし、パク某神父は、その当時、答えられず、24年後、カトリック大の教授であるチャ某神父が答えたが(本にして出刊)、それはでたらめな答に過ぎなかった。

釈迦の弟子たちは、釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られた時、イエス様に啓示の御言葉を聞かなければならなかった。この仏弟子たちは、自分たちの知っている知識だけで仏教を彼らの権威と一緒に今まで延長させて来た。これは、キリスト教、すなわち、カトリック教も同じである。神様は、2千年前にすでに預言されて(マタ24章、ヨハネの啓示録参考)、12世紀のカトリック教の一人の預言家も、自身の死後、112番目の教皇が最後の教皇になるだろうと預言したが1)、この事で教徒たちの騒動が起こるかと恐れて、口を閉ざしていると見られる。

イスラム教は、イエス様の後、約600年が過ぎて創立されて(AD 610年創立)、今日、その歴史が約1,400年になり、経書の内容は、アダム、ノア、モーセの世界などの一部を語り、預言・啓示などの言葉はあるが、天の内容ではなく、地、すなわち、世の道理であり、預言とその成就に対する約束はなかった。良い、善良な行いをしなければならないという内容が、その大多数であった。しかし、これは、人の基本、道理である。彼らが善良で良い事について説明したものは、明心宝鑑2)よりもひどく、これらは求道だと言いながら紛争に専念していて、紛争によって国が分かれた所もあり、現在24ヶ国で多くの紛争を起こしている。

イスラム教を信じるアラブ人たちの先祖は、本来イスラエルの子孫、すなわち、アブラハムの息子の子孫であり、サラの女しもべハガルの子孫(ハガルの息子イシュマエルの子孫)で、約束の息子、本妻(サラ)の息子、イサクの子孫ではない。コーラン(Koran:イスラム教の経典)に記録された歴史は、アダムの時からイエス様の時までの歴史から取得してものであり、いつか成し遂げられる預言であり、その約束の預言が成就されたという内容は探す事もできず、また、イエス様以後に約束した預言がない。

神様がアブラハムと約束された事に対する成就、モーセの出エジプトの路程もなく、旧約の預言者たちの預言も、その成就も、イエス様の預言とその成就もない。コーランの経書を通して信じるほどの内容は探す事ができない。コーランを記録した一人の人3)の議論のみである。過去と現在、そして、未来に成し遂げられる約束があってこそ、その内容を見て、これを信じて守らなければならないという信仰が生じるだろう。

ヒンドゥー教の内容も、イスラム教の経書のように、一言で要約すれば、良い善良な行いをしなければならないという内容以外に、どんな約束をも探す事ができない。これ以外にもたくさんの経書があるが、話す価値がないものばかりである。

私たちが神様とその御言葉を信じるのは、聖書に生老病死の理由とこれ(罪による苦痛と死の問題)を回復する内容と、また、後世の人々に成し遂げられる将来の事などの内容があるからである。

過去に約束した事が六何原則に基づいて成し遂げられた事をパターンにして、新しい契約として話された預言も、信じる事ができるのである。将来の事に対する預言も、その成就も、六何原則に基づいて、すなわち、「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、なぜしたのか」という順理に従って語ってあかししている。

そして、聖書には、神様から創造された人の姿を始めとして、罪によって死と、創造主が離れて行かれた後の罪の赦しと、本来の姿に回復される事と、回復するための材料と、回復されるために人が守るべき約束と、創造主神様がご自分の人(神様の家族)と共に住まわれる事と、その時の人生の価値などが説明されている。

何によって、どのように本来のように回復されるのか?現在の人は、誰の種で生まれ、どんな神(霊)が主管するのか?今、私は誰の神(霊)が共にいて、誰の姿なのか?そして、神様の息子になろうとすれば、良い、善良でなければならないのか、神様の種で生まれなければならないのか?神様がなさろうとする御心と働きは、どんなものなのか?なぜ、そうしなければならないのか?

宗教が数百に分かれたのは、神(霊)の御心なのか、人の考えなのか?誰でもみんな神様を基準に信仰していると言う。しかし、経書の内容も異なり、その行動と教法も異なる。これでどうして一人の神様の御心だと言えるのか?これは長い歳月の中で宗教が変質されて、腐敗されたという確実なあかしである。この時、全ての宗教が宗教の主人であられる創造主神様に返して、神様の中で一つになることが原則だと言えるだろう。

初臨のイエス様は、平和の使者として来て、平和の働きを選民イスラエルがわかったならば良かったかもしれないが、平和を受け入れず(イザ52:7、ルカ2:14、19:38-44参考)、かえって、イエス様を異端だとし、殺した、当時のイスラエルの牧者たちが。今日も、その時のように、イエス様が教会のために遣わされた使者は、平和を叫び、平和の働きをしているが、韓基総は、戦争を宣布している。平和のためには、国境も、人種も、宗教も、思想も超越しなければならない。そして、敵をも愛さなければならない。

キリスト教の聖書が言っている末世に対する預言を要約してみる。キリスト教の経書に対する末世論を話そうとするのは、他の宗教の経書には末世に対する預言がないからである。イエス様が語られた末世は、宗教(キリスト教)の終末を言ったのであり、不信社会の終末を言ったのではなかった。宗教の末年には、宗教が腐敗するようになり、神様が背教する事によって天に属した太陽・月・星のような宗教人(選民)が地(肉)に落ちると言った。この時をノアの時、ロトの時のようだと言われたので(マタ24:37-39、ルカ17:26-30)、これは宗教世界の滅亡を言ったのである。

このような事があった後、主が御使いと共に来られて、収穫して印を押す働きがあり、神様の新しい国を創造すると言われたのである(マタ24:29-31)。この事は、この時の背教者たちと滅亡者たちと救い主を知らせていて(預言)、これを知らせたのがキリスト教の経書である。すなわち、この末世の事件を知らせたものが新約であり、啓示録の事件である。この時の救われる働きと避難所を知らせて下さって、この後の新しい国について説明されたのである。

聖徒たちは、どんな経書を望むのか?キリスト教の経書である聖書が信仰人に必要なのは、聖書の中に記録された内容である。

人は、誰でも罪があり、罪の遺伝子で生まれた。この罪が解決できなければならないし、背教者・滅亡者をわからなければならないし、救い主と再創造に所属されてこそ、救われて、天国に入り、永遠の命を味わう事ができる。

これを話した預言と、この預言が成就された内容がない経書は、神様が下さった御言葉、すなわち、啓示ではなく、人が盗用して作った本に過ぎない。

罪を赦す力がなければ、救い主でもなく、罪を赦す材料がなければ、救いを知らせてくれる経書にもならない。新しい時代の創造に関して、設計された経書がなければ、信仰人たちは、世のその通りに生きるしかないだろう。人も、世も、新しくできる約束の材料と創造された設計があってこそ、まことの経書と言えるだろう。仏教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、その他の宗教も、その経書にはこのような内容がない。それゆえ、各種の宗教の経書の中には、キリスト教の聖書が一番信じるだけの内容があり、このような内容が手落ちなく記録されている。

これは、各宗教の経書を一ヶ所に集めて置いて、上の内容に対して、その可否を調べて見なければならないだろう。間違った道を走っていると言って、目的地に行くのではない。正道を行ってこそ、目的地に行く事ができる。

釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られて、十字架で血を流されたとしても、その時から2千年が過ぎた今日に初めて、その約束である新しい契約の人生が成し遂げられるのである。

そのような人生が成し遂げられる所はどこなのか?ここは、啓示録3:12のように、神様とイエス様と天国が来た所であり、新しい天、新しい地、すなわち、心天地である(啓21章)。ここは、送旧迎新好時節4)であり、三豊之穀(啓2:17、「隠されたマナ」)、すなわち、永遠の命の食物を持って来たのであり、太古以後初楽道6)、すなわち、啓示録が成し遂げられた所であり、死末生初新天地7)である。アーメン!

 1)アイルランドの

2014년 12월 11일 목요일

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

(本文:ホセ4:6(イザ29:9-13))




●約束の御言葉とその意味

信仰人は誰でも聖書を持っていて、教会に行く時も聖書と賛美歌(本)を持って行く。

聖書の内容は、大きく四つに区分できる。歴史と教訓と預言と成就である。預言は天の秘密なので、ほとんど比喩で記録されている。この比喩を悟れなければ、外人になり、罪を赦されないと記録されている(マコ4:11-12)。

イザヤが言った内容を見ると、預言者と先見者たちが盲人になって、聖書はまるで封じられた本のようで、教えて学ぶ事は、人の戒めなので、口では主に近づくが、その心は、神様から遠く離れたと言った(イザ29:9-13)。

イエス様も、マルコの福音書12章に、「あなたがたは聖書の御心をわからず、思い違いをしている。」と言われた(マコ12:18-27、マタ22:23-30)。それだけではなく、啓示録5章に見ると、神様の右の手に本があるが、内側にも外側にも記録されていて、七つの印で封じられていると言う。天上天下に、この本を開いて、七つの印を解く者も、読む(見る)者もなく、この本を開いて、七つの印を解く者は、イギンジャ、イエス様以外にはないと言った。イエス様は、この本を開いて、成し遂げられて、今日、この地のイギンジャに与えて、あかしさせられたので、読む者は、本を受けたイギンジャであり、このイギンジャ、すなわち、本を受けた者を通して啓示の御言葉を聞く事ができるのである。

また、記録されたように、啓示録22:18-19には、啓示録を加減すれば、天国に入れず、のろい(災害)をさらに受けると言われたので、加減する者にならないようにしなければならない。

聖徒は、預言、すなわち、約束の御言葉とその御心を知っていてこそ、預言が成就された時、信じて守る事で、救いを得る事ができる。

●聖書の知識

初めの御言葉を道だと言ったので、すなわち、天国に行く道である。

この世の中にも法(国法、国際法など)があるように、天の国にも法があるので、すなわち、聖書全書である(ヨハ12:48、啓20:12参考)。この世にも知識人と無知な者がいるように、信仰世界にも知識人と無知な者がいる。神様が「わたしの民が知識がないので滅ぼされる(ホセ4:6)。」と言われたので、この知識は、聖書の御言葉を指して言われた御言葉である。それゆえ、聖書の知識がなく、啓示録を加減すれば、天国に行かれないと言ったのである。わからなければ、学ばなければならない。

・「聖書」の意味と改訳ハングル版

  ・「聖書」の意味:「聖書」とは、「聖なる本」という言葉である。聖書全書という事は、66巻を集めて一つ

にまとめたという意味である。

  ・改訳ハングル版:韓国語でできた改訳版という意味である。これは大韓聖書公会で作った本である。旧約の目録があり、旧約が終わった後、新約の目録が出て来る。旧約が39巻であり、新約が27巻である。記録者と記録した章数が出ている。

なぜ、聖なる本と言ったのか?記録者は人で、記録者に語れて、見せて下さった方は、天地創造主、神様であられるので、神様の御言葉を聖なる本、すなわち、聖書だと言ったのである。

・聖書を読む姿勢

どんな姿勢で読まなければならないのか?聖書は、世の王や大統領の言葉など、人の言葉ではない。それゆえ、始まりから一言、一言、用心に用心を重ねて、心の板に刻まなければならない。それだけではなく、本の御言葉を見る時、神様を見るようにして、祈る心と信仰で読まなければならない。

・聖書を読む方法

聖書を読む時は、聖書の本の表紙と記録された目次を見た後、旧約聖書の最初である創世記の1章1節から詳しく読まなければならないし、読み始める時と終わる時ごとに祈らなければならない。読んだ御言葉が心になければならないし、その御言葉を呼吸のように考えなければならない。聖書の御言葉は、神様の教訓であり、自分の精神(心)のまことも食物である。

記録者はいつの誰の子どもで(系図)、内容は、何について神様から見て聞いた事だと記録されている。そして、1章から終りの章まで読む事によって内容をわかる事ができる。

読む時も、聞く時も、六何原則に基づいてしなければならない。すなわち、「誰が、いつ、どこで、何を、どのように、なぜしたのか?」を考えて、読まなければならない。

聖書の内容に出て来る人々(存在)は、「地」ではだいたい選民たちであり、「天」では、神様であった。そして、見て聞く者は、記録した人(預言者など)である。聞いて、見て、記録した人の文章を見る「私」(聖書を読む者)である。

読んで見る理由は、神様と預言者が記録した御言葉(内容)が何を語られたのかを知るためである。読む時、理解できなかったり、わからない内容が出て来る時には、その聖句を別途記録しておかなければならない。

・聖書の内容

過去の歴史の中にあった事柄があり、神様の教訓の御言葉があり、将来にあるようになる預言があり、この預言を成し遂げる約束の牧者と預言が成就されたものがあり、未だに成し遂げられないものがある。

時代的には、昔のもの(過去の事)があり、新しいものがあり、昔の約束を成し遂げた事があり、成し遂げられる事を約束したものがある。ノアの時、モーセの時、イエス様の初臨の時の働きは成し遂げられたのであり、新約で約束した啓示録は、成し遂げられる事を預言したものである。旧・新約聖書のうち、啓示録以外は、全て成し遂げられたのである。

・聖書全書のまことの意味を知るためにわからなければならない順理

1.  まず、聖書を読む事である。

2.  聖書についての常識(聖書の勉強過程の幼稚園の水準)をわからなければならない。

3.  初等過程の勉強:比喩についての実体を勉強する。

4.  中等過程の勉強:各章に入って、預言とその成就について勉強する。

5.  高等過程の勉強:新約の啓示録の預言とその成就について勉強する。時代ごとに選民がいて、この選民が背教して、敵対者、滅亡者がいて、救い主がいた。

記録された例を見ると、選民の背教と異邦の滅亡者と約束の牧者、救い主が出現して、聖書に記録された自分の働きを成し遂げる。この三つの存在の行動を見て、背教者と滅亡者をわかる事ができ、救い主をわかる事ができる。この三つの存在を知らせたものが、約束の御言葉である預言書である。この三つの存在をわからなければ、救い主を滅亡者、または、背教者として誤解するようになる。

創世記のアダムの時から6千年間の歴史の中にあった事件を見ると、一つの時代が腐敗した時、新しい時代があるようになり、新しいもので創造されるようになる。この時の事件は、まず、自分に聖書の知識があってこそ、悟るようになり、区分する事ができる。

神書である聖書を読む事は、神様の心をわかる事であり、時と約束をわかるためである。悟って、信じて、信仰をするという者が、世的に高くなろうとするため、また、権威や富貴や世の誇りや名誉のため信仰するのは、かえって、自分に害になる。悟れば悟るほど低くなって、死から命に走って行く心情で自分を否認して、新しい人に創造されて、新しい被造物として新しく生まれるために信仰人にならなければならない。

聖書の一つの聖句(イエス様の御言葉)を見てみよう。

(ルカ14:25-27)さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

聖書のまことの意味を悟るならば、イエス様の御言葉のまことの意味をわかるようになるだろう。

私たちの信仰の目的は、永遠の刑罰の地獄から永遠の命の天国に入る道の信仰である。アーメン!



2014년 12월 10일 수요일

天地创造

天地创造



创造主神就像创造了天上灵界一样,在这地上也创造了天和地。这就是天地创造(创1:1,启21:1)
* 神吩咐给摩西的道
 (出25:9 ) 制造帐幕和其中的一切器皿,都要照我所知是你的样式。
 * 耶稣吩咐给犹太人的道
( 约 5:19 ) …… 我实实在在地告诉你们,子凭自己不能做什么,惟有看见父所作的,子才能作;父所作的事,子也照样作。
 * 耶稣在主祈祷中所讲的道
( 太 6:10 ) 愿你的国降临,愿你的旨意行在地上,如同行在天上。
  * 神在启示录中所讲的道
( 启 21:6) 他又对我说,都成了。我是阿拉法,我是俄梅戛,我是初,我是终。我要将生命泉的 水白白赐给那口渴的人喝。
   * 耶稣在四大福音中所说的话
( 约 19:30) 耶稣尝了醋,就说:“成了!”便低下头,将灵魂交付神了。
就像上面所记载的一样,在新约中所立的约,神将这些事情晓喻给蒙其拣选的牧者,并借着他来成就神的旨意。怀着天上所望而查考圣经的所有圣徒们,当由神所约定的预言成就了的时候,就要看到并相信应验的实像(约14:29 )。正如启示录第二十一章的内容一样,神把天上已经成就了的事情先展示给这位约定的牧者(摩3:7),而且还指示其在这地上也创造出与天上一样的天国。这就是天地创造。
当遵照神的旨意在这地上创建起属神的天国的时候,在天上的灵界神国和圣灵将从天而降在其上合为一体(启21:1--7)。新天地耶稣教正在这地上创建着由神所约定的国度,就像在天上所成就的一样。
新天地耶稣教的使者(牧者)顺从耶稣的指示,把自己所看到的和听到的事情以书信的形式写了下来,并寄给了启示录第二,三章中的使者们。就像启示录第四章的灵界天国一样,在新天地里也设立了二十四位长老;七个灯台使者;作为四活物的部长,同时这四个基路伯各有六只翅膀(部门人员);还有众多作为数不清的眼睛的圣徒们。新天地耶稣教正在用神的道受印给圣徒们,使他们成为启示录第七章中所说的十二支派十四万四千,而且还有数不清的人,他们所穿着的白衣都是借着作为耶稣血的道而洗净的。
如今,先知和先见们都处在沉睡的状态(赛29:9--14),就在这样的一个晚上)上(太24:29),降临的耶稣和天使们像贼一样悄悄而来(太24:29—33,39--44),他们手里拿着镰刀(启14:14--16),到撒下了天国福音种子的麦地(教会)里来收割作为成熟麦子的圣徒们,把他们领到在这地上的天国。此时(太24:45--47),听  信神道的人会被收割走到天国去,反之则被捆成捆(太13:30)被丢进地狱之火里烧尽。为什么这些人即便是听见了神道也不相信呢?这就是他们本身就是稗子的原因。
新约中的预言书就相当于设计图,之所以预先晓喻给众人,就是为了让人们在事情成就的时候可以相信。今天要成就的事情,神已经约在两千六百年前通过耶利米先知做下了预言,而且在两千年起前耶稣对同样的事情做了预言(太13:24--43)。所以如今新天地耶稣教正应验着启示录第十四章,进行着收割。
如今,新天地耶稣教把这些应验了预言的实像传扬给众人,但是却有许多人不相信这些话。这些人仅是重蹈前人的覆辙而已。比如说:挪亚时代发洪水当时不信从挪亚话的亚当世界的人们,还有耶稣初临时不相信已成就了的事实的肉体以色列。这些人不相信神所赐的约定(预言),只是用嘴称呼“主呀,主呀”罢了。现在是天上灵界神的国度和圣灵临于在地上接受创造的人们合为一体,这也就是神人合一体,即圣灵与肉体的结婚,就是天地创造(启第二十一章)。
综上就是关于应验了新约预言而在这地上所成就的事情。现在我们正是遵照神的旨意把所见所闻毫无保留地传给所有的基督教人(启10:8—11),即便是我们承受着巨大的压力。愿我们每个人都能确信并坚信神的道,得到神所赐予的救恩。我们新天地耶稣教会为此而坚持不懈地祈祷的。
(待续…… 关于天新约预言国比喻的祥解)

出处:真正且直接面对面地了解圣经和新天地
SOHU新天地BLOG  http://scjinchina.blog.sohu.com/

2014년 12월 9일 화요일

新天地耶稣教 证据帐幕圣殿

新天地耶稣教 证据帐幕圣殿




新天地耶稣教证据帐幕圣殿教会为什么会以这个名字命名呢?

所谓 “新天地”,说的是启示录第二十一章中的新天新地;所谓耶稣教,意思是新天地的教主为耶稣;所谓证据帐幕,指的就是此处为应验了新约预言而出现的实相做见证的地方;所谓圣殿,指的是圣神之殿宇的意思(启15:2--5)。
现在所有的教会基本上都是以个人喜好来给教会取名字。但恰恰与此相反,新天地耶稣教证据帐幕圣殿这个名字是在新约圣经中所约定好了的(启1:6,5:9—10,7:14),是属神的新国度和选民。从亚当时代到属肉体的以色列亚伯拉罕为止历经了约两千年的时间;从亚伯拉罕时代到初临也经历了约两千年的时间;从耶稣初临到现在也已有了两千多年的时间。如果从圣经各时代的历史和变化来看的话,亚当时代落幕,挪亚时代登场;挪亚的迦南时代下了场,随后属肉体的以色列律法时代又上了场;在属肉体的以色列律法时代告别历史舞台之后,又开启了耶稣撒下属灵的天国福音种子的教会时代(属灵以色列)。就在教会时代画上句号的同时,紧接着迎来了收割时代,也就是新天地耶稣教千年时代(属灵新以色列)。
属肉体的以色列人,无论是讲道的还是听道的,他们仅是领受了人的吩咐和诫命,所以即便是听到了耶稣启示的道(赛29:9—14,哈2:2—3,结第一、二、三章),他们不但不能会晤耶稣的旨意,而且还诬陷耶稣以及耶稣的门徒们为异端。如今作为属灵的以色列,他们所领悟的仅是由耶稣已成就了的旧约和用比喻而撒下的天国福音。曾被七个印封严了的神的书卷已被展开了(启第五、六、八、十章),成为了启示的话语。属灵的以色列的圣徒们,与前人一样,当他们听到了这启示的话语的时候,不但没有领会这启示话语的真谛,而且还指责这传扬启示话语的人为异端,现在也是如此。无论是初临还是再临,之所以会出现这些事情正是因为“作见证的启示话语”和“人的诫命”,这两者有着本质的区别。但是使徒保罗在得到了天上启示的话语之后,便把世上的万物当作有损的(腓3:7--9)。所以今天的信徒们也要像保罗一样,废弃人的吩咐和诫命,选择、相信并领悟启示的话语,只有这样的话,选民们才能得到救恩。

现在的宗教界早已变成了黑夜,因为属灵的天上日头、月亮和星星(太24:29—44,启6:12--13)都变黑坠落到了天上。不晓得这一事实并觉得安逸无恙的人们主张什么“我以为得到救恩了”,“我已经得到圣灵了”。可这些仅是陷入了自己美丽的幻想中罢了。在新约中所说的启示录时代,指的是在此前的时代落下帷幕后被新创造的时代(启第二十一章)。此时按照约定(启5:9--10),凡是用耶稣的血买来的(启5:9--10),并且自己的名字登记在十二支派的人们(启第七章),才能成为神国的新国民。只有通晓了这些事情的人才能坐上作为这个时代方舟的十二支派,得到救恩。

神的旨意行在地上如同行在天上一样,新天地耶稣教证据帐幕圣殿就是按照圣经而在这地上被创造出来的,是神的杰品(太第六章,启21:1--6)。 新天地耶稣教证据帐幕圣殿由十二支派构成。在新天地里,若有任何人或任何事没有应验圣经的话,那么就请用圣经来对此加以反证。在圣经中记载着义人们将为了义而遭到逼迫,甚至连这一点我们新天地也在成就着。与旧约中的先知们、耶稣及其门徒们一样,新天地的代言人,他既不是神也不是耶稣,仅是在末世蒙耶稣所拣选的作为代言的使者(启1:2,22:16)。正如在启示录中所记载的,这位代言的使者接过了被展开的书卷(启第十章),并用自己所见证的道战胜了对抗主的恶势力(启12:11)。同时他不仅通晓了在这世上无人知晓(赛29:9—14,启5:1--3)的启示话语,而且还担当起了传扬讲授此道的使命。也正是因为这世上的神学博士、牧师和各教团的掌权者们均不知晓这启示的道,所以这些人妒嫉这传授真理之道的人,于是他们便捏造谎言批判这通晓了圣经的人。但是与其心怀不满、妒嫉逼迫,还不如相信这所有的事情都是靠着神的能力而得到了实现的,并把所有的荣光和赞美都归于神。只有这样做的人才能算是个真正信仰人。这位通晓了天上启示话语的人对圣经的了解,远远地超过一般牧者的知识和想象范围。迄今为止已经有数万名的查考圣经的人既亲耳听到、亲眼看到了这些道已成为了肉身,而且还在为此做着见证。

对于“默示”,在神所预定的应验时限到来之前,是被严严地封住了的。所以人们不得不领受人的吩咐,这也是情非得已的事情。但是若有人仅是为了得到一个张神学博士学位而强解圣经的话,那么这个人便是违反了神道,而且他的主张也不可能成为真理。神与耶稣有且仅有一位,圣经书卷也是有且仅有一本。同样展开这书卷的有且仅有一位,而且接过吃掉这被展开的书卷并为此作见证的也是有且仅有一位(启第五章,第十章)。这些来到这位传扬启示真道之人的面前学习真神学的人才是遵行神旨意的真信仰人(各国、各族、各方、各民)。在这世上,除了这位蒙拣选的约定的牧者之外,还有谁(哪一位牧师)有大智慧能为这启示录全卷的预言和应验了这预言的实像作见证呢?

接过了这被开启了书卷的这位约定的牧者,他的学历和经历等可概括如下:在农村出生并长大;在6.25战争(中国称之为抗美援朝战争)时曾入伍参了军。他虽然没有加入过任何的教会团契,但无论早晚他都从未停止过祷告。而且还保持着每星期天都到山上做礼拜祈祷,而且晚上奉读一章经文后再睡觉的习惯。平时,即便是在白天,他也看到了天上的星星。在连续祈祷的第三天,他感觉到天上的星星离他很近。从那时起便开始出现了大乱,但是这大乱成为了其去教会的契机。就在当天,他跑到山上与神用血立了约。此后,他见到了乘云而来的主,而且还得到了耶稣按手。在耶稣的指示下,他将自己所看见的,和现在的事,并将来必成的事都以书信的形式写了下来,且晓喻给了七个教会的七位使者。此后,他从天使那里接过了被展开了的书卷,同时还在指示下把这启示的道传给各国、各方、各民和各王。因为那时的人们都已经成为了异邦的俘虏。也就在得到了指示之后,他选择离开了农村的家,到由主所指示的地方去传扬神的道。并且他在与对抗者争战的过程中得了胜后,得到了创造十二支派的命令,创造出来了十二支派。这些都应验了在启示录中预言。虽然对于这些事情,就像初临时一样,不了解圣经的人并不相信所发生的一切,但是真正了解话语的人都会在确认之后相信并顺从此道。

在两千多年的历史当中,对于通晓了被封严了的书卷这件事情的重要性,没有任何一件事能与其相提并论。但事实并非如此,这何等可贵的事情却遭到了来自于属魔鬼的无知之人的唾弃。我们不要以自己的意志为转移,也不要以貌取人,愿我们每个人都能领悟到这位牧者接过并吃下的启示的话语对我们来讲是何等的重要。因为这话语就是能赐予我们永生的必不可少的粮食。就像“太古以后初乐道”一样,对于通晓了这句话真谛的人,这启示的话语就相当于他们永生的饮料(生命水)。这位约定的牧者不仅领受了启示的真道,而且还得到了在启示录第二、三章中所约定的福分。我们不要重蹈仅行迫害的祭司和魔鬼的覆辙,就让我们怀着一颗善良的心祈祷祈求,能够得到神所赐予的圣洁的福分吧。就让我们一起跪下来向神悔改祈祷吧。

新天地耶稣教,正在为普天下的圣徒祈祷,就像挪亚、摩西和耶稣一样,求神保守所有的选民们,愿所有的人都能得到真正的救恩。

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2014년 12월 8일 월요일

宗教与宗教界的现实

宗教与宗教界的现实



在这个世界里有基督教、佛教、印度教、伊斯兰教、犹太教等各种形式的宗教,并且各宗教均都拥有各自的经书。然而,无论是哪一种宗教,都没有任何一处真正通晓了并传授自己教派经书的地方。因为不理解经书,所以就不能会意其中的真谛;因为不能会意,也就无从谈及对其中旨意的真正信心了。虽然道教人士们所等待且盼望的是东洋先知书里所记载的正道灵和宗教的主人天神,但我们基督徒们所企盼的是真理之圣灵保惠师(约 15:26,约 16:13)。正道灵所指的也就是真理之圣灵,即正道之灵。可惜, 正如耶稣所说的(启 2章,3章),即便是真理之灵已经来了,但若没有能听懂圣灵话语的耳朵的话,又怎能领悟其真谛呢?

在圣经里耶稣约定将差遣真理之圣灵保惠师(约 14:25-26,约第十六章),所以我们所有信仰人都在企盼着他的来临。在应许了的真理之圣灵保惠师来作见证之前,没有人能够传讲真正的正道。

我们新天地耶稣教自创建以来从未说过仅有马太福音第二十四章是末世论类等似于这样的话。反倒是某些教团硬是无中生有地说我们新天地主张唯有马太福音第二十四章是末世论。并以此为由,更是把异端的罪名强加在我们新天地的头上。在旧约圣经以赛亚书第二十九章 9-13节里记载着,圣经在先知和先见们看来如同封住了的书卷,没有人能会意其中的真意。因此,众牧者都变成了瞎眼领路(参照:赛 42:18-19,太 15:14)。在这种情况下,耶稣来到这些人的中间,展开了被封严了的书,传讲以展开了的启示之道。就在这个时候,仅领受了人诫命的人们,视耶稣为异端,是被鬼附了身(约第八章)。小巫见大巫,如今也是同样,真理的圣灵保惠师来到这个世上,展开了在启示录第五章中所被严住了的书卷,并拣选了一位合其心意的使者为此做见证。因此从未见过且听过记载在书卷上话语(启示)的人,视这传扬真道的人为异端。但实际上,神与耶稣所应许的就是真理的圣灵保惠师及神的书卷启示之道(约 14:16,26,太 11:27,启 10章)。

应许的真理之灵保惠师临到新天地耶稣教并且正传讲着正道。无论何人与其行逼迫,倒不如首先尊听启示之道,以圣经为基准来确认其道是否与圣经相符,最终必得醒悟。凡通晓的人必蒙福中之福(参照:约 14:29,启 1:1-3)。

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