2014년 12월 11일 목요일

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

(本文:ホセ4:6(イザ29:9-13))




●約束の御言葉とその意味

信仰人は誰でも聖書を持っていて、教会に行く時も聖書と賛美歌(本)を持って行く。

聖書の内容は、大きく四つに区分できる。歴史と教訓と預言と成就である。預言は天の秘密なので、ほとんど比喩で記録されている。この比喩を悟れなければ、外人になり、罪を赦されないと記録されている(マコ4:11-12)。

イザヤが言った内容を見ると、預言者と先見者たちが盲人になって、聖書はまるで封じられた本のようで、教えて学ぶ事は、人の戒めなので、口では主に近づくが、その心は、神様から遠く離れたと言った(イザ29:9-13)。

イエス様も、マルコの福音書12章に、「あなたがたは聖書の御心をわからず、思い違いをしている。」と言われた(マコ12:18-27、マタ22:23-30)。それだけではなく、啓示録5章に見ると、神様の右の手に本があるが、内側にも外側にも記録されていて、七つの印で封じられていると言う。天上天下に、この本を開いて、七つの印を解く者も、読む(見る)者もなく、この本を開いて、七つの印を解く者は、イギンジャ、イエス様以外にはないと言った。イエス様は、この本を開いて、成し遂げられて、今日、この地のイギンジャに与えて、あかしさせられたので、読む者は、本を受けたイギンジャであり、このイギンジャ、すなわち、本を受けた者を通して啓示の御言葉を聞く事ができるのである。

また、記録されたように、啓示録22:18-19には、啓示録を加減すれば、天国に入れず、のろい(災害)をさらに受けると言われたので、加減する者にならないようにしなければならない。

聖徒は、預言、すなわち、約束の御言葉とその御心を知っていてこそ、預言が成就された時、信じて守る事で、救いを得る事ができる。

●聖書の知識

初めの御言葉を道だと言ったので、すなわち、天国に行く道である。

この世の中にも法(国法、国際法など)があるように、天の国にも法があるので、すなわち、聖書全書である(ヨハ12:48、啓20:12参考)。この世にも知識人と無知な者がいるように、信仰世界にも知識人と無知な者がいる。神様が「わたしの民が知識がないので滅ぼされる(ホセ4:6)。」と言われたので、この知識は、聖書の御言葉を指して言われた御言葉である。それゆえ、聖書の知識がなく、啓示録を加減すれば、天国に行かれないと言ったのである。わからなければ、学ばなければならない。

・「聖書」の意味と改訳ハングル版

  ・「聖書」の意味:「聖書」とは、「聖なる本」という言葉である。聖書全書という事は、66巻を集めて一つ

にまとめたという意味である。

  ・改訳ハングル版:韓国語でできた改訳版という意味である。これは大韓聖書公会で作った本である。旧約の目録があり、旧約が終わった後、新約の目録が出て来る。旧約が39巻であり、新約が27巻である。記録者と記録した章数が出ている。

なぜ、聖なる本と言ったのか?記録者は人で、記録者に語れて、見せて下さった方は、天地創造主、神様であられるので、神様の御言葉を聖なる本、すなわち、聖書だと言ったのである。

・聖書を読む姿勢

どんな姿勢で読まなければならないのか?聖書は、世の王や大統領の言葉など、人の言葉ではない。それゆえ、始まりから一言、一言、用心に用心を重ねて、心の板に刻まなければならない。それだけではなく、本の御言葉を見る時、神様を見るようにして、祈る心と信仰で読まなければならない。

・聖書を読む方法

聖書を読む時は、聖書の本の表紙と記録された目次を見た後、旧約聖書の最初である創世記の1章1節から詳しく読まなければならないし、読み始める時と終わる時ごとに祈らなければならない。読んだ御言葉が心になければならないし、その御言葉を呼吸のように考えなければならない。聖書の御言葉は、神様の教訓であり、自分の精神(心)のまことも食物である。

記録者はいつの誰の子どもで(系図)、内容は、何について神様から見て聞いた事だと記録されている。そして、1章から終りの章まで読む事によって内容をわかる事ができる。

読む時も、聞く時も、六何原則に基づいてしなければならない。すなわち、「誰が、いつ、どこで、何を、どのように、なぜしたのか?」を考えて、読まなければならない。

聖書の内容に出て来る人々(存在)は、「地」ではだいたい選民たちであり、「天」では、神様であった。そして、見て聞く者は、記録した人(預言者など)である。聞いて、見て、記録した人の文章を見る「私」(聖書を読む者)である。

読んで見る理由は、神様と預言者が記録した御言葉(内容)が何を語られたのかを知るためである。読む時、理解できなかったり、わからない内容が出て来る時には、その聖句を別途記録しておかなければならない。

・聖書の内容

過去の歴史の中にあった事柄があり、神様の教訓の御言葉があり、将来にあるようになる預言があり、この預言を成し遂げる約束の牧者と預言が成就されたものがあり、未だに成し遂げられないものがある。

時代的には、昔のもの(過去の事)があり、新しいものがあり、昔の約束を成し遂げた事があり、成し遂げられる事を約束したものがある。ノアの時、モーセの時、イエス様の初臨の時の働きは成し遂げられたのであり、新約で約束した啓示録は、成し遂げられる事を預言したものである。旧・新約聖書のうち、啓示録以外は、全て成し遂げられたのである。

・聖書全書のまことの意味を知るためにわからなければならない順理

1.  まず、聖書を読む事である。

2.  聖書についての常識(聖書の勉強過程の幼稚園の水準)をわからなければならない。

3.  初等過程の勉強:比喩についての実体を勉強する。

4.  中等過程の勉強:各章に入って、預言とその成就について勉強する。

5.  高等過程の勉強:新約の啓示録の預言とその成就について勉強する。時代ごとに選民がいて、この選民が背教して、敵対者、滅亡者がいて、救い主がいた。

記録された例を見ると、選民の背教と異邦の滅亡者と約束の牧者、救い主が出現して、聖書に記録された自分の働きを成し遂げる。この三つの存在の行動を見て、背教者と滅亡者をわかる事ができ、救い主をわかる事ができる。この三つの存在を知らせたものが、約束の御言葉である預言書である。この三つの存在をわからなければ、救い主を滅亡者、または、背教者として誤解するようになる。

創世記のアダムの時から6千年間の歴史の中にあった事件を見ると、一つの時代が腐敗した時、新しい時代があるようになり、新しいもので創造されるようになる。この時の事件は、まず、自分に聖書の知識があってこそ、悟るようになり、区分する事ができる。

神書である聖書を読む事は、神様の心をわかる事であり、時と約束をわかるためである。悟って、信じて、信仰をするという者が、世的に高くなろうとするため、また、権威や富貴や世の誇りや名誉のため信仰するのは、かえって、自分に害になる。悟れば悟るほど低くなって、死から命に走って行く心情で自分を否認して、新しい人に創造されて、新しい被造物として新しく生まれるために信仰人にならなければならない。

聖書の一つの聖句(イエス様の御言葉)を見てみよう。

(ルカ14:25-27)さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

聖書のまことの意味を悟るならば、イエス様の御言葉のまことの意味をわかるようになるだろう。

私たちの信仰の目的は、永遠の刑罰の地獄から永遠の命の天国に入る道の信仰である。アーメン!



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