2015년 1월 31일 토요일

腐敗と滅亡と再創造

腐敗と滅亡と再創造

本文:哀1-5章、啓21章(啓22章)

 

誰が、いつ腐敗して、滅亡され、再び創造した世界は、どのようなものなのか。
 
 神様は、腐敗した一つの時代を終えられて、新しい時代を創造された。これを神様がモーセに語られたものが創世記1章である。詳しく読んで見よ。
 神様は、腐敗したアダムの世界を洪水で滅ぼされて、ノアの世界を立てられ、この後、腐敗したノアの世界を終えられて、モーセを通してイスラエルの国を立てられ、その以後、腐敗したイスラエルのソロモンの世界を終せられて、イエス様の世界、霊的イスラエルを立てられ、再臨の啓示録の成就の時は、腐敗した霊的イスラエルを終えられて、霊的新しいイスラエルを創造される事を約束され、その約束が、今日、成し遂げられている。イエス様が新約に約束された事は、今日、成し遂げられている、これである。

 いつの時代にかかわらず、神様は、その時代が腐敗する時は終えられて、新しい時代を創造された。
 神様は、モーセが目的地に到着できなかった時、その代わりにヨシュアを立てられて、神様の約束した目的を成し遂げられた。この事実がわかったら、今日の私たちは、どのようにしなければならないのか。腐敗をなくさなければならない。
 創世記6章で見たところ、神様は、罪と共におられない事がわかった。そこで、罪を犯す事を見ても、受け入れる事ができるのか。罪を受け入れるならば、罪悪の世界になり、人類の世界が滅亡されるようになる。では、神様が約束された啓示録の新しい時代の人々は、どのような者にならなければならないのか。罪を受け入れてはいけない。罪を犯す者は、神様の種で生まれた者ではなく、罪を犯させる悪魔の種で生まれた者である。悪魔が入れば、悪魔の行動をする。このような者によって全てが滅亡されるようになる。

新しい時代の約束の牧者は、永遠に生きる食物と審判する白い石と万国を治める鉄の杖を持って来た(啓2、3章参考)。啓示録19章(11-16節)に、白い馬に乗った者は、血に染まった衣を着て、その口からは鋭い剣が出ている。どうして悪魔と罪が受け入れられるだろうか。神様は、罪人も、悪魔も受け入れず、終えられて、新しい時代の人を創世記1:26-28のように、再び創造される。
 エレミヤは、神様の御言葉を23年間(エレ25:1-4)聞いた事を52章まで記録して、また、哀歌を記録した。罪の結果がどうなのか、哀歌を1章から5章まで読んで見よ。この章を見たところ、神様は、ご自分の民、ご自分の首長たちに向かって、弓を張り、ご自分の幕屋、ご自分の国の角を折った。なぜ、ご自分の幕屋、ご自分の首長、ご自分の民を敵のように破壊して、滅ぼされたのか。腐敗した罪のためである。

 聖書の約束通り、私たちは新しい時代、新しい人、新しい国、新しい牧者を願い、神様の国、天国を望んで、永遠の命を願って、信仰をしている。この希望に至ることができるのは、ただ、神様の戒めを守る事である。神様の戒めのうち、最も大きなものは、約束を守る信仰である。終末になった理由は、信仰人の腐敗によるものである。

 旧約の預言者たちを殺した者たちは、神様を信じる正統だと言う牧者たちであったし、イエス様とその弟子たちを殺した者たちも、正統を誇る神様の聖殿、エルサレムの牧者たちであって、再臨の時、成し遂げられる啓示録の事件でも、約束の牧者を迫害するのは、牧者たちであることを聖書は語っている。
 安逸で、高慢で、聖霊で始まったのに、肉に戻って死ぬ、すなわち、名誉と権威とお金のしもべになったので、腐敗が始まったのである。
 ノアの家族と肉的イスラエルが、各々アダムの世界の滅亡とカナンの世界の滅亡を見たが、彼らも最後まで自分の信仰を守れず腐敗し、イエス様の再臨の時の霊的イスラエルの腐敗も、啓示録は詳しく語っている。

 私たち(信仰人)に近づいて来る国は、約束の新しい国であり、神様が共におられる天国である。この世界でまたしても背教があるべきなのか。またしても滅亡があるべきなのか。またしても審判と救い主が来なければならないのか。
 だから、汚れた者、信じない者、腐敗した者はいのちの書から除外され、消し去られ、除去され、天国に入れない。天から来た聖なる都、新しいエルサレムは、聖なるものであるからである。
 モーセの時、幕屋と契約の箱があり、そこには誰も入る事ができず、罪人が移動する幕屋に手を触れたらすぐに死んだ。そこには、いと高き、聖なる神様がおられるからである。モーセの時、イスラエルの民が神様の声を聞く時、息も止まるようになり、こうだから、彼らが「神様がモーセを通してお話になって、私たちに直接お話にならないように。」と言い、「私たちはモーセを通して聞きます。」と言った(出20:18-19)。
 罪人が、神様のおられる神様の国、天国に入る事ができない理由がこれである。これでも罪を犯すのか。こうだから、汚れた者は入る事ができない。

 だから、神様が神様の種で生まれさせられ、神様の種で生まれた者だけ収穫されて、彼らに印を押されられて、水晶のような命の水で衣を洗って着させられ、新しく生まれさせられ、天民にならせられたのである。
 今日、新しい時代を迎えた信仰人は、神様の御心通りにした者、すなわちマタイの福音書7:21-27の御言葉通りに守る者であってこそ、天国に入る事ができる。これを肝に銘じなければならない。信仰人が天国と永遠の命を得られなければ、信仰する価値があるだろうか。

 私たちの目的と希望は、天国と永遠の命である。信じる者は、希望に至るだろう。アーメン。

2015년 1월 30일 금요일

迫害する者と迫害される者

迫害する者と迫害される者

本文:マタ5:11-12(使7:51-53、マタ23:30-36、
ヨハ16:1-4、ルカ20:9-15)


迫害をする者は、どのような者で、迫害される者は、どのような者なのか。迫害をする者は、悪魔の所属の牧者であり、迫害される者は、神様の所属である。

これは、旧·新約の歴史が良く物語っている。時代毎に神様とその所属の牧者が働くたびに、サタンの牧者が侮辱し、迫害し、殺した。迫害者は不信者や異邦人ではなく、神様をよく信じると言い、正統だと言う選民の牧者であった。

イエス様の初臨の時、神様とイエス様はイスラエル、すなわちユダとエルサレムの聖殿に来られ、自称、正統の聖殿であり、選民であるエルサレムの牧者たちがイエス様を異端または悪魔と言って殺した。この迫害者たちは誰の神(霊)を受けた者だろうか。
見た目は人であり、牧者であるが、その中身はサタンの神が共にする者であり、その教徒は、サタンの牧者からサタンの教訓を受けて食べている実情であった。だが、この牧者と教徒がこの事実を知っていただろうか。だから、イエス様は、彼らに「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と言われた(マタ23:33)。
どういう事なのか。主人であられる神様が離れて行かれた地球村は、サタンが治めて来て、神様を信じて教える牧者の中に、サタンが主管していたという結論が出る。イエス様は、この事実を知らせ、この事実が伝えられることによって、サタンの牧者がイエス様を殺したのである。

ここで問題になる事は、人々が口だけで神様を信じるという事一つで信仰をして来た事である。信仰人は、神様とその御言葉を信じなければならなかったし、悟らなければならなかった。だが、彼らの中に約束の御言葉がないが故に、神様もサタンも見分けることができなかったのである。神様とイエス様は御言葉であり(ヨハ1:1)、イエス様は御言葉が肉体となって来られた方であった、この御言葉を知っている者が聞く耳のある者であった。

旧約を成し遂げられたイエス様は、新しい契約を預言で約束され、約束されたこれが新約であり、啓示録である。この啓示録が成就される時、この啓示録(預言)の御言葉の意味がわからなければ、どうして信じる事ができるだろうか。記録されたように、啓示録を加減できないようにされた(啓22:18-19)。だが、今まで地球村で、この啓示録を知っている牧者は、ただの一人もいなかった(新天地の勝利者と聖徒たち以外には)。この言葉は、救われる者が一人もいなかったという言葉になる。しかし、信仰人たちが高慢な考えで、自分たちが正統であり、救われると思って、「聖霊充満」を叫ぶのはだます事であり、従って、彼らは偽りを言う者になったのである。

選民が惑わされ、欲心と犯罪によって、サタンがその人の中に入ったのである。信仰人であっても、信仰と行いが変質すると、エバのように、バラムのように、カインのように、サタンの所有となって、サタンの家になるのである。欲張って権勢を振るって、主観的·恣意的な行動をするならば、サタンのようになるのである。第二ペテロ2章とユダの手紙で「背教して党派を作り、昔に戻って、悪人の行動をする。」と言われた、その御言葉のようになるので、常に自分を低くしなければならないし、ひたすら御言葉を悟って信じる事にだけ、力を尽くさなければならない。

神様は高慢で、高くなろうとする者を憎まれる。サタンがこのような行動によって背教して敵となったからである。誰でも神様から離れるならば、敵となり、仇となり、迫害する者となる。その行動とその言葉を聞いて見れば、変質した事がわかり、敵対的な言葉なのか、足しになる言葉なのか、わかるだろう。
迫害を日常的に行う者がいて、迫害される者がいる。何のためなのか。もちろん、その中の神(霊)が異なるからであろうが、考えと心が異なって、言葉が異なり、行動と目的が異なるからである。

神様は、奪われた神様のものを取り戻すためであり、サタンは自分が惑わしで奪って主管する世界を返さずに所有するための作戦である。一つはいのちの権勢であり、一つは死の権勢である。初めから互いの間の争奪戦は、人を中心としたものである。

神様は預言者を通して成し遂げる事を、先に預言されて、宣べ伝えた後、来られて、約束通り成し遂げられた。これは、人をして、見て悟って信じさせるためであった。しかし、善悪の知識の木の実(善悪の実)によって変質した人は、神様よりサタンの成分がもっと多いので、神様の御言葉を熱心に信じず、聞き流した。約束を成し遂げても、信じなかった理由がこれである。
今日、新約の啓示録から加減すれば、天国に行けず、呪い(わざわい)を受けると言ったが、人々は啓示録を知るため、どれくらい努力しただろうか。
記録されたように、迫害されている者は幸いだと言われた(マタ5:10-12)。迫害される事を、どうして幸いだと言えるだろうか。迫害される理由は、神様と神様の働きを伝えるためであり、神様とその働きを信じるからである。迫害される事を幸いだと言えるのは、迫害される者が天国と永遠の命を得るようになるからである。しかし、迫害する者は、自分の行いに従って呪われて、地獄の硫黄の火の池で永遠の刑罰を受けるようになる。この事実を知っている者は、迫害される者であり、迫害する者は、この事実を知っていないので、迫害するのである。時代毎に一番迫害を多く受けるのは、約束の牧者である。神様とイエス様は、この事実をご存知である。

今日は機械が発達して、アンチカフェを通じて全世界が全てわかるように迫害する。迫害者はサタンの牧者たちと背教者たちである。彼らがどうして地獄の刑罰を逃れる事ができようか。
「私が生きるためにあなたには死んでもらう。」と呪うならば、真の信仰人と言えるだろうか、その心が神様に認められるだろうか。悪を悪で返さず、善で勝利して、彼のために祈らなければならない(ロマ12:21、Iペテ3:9)。イエス様は「父がわたしを愛されたように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とヨハネの福音書15章に言われた。これが神様の戒めであり、イエス様の戒めである。イエス様は、愛によって私たちのために代わりに死んで下さった。
神様は愛だと言われたし、愛のある者は、神様(イエス様)に属した者であり、愛のない者は、神から生まれた者ではないと言われた(Ⅰヨハ4章)。
神様のまことの愛を信じる者は、隣人に悪口を言って、呪う言葉を聞く時、一番聞きたがらない。イエス様は、敵をも愛しなさいと言われ、敵が飢えるならば食べさせなさいと言われ、あなたに一ミリオン行けと強いる者とは、いっしょに二ミリオン行きなさいと言われた(マタ5:41-44)。

本当に神様とイエス様を信じる者は、その戒めを守る者である。迫害する者は、神様から生まれなかったからであり、愛がないからである。Ⅰヨハ4章5-11節を読んで愛のある者になろう。

[Ⅰヨハ4:5-11] 彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。6私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。8愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

2015년 1월 29일 목요일

信仰と惑わし

信仰と惑わし

本文:ユダの手紙(マタ24:4、ルカ13:23-30、ガラ3:23-29)


信仰と惑わしはどのようなことを言ったのだろうか。

パウロはアブラハムを信仰の父祖と言い、アブラハムについては「行いによっては義と認められないが、信仰によって義と認められた。」と言った(ロマ4:1-11)。
惑わしについては、イエス様が終わりの時、人に惑わされないように気をつけなさいと言われた(マタ24:4)。創世記3章に、エバが蛇に惑わされて善悪の知識の木の実(善悪の実)を食べて死んだ。このアダムとエバが惑わされた後、身を隠し、神様の御前に現れもせず、惑わされる時も神様に尋ねもしなかった。これは、すでに精神が蛇に奪われたからである。
 
マタイの福音書4章で見たように、イエス様は蛇、すなわち、悪魔の試みにあった時、御言葉によって戦って勝利した。今日、私たちの中では大勢の人々が敵の群れの試みに会って惑わされたが、勝利した者たちがたくさんいる。記録されたように、サタンも自分を光の御使いに変装し、サタンの手下どもも義のしもべに変装すると言った(Ⅱコリ11:13-15)。私たちの信仰は、人の肉体よりもまず、御言葉である。御言葉があれば、試みから勝利するだろう。

試みる者がいて、A、B、Cの人がいる。AとBは試みから勝利した。Cは試みに負けた。勝利した者と負けた者がいるので、彼らは各々どのような者なのか。AとBは御言葉が十分にあり、一方、Cは勝てる御言葉がなかった。啓示録13章に、天の幕屋の人々が竜の七人の牧者が入って来た時、勝利できず、負けたと言い、竜の群れが勝利することによって聖徒たちの手と額に自分たちの名前で刻印を押して、刻印を押された者たちは、獣のような牧者に拝んだと記録されている。だが、啓示録12章では、子とその兄弟たちが竜の牧者と戦う時、あかしする言葉で勝利したと言った。このように、御言葉のある者は、彼らの行いを見て、サタンの牧師であるとあかしする事によって勝利する事ができるのである。

イエス様はマタイの福音書7章に、その実によってその木を見分けることができると言われ、知る事によってあかしして勝利するのである。ガラテヤ人への手紙3章に、啓示の信仰が現れた時、啓示の御言葉で勝利する事によって、勝利されたイエス様と一つとなり、相続を共に受け継ぐ事を語られた。口先だけで信じると言いながら啓示の御言葉がない者は、形式的な信仰人なので、試みが来る時、耐える事ができず、負けるようになり、負けた者は、利した者のしもべになるのである(Ⅱペテ2:19)。

ユダの手紙は、イエス様の弟子であるユダが記録した。17節には「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」と言った。

私たちの中から出て行った者たちがユダの手紙のように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、党派を作った。これは使徒たちが前もって言った事と同じで、第二ペテロ2章に、バラムのように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、昔の所(昔の教団)に戻って、またそこ(泥の中)に転がって、昔のもの(昔の教団の非真理)を再び食べているので、これは、豚が身を洗って、また泥の中に転がることとなり、犬が自分が吐いた物に戻ることとなるのである。
現在、私たちから出て行った者たちが、このようではないのか。マタイの福音書12章43-45節を見ると、悪霊が人から出て行って、出て来た自分の家に帰ってみると、家は空いていて、掃除してきちんとかたづいていたので、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て入り込んだ。そうしたら、その人の後の状態は初めよりもさらに悪くなったと言われた。私たちから出て行ったこの人は、プロテスタントから来て、以前の敎の悪霊が離れて、私たちに来て、その家(心)が御言葉で掃除された。彼が背教して、昔の所に返って、昔の悪霊が掃除された彼の心に七つの悪いほかの霊を連れて来て入り込む事によって、昔よりも七倍もさらに悪い行いをするので、これは御言葉通りになったのである。今の現実がそうではないのか。見てもわからないと言うのか。死んだ者でなければわかるだろう。このような者に惑わされたのなら、信仰も御言葉もない者ではないだろうか。

信仰の兄弟たちの中には、ヨブのように全身が踏みにじられていても、心の信仰は変わらない者がいて、両手両足、体が丈夫でも、信仰がなくて惑わされて、堕落した者がいる。私も苦痛の中にいた時、信仰がなかったら、今の私はいないだろう。その苦痛を、どうやって言葉で言い表す事ができるだろう。御言葉を本当に悟って信じているのに、どうして惑わされることができるのか。なぜ御言葉を信じないのか。

今日の私たちは、預言の御言葉が肉体となって現れたので、預言とその実体までも見て信じている。どんなに大きな信仰なのか。これを信じない者は、信じる者ではない。神様も私たちの信仰も、約束した預言とその実体がある。ルカの福音書13章の御言葉を私たちは常に覚えておこう。裏切って出て行って、再び戻ろうとした者たちもいて、いま先頭の者がしんがりになり、今しんがりの者があとで先頭になるとしたその御言葉(ルカ13:25-30)を覚えなければならない。惑わされた者は自分を隠す、アダム·エバのように。これが惑わされた証拠である。

私たちは、信仰によって永遠の命を得て、天国に入る資格を得たのである。最後まで私たちの信仰を守る事によって、希望に入るようになる。アーメン。

2015년 1월 28일 수요일

私のする事と使命と約束

私のする事と使命と約束


 私たち聖徒の中には、未だに私をよくわからず、私のする事もわからないので、誤解する人もいるように思われる。

 第一、約束の御言葉を信じよう。私は、とても時間が足りない、死んだ者でもできるならば、働かせたい。イエス様も、市場で遊んでいる人を働かせようと連れて来たと言われた(マタ20:1~7)。
 仕事がない人は、空想が多く、仕事がないので、他の人がしている事を悪く言って、干渉する人である。

 私は、聖書で語っている事のように永遠の命の食物と、白い石と、万国を治める鉄の杖を持って来た(啓2、3章)。そして、今、万国を治めている。その多くの映像を見ても悟れないのか。
 見ても悟れない者は、死んだ者であり、呪われた者であり、悪魔の神を受けて、迫害する者だろう。見ても、聞いてもわからなければ、何によってわかるようになるのか。

 私は、一つの教団でも一介の一国でもなく、世界を相手に治めている。これは、万国を治める鉄の杖を受けた使命を果たしているのである。だから、忙しくて、一番忙しい。
地球上の数多くの著名人たちにイーメールで手紙を書かなければならないし、送らなければならないし、その国の言葉で翻訳しなければならないし、送らなければならない。また、各国の数多くの著名人たちのイーメールを受け取って、翻訳して見なければならない。各国の前・現職の大統領、各国の大法官、各国の女性グループ、各国の青年グループ、各国の大学の総長および大学生たち、各国の平和グループ、各国の宗教の代表や指導者たちとやり取りするイーメール、各国に送る手紙と映像物(DVD)、各国の宗教連合事務室と宗教・経書統一の作業、各国の外国人の御言葉の勉強のセンター運営、海外の新天地の教会と国内の新天地の教会の統治、これが万国の統治である。

 どれくらい忙しいだろう、どれくらい仕事が多いだろう、どれくらい苦しいだろう。 座っても立っても、行っても来ても、食べても寝ても、ただ頭の中の考えは、いまずまに乗って回っているようで、精神に響く音は雷鳴のようで、心は、地球上を数十回も回り続ける。受けて送って記録して翻訳してコンピューターは休む日がない。なぜ、こんなにも忙しいのか。目が回るほど忙しい。
 地球を回りながら心の家も建て、彼らを教える研修院も建てた。農業もして、果物の木も植えて育てた。働く忙しい心情、わからず誤解する人々、本当に気楽な人生を送っている。なぜ私はこんなにも忙しいだろうか。夜も昼もない。こんな中でも本を7冊も書いたが、これは誰のためなのか。聖徒たちの知識のためである。私が書いた本を見ながらも、私の心情がわからず誤解する人々、薄情だ。本当に薄情だ。

 人ならば、知っているはずなのに、使命のために、私のように一度して見る考えがないのか。一度走って見よ。できるのか。私がしている事が何々か、知っているのか。私がどれくらい寝ていて、どれくらい働いているのか、知っているのか。盗人は盗む事しかわからず、迫害者は迫害する事しかわからず、遊ぶ者は遊ぶ事しかわからない。する事がない人が、たわごとを言って、問題を起こす。私は罰を与えたくても時間がなく、賞を与えたくても時間がない。働く人に向かって悪口や陰口を言う人は、時間が多いので誤解して問題を起こし、しなさいと言う伝道はしない。申命記32章に、最も良いものを食べさせたのに、むさぼり食って、肥え太って、異なる神々に仕えたという言葉のように、私は人類の歴史上、最高の初楽道を食べさせてあげた。このように受けて食べた者がアダム・エバのように、問題を起こすならば、獣よりも悪いだろう。獣もノアの時、救われたのを見た。だが、怠けて口数の多いばかは救われない。脱落してはいけないという事を知っているならば働きなさい。今は、死んだ霊たちも起きて働いている。

私は、地球上を回り続けて行きながら、時にはラーメン、時にはおこげを食べながら38,000フィート(約11,500M)の上空の飛行機の中でも文書を書いて働いた。私は今85歳。生きている者なのか、死んでいる者なのか、地下にいるのか、地上にいるのか、天空にいるのか、空をも飛んで、雲の中でも回って、暴風にも、霧雨にも打たれながら、ひたすら私の神様が来られて統治される世を造ろうと身もだえしている。私は私の家も、私の体もなく、万民にすべて与えて、何もない。ただ神様の働きのために。
一度でも、私が24時間する事を考えて見よ。考えてみたのか。肉的に人に付き合って、肉的に愛して、希望を捨てて、神様の御言葉を信じず、苦労をしても、その苦労をどこに使うだろうか。
まだ肉体と世の考えだけに染まって、私を判断する人がいるならば、ありがたいが、先に自分の人となりを考えなければならないだろう。イエス様とマグダラのマリヤは恋愛したのではなく共に働いたのであった。私もそうである。この、仕事もできないように問題を起こして、誤解する人がいるならば、その者は信仰人ではないだろう。

今日、啓示録の預言が肉体となって現れた。これを見ても信じないならば、立ち去るのが正しいだろう。聖書の66冊で、働いた事と成し遂げる事と信じるべき事は、ただ啓示録の成就である。私はこの事に、私の体を捧げた。そして、休まず働いている。信じず背教する行為をする者は、審判の日に、再び会うだろう、神様の御前で。

命がけで積み上げた新天地の初めの愛、
聖書の中に彩られた彼らの姿、
血よりも濃い愛、背教者は知らない。
涙を飲みながら、それでも愛する。

悲痛極まる哀願も、あがいてみても
一度離れた君は再び戻りはしないだろう。
イマンヒ、赤く燃える心情、背教者は知らないだろう。
心をまぎらし、祈りをしよう。

きらきら光るともしびの下、センターに集まって来る
聖徒たちの勉強する声、聞こえて来る。
手を繋いで聖書の中に主と共に歩いて行き、
センターで出会った人、永遠に忘れない。
あああ~~~ 新しい日が明けてくる

昨夜、夢で聖霊の夢を見た。
聖徒たちよ、陽気に楽しもう。讃美で叫ぼう。
天に名前をかけて、故郷に錦を飾るその日には
何を神様に買って持っていこうか。
あああ~~~平和の国。

2015년 1월 27일 화요일

神様の子どもと悪魔の子どもの行動

神様の子どもと悪魔の子どもの行動


本文:マタ7:15-27(マタ13:24-43)

 神様の種で生まれた神様の子どもたちと悪魔の(啓12:9、啓20:2参考)種で生まれた悪魔の子どもたちの行動は、どのように異なるのか。
 イエス様は、「その実によってその木がわかる。」と言われ、「主よ、主よという者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。」と言われ、「その日には、主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行った者に、不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」と言われた。ただ、主の御言葉を聞いて守った者が救われる者だと言われた。

 マタイの福音書23章を見る。
 当時のイスラエルは、世界の民族の中で神様が選んだ選民であり、エルサレムの聖殿は、一番聖なる聖殿であった。当時のエルサレムの祭司長のザカリヤとバプテスマのヨハネが追い出されて、律法学者たちとパリサイ人たちがモーセの座に着いた時であった。このエルサレムの主管者は、誰なのか。エルサレムは、白く塗られた墓であり、その中には死んだ者の骨が満ちていて、主管者たちは蛇、悪魔の牧者であった。もう一度言えば、神様の聖殿が、サタンとサタンの牧者が主管者になったという事である。
 当時のユダヤ人たちがエルサレムの聖殿がこんな所になった事を、どうわかっただろう。

 イエス様は、旧約のエゼキエル37章をあかしして、成し遂げられなければならないので、このエルサレムがエゼキエル37章の現場である事をあかしされた。だが、彼らは、イエス様の御言葉を信じず、ただ、イエス様を殺す事だけに血眼になっていた。その理由は、自分たちの秘密と事実をあかしするからであった。
 今日、啓示録が語った再臨の時は、どうなのか。道を備える者とサタンの牧者と約束の牧者が出現するようになる。この三つの存在を秘密だと言われ、三つの存在は、背教者と滅亡者と救い主である。だが、この事件、啓示録をわかる者は天上天下に一人もいないと言われた(啓5:1-3)。この啓示録を開いて、成し遂げてこそ、神様の御心も、信じる聖徒たちの希望もあるようになる。

 この時に神様から生まれた子どもたちの行動と、悪魔から生まれた子どもたちの行動は、どのように異なるのか。
 まず、時代ごとにあった聖句で見よう。
 マタ5:11-12、マタ7:1-5、マタ23:30-36、使7:51-53、ヨハ16:1-4、ルカ20:9-16。
 これが神様の所属者と悪魔の所属者の行動である。
 迫害する者は悪魔の所属であり、迫害される者は神様の所属であった。

 初めの御言葉から生まれた者は、御言葉を知っていて、悪魔から生まれた毒麦、すなわち、悪魔の子どもたちは、神様の御言葉がなく、人の言葉だけである。彼らに公開討論、及び、対話に招いても出て来ない。その理由は、自分たちの正体がばれるかと恐れているからである。彼らは、名誉と教権とお金を好む。神様の約束の御言葉よりも世の権威と言葉をもっと好む。彼らは、イエス様の戒め、赦しと愛と祝福する事を憎んで、悪口と迫害と呪いと偽りを作り出して、相手を苦しめる。神様の御言葉を語る者を憎んで、殺すまで憎む。イエス様は、敵をも愛しなさいと言われ、敵が飢えれば食べさせなさいと言われた(マタ5:44、ロマ12:20)。一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオンを行きなさいと言われた(マタ5:41)。これが異なる点である。

 サタンの子どもたちは、神様の御言葉を学んで知る事を不満に思って、学べないように、積極的に阻む。御言葉が神様だとも言われた。ヨハネの福音書1:1、第一ヨハネ1:1を見なさい。御言葉を学ぶ事は、神様を学ぶ事である(ホセ6:6)。悪魔の子どもたちは、聖徒が神様を知る事を望まない。だが、人が造った世の神学校では、神様の御言葉がなく、世の言葉があり、世の教会でも世の言葉が出て来て、神様の約束の御言葉よりも世の言葉を教えている。彼らの教育と反対になる事が、すなわち、神様の御言葉である。
 旧・新約の預言者や使徒たちを殺した者は、異邦や不信者ではなく、偽りの牧者たちが同じようにみんな殺した(使7:51-53)。外側は神様を信じると言うが、その内側には悪を吐き出す毒とサタンの神が主管している事は、聖書で見たその通りである。

 神様の御言葉をなぜ、学べないようにするのか。この御言葉の中には、神様と悪魔を悟らせる御言葉があるからである。御言葉がわかるようになれば、まことの神様と悪魔がわかるようになり、まことの牧者と偽りの牧者がわかるようになって、サタンの教徒と神様の聖徒がわかるようになる。サタンの組織と神様の組織がわかるようになって、地獄と天国の道がわかるようになる。預言とその預言を成し遂げた実体がわかるようになる。だが、サタンの所属の牧者たちが神様の御言葉を学べないようにする。
 神様の御心と御言葉がわかるようになる時、サタンは、この地からさらに足を踏む所がなくなって、底知れぬ穴(地獄)に捕らわれるようになって、閉じ込められるようになる。
 もし、御言葉を学べないように妨害する者に真理があるならば、その真理で間違って話した事を指摘するだろう。自分に真理がないので、御言葉で言わず、手段と方法を選ばず、御言葉を学べないように妨害するのである。
 私たち聖徒が偽りの牧者と戦って勝利できる武器は、私たちが知っている真理であり、真理であかしする言葉によって勝利する。

 韓国の韓基総は、イエス様の初臨の時の肉的イスラエルのエルサレムのような所である。当時のエルサレムの牧者たちがイエス様を迫害したように、今日の韓国もそうである。もし、彼らに真理があれば、真理で話すだろう。真理がないので、悪を行うのである。
 韓基総が分かれる前に、チェ牧師を異端鑑別師として立てて、チェ牧師は、韓基総の所属ではない者たちをみんな異端として罵倒した。韓基総が二つに分かれた後、韓基総は、自分が立てたチェ牧者を最悪な異端だと新聞に報道した。最悪な異端を立てた韓基総は、最悪な異端の首領ではないのか。

 韓基総所属の新天地アンチカフェに入ってみよう。何が記録されているのか。新天地についてあらゆる悪口、あらゆる嘘、あらゆる呪い、罵倒と迫害の言葉を、どうして話せるのだろうか。まさに目を開けて見る事のできないほどである。この悪口は、彼らの心や考えから出て来たのである。イエス様は、「口から入るものより、その口から出て来るものが人を害する(マタ15:11、17-20)。」と言われた。彼らが行った悪行は、自分の家庭で学んだものだろうか、学校で学んだ行動だろうか。この青年たちが自分の教会の牧者から指令を受けて、取った行動である。これは腐敗の線を越えて、罪を義とする者たちであり、悪質な教法なのである。彼らが、どうして神様の義の種によって生まれた者だと言えるだろうか。また、この集団が神様の組織体だと言えるだろうか。
 神様から生まれた者は、神様の戒めを守るだろうし、悪魔から生まれた者は、悪魔の悪行をするだろう。だが、その実によってその木、すなわち、その牧者とその神がわかると言われたのである。

 イエス様以後、教会には、二種類の種が蒔かれて(マタ13:24-30)、一つは神様の種であり、一つは悪魔の種であった。再臨の時、神様の種で生まれた者は、収穫されて行って、悪魔の種で生まれた者は、収穫されなかった者たちである。誰が救われた者だろうか。見てもわからないという事は、この御言葉を信じない者である。
 収穫された者と収穫されない者のうち、誰が誰を迫害するだろうか。今、収穫されなかった牧者とその教徒が、収穫された者と収穫して行った者に迫害を加えている。見てもわからないのか。悪行をする者は、悪魔の子どである事を自らあかしするのである。

 聖軍、聖徒にならなければならない。神様の種と霊で再び生まれて、新しい被造物になって、天国と永遠の命を得て、永遠に共に生きる神様の一つの家族になる事を祈っている。アーメン。


2015년 1월 26일 월요일

新約、神様の約束の背教者、滅亡者、救い主の実体

新約、神様の約束の背教者、滅亡者、救い主の実体


本文:Ⅱテサ2:1-12(啓13章、12章)

 神様が約束された新約の背教者、滅亡者、救い主の実体は、誰なのか。背教者は、啓示録13章の選民であり、滅亡者は、啓示録13章の竜の群れ、七つの頭と十本の角を持った獣、すなわち、サタンの偽りの牧者であった。この時、救い主は、啓示録12章の勝利者である。
彼らを知っているか。知っている。見たのか。見た。顔も、名前も知っている。韓基総所属の牧者たちが主張した啓示録に預言された実体のあかしが合っているのか。合っていない。偽りである。

 初臨の時の約束の牧者であるイエス様は、エゼキエル2、3章のように、開かれた本の御言葉を神様から受け食べて(エゼ2:8-10、3:1-3)、成し遂げた事を全てあかしされた(ヨハ19:30)。再臨の時の、新約の約束の牧者は、啓示録10章の開かれた本を受け食べて来て、成し遂げた啓示録を全てあかしする(啓21:6)。
 あかしする内容は、背教の事件と滅亡の事件と救いの事件である。この時、代言の使者の言葉を聞いて、また、代言者を遣わされた方を信じる者は、死から命に移った者である(ヨハ5:24参考)。
 
 神様がノアの10代目の子孫、アブラハムに約束された事は、モーセの時、成し遂げられて、旧約の牧者たちに約束された預言は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた。新約に約束した預言は、啓示録の成就の時、勝利者に来られて全て成し遂げられる。
 時代ごとに神様は、先に後日に成し遂げられる事を約束されて、これが宣べ伝えられた後、これを成し遂げる時、見て信じなさいと前もって語られたのであった(ヨハ14:29)。口で「主よ、主よ。」と言ったと言って、みんな信じる者ではなく、約束(預言とその成就された事)を信じる者が主を信じる者である(マタ7:21-27)。

 使徒パウロは、2千年前、第二テサロニケ2章の背教者、滅亡者、救い主について説明されて、「主が再び来られる事と、主のみもとに集められる事に関して、まずは、背教する事と、選民を滅亡させる者が現れる前には、成し遂げられない。」と言われた。この言葉は、背教者、滅亡者が先に来た後、救い主と救いの働きがあるという意味である。
 啓示録13章に、背教と滅亡の事件があった後、12章で、子とその兄弟たちが滅亡者(竜の牧者)と戦って勝利する事によって、この時から神様の御国と救いがあると言われた。
 イエス様の初臨の時、肉的イスラエルの牧者たちが背教によって(イザ1章)滅亡されて、異邦になった事については、少しも考えもせず、自分だけが正統の選民だとこだわったように、今日も、世の牧者たちが啓示録13章で背教した事と、滅亡された事については少しも考えず、正統の選民だとだけ思っている。また、彼らは、神様が自分たちを愛して、また、自分たちが救われた者だと思っている。彼らは、初臨の時のように、自分自身がわからないでいるのである。
 彼らに、[あなたがたは記録された背教者なのか。滅亡者なのか。」と聞くならば、自分は、救い主であり、正統だと言うだろう。
 しかし、聖書はそうではない。啓示録が成し遂げられたこの時は、背教者も、滅亡者も、救い主も実体が現れて、彼らは、自分について本に記録された預言を成し遂げるようになる。それゆえ、誰が背教者であり、誰が滅亡者で、誰が救い主なのか、その行為がそれを証明する。

 今日の信仰人たちに問題になる事は、第一は、聖徒が約束の御言葉がわからない事が一番大きな事件であり、第二は、自分と自分の教団が聖書が言っているどの所属なのかわからないこと、それである。
 我が新天地は、啓示録13章の事件の時、そこで彼らを見て、そうして、真理の御言葉で彼らと戦って勝利して、そこから出て来たので、第二コリント6:14-18のようになったのである。啓示録の事件の母体と、その事件を現場で見たので、その事件を誰よりもよく知っている。
 啓示録10章では、イエス様が神様の封じられた本の封印を全て解かれて、成し遂げられた後、啓示録1章から22章までの事件を現場で見て聞いた者に来られて、開かれた本を与えて、食べさせて、民族、国民、国語、王にあかしさせられたのである。これが神様の御心であり、啓示の伝達過程である。

 まことに神様とその御言葉、聖書を信じる者ならば、民族、国民、国語、王、すなわち、世の全ての教団(教会)と教徒たちは、啓示の本の御言葉を受けて食べた者の言葉を聞いて信じなければならない。

 この言葉を聞いて信じたのか。神様の御心通りしないならば、救いではなく、審判を受けなければならない。これはヨハネの福音書5:24-29と同じである。
 どんなものが信じる者であり、どんなものが御言葉を守った者なのか。みんな「主よ、主よ」と言っているが、主が再び来られる時、本当に信じる者を見れるだろうかと言われた御言葉(ルカ18:8)のように、腐敗と偽りが幅を利かせているのではないのか。

 私が見たこの時代の人々は、啓示録の約束の新しい国、印を押された12支派以外には、ただの一人も救われる人がいない。
 暗やみの所には、光が必要であり、飢えている者には、ご飯が必要であり、御言葉がない人には、永遠の命の御言葉が必要である。霊が死んだ人は、心がない。行っても、来ても、死んでも、そんな程度しかない。天は、天国と永遠の命をもって訴えても、感覚がない。死んだから。

 私たちは、永遠の命の食物と、万国を審判する白い石と、万国を治める鉄の杖を持って、完成のその日まで休まず走る。今は、まことの神様が統治される時である(啓19:6)。悔い改めて、その御言葉を聞いて、その御心通りにしよう。そして、救いの道に出て行く事を願っている。

 私は、主が諸教会のために遣わされた代言の使者である(啓22:16)。この御言葉を聞く者は、永遠の命の復活に出て来るようになる。アーメン。

2015년 1월 25일 일요일

信仰と惑わし

信仰と惑わし

本文:ユダの手紙(マタ24:4、ルカ13:23-30、ガラ3:23-29)


信仰と惑わしはどのようなことを言ったのだろうか。

パウロはアブラハムを信仰の父祖と言い、アブラハムについては「行いによっては義と認められないが、信仰によって義と認められた。」と言った(ロマ4:1-11)。
惑わしについては、イエス様が終わりの時、人に惑わされないように気をつけなさいと言われた(マタ24:4)。創世記3章に、エバが蛇に惑わされて善悪の知識の木の実(善悪の実)を食べて死んだ。このアダムとエバが惑わされた後、身を隠し、神様の御前に現れもせず、惑わされる時も神様に尋ねもしなかった。これは、すでに精神が蛇に奪われたからである。
 
マタイの福音書4章で見たように、イエス様は蛇、すなわち、悪魔の試みにあった時、御言葉によって戦って勝利した。今日、私たちの中では大勢の人々が敵の群れの試みに会って惑わされたが、勝利した者たちがたくさんいる。記録されたように、サタンも自分を光の御使いに変装し、サタンの手下どもも義のしもべに変装すると言った(Ⅱコリ11:13-15)。私たちの信仰は、人の肉体よりもまず、御言葉である。御言葉があれば、試みから勝利するだろう。

試みる者がいて、A、B、Cの人がいる。AとBは試みから勝利した。Cは試みに負けた。勝利した者と負けた者がいるので、彼らは各々どのような者なのか。AとBは御言葉が十分にあり、一方、Cは勝てる御言葉がなかった。啓示録13章に、天の幕屋の人々が竜の七人の牧者が入って来た時、勝利できず、負けたと言い、竜の群れが勝利することによって聖徒たちの手と額に自分たちの名前で刻印を押して、刻印を押された者たちは、獣のような牧者に拝んだと記録されている。だが、啓示録12章では、子とその兄弟たちが竜の牧者と戦う時、あかしする言葉で勝利したと言った。このように、御言葉のある者は、彼らの行いを見て、サタンの牧師であるとあかしする事によって勝利する事ができるのである。

イエス様はマタイの福音書7章に、その実によってその木を見分けることができると言われ、知る事によってあかしして勝利するのである。ガラテヤ人への手紙3章に、啓示の信仰が現れた時、啓示の御言葉で勝利する事によって、勝利されたイエス様と一つとなり、相続を共に受け継ぐ事を語られた。口先だけで信じると言いながら啓示の御言葉がない者は、形式的な信仰人なので、試みが来る時、耐える事ができず、負けるようになり、負けた者は、利した者のしもべになるのである(Ⅱペテ2:19)。

ユダの手紙は、イエス様の弟子であるユダが記録した。17節には「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」と言った。

私たちの中から出て行った者たちがユダの手紙のように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、党派を作った。これは使徒たちが前もって言った事と同じで、第二ペテロ2章に、バラムのように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、昔の所(昔の教団)に戻って、またそこ(泥の中)に転がって、昔のもの(昔の教団の非真理)を再び食べているので、これは、豚が身を洗って、また泥の中に転がることとなり、犬が自分が吐いた物に戻ることとなるのである。
現在、私たちから出て行った者たちが、このようではないのか。マタイの福音書12章43-45節を見ると、悪霊が人から出て行って、出て来た自分の家に帰ってみると、家は空いていて、掃除してきちんとかたづいていたので、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て入り込んだ。そうしたら、その人の後の状態は初めよりもさらに悪くなったと言われた。私たちから出て行ったこの人は、プロテスタントから来て、以前の敎の悪霊が離れて、私たちに来て、その家(心)が御言葉で掃除された。彼が背教して、昔の所に返って、昔の悪霊が掃除された彼の心に七つの悪いほかの霊を連れて来て入り込む事によって、昔よりも七倍もさらに悪い行いをするので、これは御言葉通りになったのである。今の現実がそうではないのか。見てもわからないと言うのか。死んだ者でなければわかるだろう。このような者に惑わされたのなら、信仰も御言葉もない者ではないだろうか。

信仰の兄弟たちの中には、ヨブのように全身が踏みにじられていても、心の信仰は変わらない者がいて、両手両足、体が丈夫でも、信仰がなくて惑わされて、堕落した者がいる。私も苦痛の中にいた時、信仰がなかったら、今の私はいないだろう。その苦痛を、どうやって言葉で言い表す事ができるだろう。御言葉を本当に悟って信じているのに、どうして惑わされることができるのか。なぜ御言葉を信じないのか。

今日の私たちは、預言の御言葉が肉体となって現れたので、預言とその実体までも見て信じている。どんなに大きな信仰なのか。これを信じない者は、信じる者ではない。神様も私たちの信仰も、約束した預言とその実体がある。ルカの福音書13章の御言葉を私たちは常に覚えておこう。裏切って出て行って、再び戻ろうとした者たちもいて、いま先頭の者がしんがりになり、今しんがりの者があとで先頭になるとしたその御言葉(ルカ13:25-30)を覚えなければならない。惑わされた者は自分を隠す、アダム·エバのように。これが惑わされた証拠である。

私たちは、信仰によって永遠の命を得て、天国に入る資格を得たのである。最後まで私たちの信仰を守る事によって、希望に入るようになる。アーメン。ㅍ

2015년 1월 24일 토요일

私のする事と使命と約束

私のする事と使命と約束


 私たち聖徒の中には、未だに私をよくわからず、私のする事もわからないので、誤解する人もいるように思われる。

 第一、約束の御言葉を信じよう。私は、とても時間が足りない、死んだ者でもできるならば、働かせたい。イエス様も、市場で遊んでいる人を働かせようと連れて来たと言われた(マタ20:1~7)。
 仕事がない人は、空想が多く、仕事がないので、他の人がしている事を悪く言って、干渉する人である。

 私は、聖書で語っている事のように永遠の命の食物と、白い石と、万国を治める鉄の杖を持って来た(啓2、3章)。そして、今、万国を治めている。その多くの映像を見ても悟れないのか。
 見ても悟れない者は、死んだ者であり、呪われた者であり、悪魔の神を受けて、迫害する者だろう。見ても、聞いてもわからなければ、何によってわかるようになるのか。

 私は、一つの教団でも一介の一国でもなく、世界を相手に治めている。これは、万国を治める鉄の杖を受けた使命を果たしているのである。だから、忙しくて、一番忙しい。
地球上の数多くの著名人たちにイーメールで手紙を書かなければならないし、送らなければならないし、その国の言葉で翻訳しなければならないし、送らなければならない。また、各国の数多くの著名人たちのイーメールを受け取って、翻訳して見なければならない。各国の前・現職の大統領、各国の大法官、各国の女性グループ、各国の青年グループ、各国の大学の総長および大学生たち、各国の平和グループ、各国の宗教の代表や指導者たちとやり取りするイーメール、各国に送る手紙と映像物(DVD)、各国の宗教連合事務室と宗教・経書統一の作業、各国の外国人の御言葉の勉強のセンター運営、海外の新天地の教会と国内の新天地の教会の統治、これが万国の統治である。

 どれくらい忙しいだろう、どれくらい仕事が多いだろう、どれくらい苦しいだろう。 座っても立っても、行っても来ても、食べても寝ても、ただ頭の中の考えは、いまずまに乗って回っているようで、精神に響く音は雷鳴のようで、心は、地球上を数十回も回り続ける。受けて送って記録して翻訳してコンピューターは休む日がない。なぜ、こんなにも忙しいのか。目が回るほど忙しい。
 地球を回りながら心の家も建て、彼らを教える研修院も建てた。農業もして、果物の木も植えて育てた。働く忙しい心情、わからず誤解する人々、本当に気楽な人生を送っている。なぜ私はこんなにも忙しいだろうか。夜も昼もない。こんな中でも本を7冊も書いたが、これは誰のためなのか。聖徒たちの知識のためである。私が書いた本を見ながらも、私の心情がわからず誤解する人々、薄情だ。本当に薄情だ。

 人ならば、知っているはずなのに、使命のために、私のように一度して見る考えがないのか。一度走って見よ。できるのか。私がしている事が何々か、知っているのか。私がどれくらい寝ていて、どれくらい働いているのか、知っているのか。盗人は盗む事しかわからず、迫害者は迫害する事しかわからず、遊ぶ者は遊ぶ事しかわからない。する事がない人が、たわごとを言って、問題を起こす。私は罰を与えたくても時間がなく、賞を与えたくても時間がない。働く人に向かって悪口や陰口を言う人は、時間が多いので誤解して問題を起こし、しなさいと言う伝道はしない。申命記32章に、最も良いものを食べさせたのに、むさぼり食って、肥え太って、異なる神々に仕えたという言葉のように、私は人類の歴史上、最高の初楽道を食べさせてあげた。このように受けて食べた者がアダム・エバのように、問題を起こすならば、獣よりも悪いだろう。獣もノアの時、救われたのを見た。だが、怠けて口数の多いばかは救われない。脱落してはいけないという事を知っているならば働きなさい。今は、死んだ霊たちも起きて働いている。

私は、地球上を回り続けて行きながら、時にはラーメン、時にはおこげを食べながら38,000フィート(約11,500M)の上空の飛行機の中でも文書を書いて働いた。私は今85歳。生きている者なのか、死んでいる者なのか、地下にいるのか、地上にいるのか、天空にいるのか、空をも飛んで、雲の中でも回って、暴風にも、霧雨にも打たれながら、ひたすら私の神様が来られて統治される世を造ろうと身もだえしている。私は私の家も、私の体もなく、万民にすべて与えて、何もない。ただ神様の働きのために。
一度でも、私が24時間する事を考えて見よ。考えてみたのか。肉的に人に付き合って、肉的に愛して、希望を捨てて、神様の御言葉を信じず、苦労をしても、その苦労をどこに使うだろうか。
まだ肉体と世の考えだけに染まって、私を判断する人がいるならば、ありがたいが、先に自分の人となりを考えなければならないだろう。イエス様とマグダラのマリヤは恋愛したのではなく共に働いたのであった。私もそうである。この、仕事もできないように問題を起こして、誤解する人がいるならば、その者は信仰人ではないだろう。

今日、啓示録の預言が肉体となって現れた。これを見ても信じないならば、立ち去るのが正しいだろう。聖書の66冊で、働いた事と成し遂げる事と信じるべき事は、ただ啓示録の成就である。私はこの事に、私の体を捧げた。そして、休まず働いている。信じず背教する行為をする者は、審判の日に、再び会うだろう、神様の御前で。

命がけで積み上げた新天地の初めの愛、
聖書の中に彩られた彼らの姿、
血よりも濃い愛、背教者は知らない。
涙を飲みながら、それでも愛する。

悲痛極まる哀願も、あがいてみても
一度離れた君は再び戻りはしないだろう。
イマンヒ、赤く燃える心情、背教者は知らないだろう。
心をまぎらし、祈りをしよう。

きらきら光るともしびの下、センターに集まって来る
聖徒たちの勉強する声、聞こえて来る。
手を繋いで聖書の中に主と共に歩いて行き、
センターで出会った人、永遠に忘れない。
あああ~~~ 新しい日が明けてくる

昨夜、夢で聖霊の夢を見た。
聖徒たちよ、陽気に楽しもう。讃美で叫ぼう。
天に名前をかけて、故郷に錦を飾るその日には
何を神様に買って持っていこうか。
あああ~~~平和の国。

2015년 1월 23일 금요일

京畿道果川所在幕屋聖殿の秘密

京畿道果川所在幕屋聖殿の秘密


幕屋聖殿の七人の牧者と教徒たちは血で神様と契約をした。全国に支教会が、あっという間に80ヶ所にもなった。
チョン(全)大統領の時代、三清教育隊(政府が造った訓練所)があった時、異邦の七つの大きな教団(今の韓基総所属)の牧者7人がカチョン(果川)にあった幕屋聖殿に入って来た。

牧師の任職式の日、聖徒の約三千人が見ている壇上で、異端(幕屋聖殿)の牧者ユ氏から、異端浄化のために来た正統だと自称している牧者が先に按手を受けた。そして、神学校の門前にも行ったことのない異端の伝道師、17人に正統長老教の牧師が牧師按手をした。
また、牧師按手を受けた者たちと全ての聖徒を立たせて、右の手を挙げて長老教の教理が正統だと誓わせたのである。この日、額と右の手に、長老教の教理が正しいと認めた事で、彼らの刻印を受けたのであり、刻印を受けた彼らは、刻印を受けさせた長老教の正統の牧師を拝むようになった。啓示録13章を読んで見なさい。同じではないのか。
これが正統教団の教法なのか。不法ではないのか。

血で契約をした幕屋聖殿の伝道師たちと聖徒たちは神様を背教したのであり、正統長老教の七人の牧者たちは幕屋聖殿を滅亡させて、刻印を受けさせた滅亡者たちではないと言えるだろうか。聖書の啓示録は証明している。

神様の血の契約に背いて異邦の教団の牧者に額と右の手に刻印を受けて拝んだ者たち(17人の牧師按手を受けた)の中には全国で老会長になった者たちもいる。

刻印を受けさせた者と、刻印を受けた者の、この秘密を私たち(新天地)が見て知っているので、彼らが私たちのことを憎むのである。真の正統と異端は誰なのか、啓示録13章の実体が誰なのか、刻印を受けさせた者と、刻印を受けた者は誰なのか、誰が誰に拝んだのか、誰が背教者であり、誰が滅亡者であるのか、分からないのか。聖書は証明している。第二テサロニケ2章を見なさい。

啓示録12章の男の子とその兄弟たちが竜の群れの七つの頭と十本の角を持つ獣、すなわち異邦の偽りの牧者と戦って打ち勝って、竜の群れが追い出された。(この時から神様の国と救いがあると言った。)男の子とその兄弟たちがあかしの言葉のゆえに打ち勝ったと言った。あかししたその言葉とは何なのか。そのあかしが信憑性のある言葉なのか。真実なのか。
上記の御言葉のように、啓示録13章の現場、すなわち滅亡者たちと背教者たちの行動を現場で見たことがあかしした言葉である。これは事実を事実通り語ったのである。老会長になった者たちの所に行って聞いて見なさい。また、当時、そこにいた約3千人の聖徒たちに聞いてみなさい。これが約束した啓示録13章の事件であることを彼らが分かっただろうか。しかし、事実である。

これだけではなく、啓示録の全章で約束した全ての事件が、まさにここ(幕屋聖殿)ですべて起こったのである。啓示録16章で御怒りの鉢が啓示録13章で見た背教者と滅亡者たちにぶちまけられた。ぶちまけられたこの御怒りが何なのか分かるのか。この御怒りの鉢の所に行って聞いてみなさい。知っているだろう。この御怒りの鉢は啓示録15章の獣とその像と、その名を示す数字とに打ち勝った者たちであり、12章であかしの言葉のゆえに打ち勝った者たちである。神様が勝利を得た者たちの心に怒りを入れたので、すなわち生ける鉢である。彼らの口からぶちまけられたのが神様の御怒りである。御怒りの内容は啓示録2、13、12、17、18章の背教した行為と滅亡させた行為とサタンの偽りの行動である。鉢からぶちまけられた御怒りを聞いたことがあるのか。聞いてみなさい。聞いて見なさい。事実なのか事実ではないのか確認しなさい。

私たちは見て聞いたことを話す、加減せずに。彼らが現場の実体を見て聞いた生き証人ではないのか。私たちは啓示録がこのように成し遂げられたと話す。この事実を私たちはよく知っているので、第二コリント6章14-18節の御言葉通り、そこから出て来て別の所にいるのであり、神様は私たちと共におられる。啓示録14、15章のように。
そして、命じられた通り、収穫して印を押して神様の新しい国12支派を創造した。これは、啓示録の約束を成し遂げたことである。新約の約束の御言葉、聖書を信じなさい。なぜ、私たちのように従順しないのか。なぜ、信じないのか。私たちは信じて従順して命令通りにしている。来てみなさい。

2015년 1월 22일 목요일

万よろずの宗教の中でどの宗教が第一なのか

万よろずの宗教の中でどの宗教が第一なのか

本文:創1章、ヨハ1:1-5、啓21章


世の中には万の宗教がある。数多くの宗教の中で一番優れている宗教は、どの宗教なのか。宗教人たちは自分が信仰している宗教を一番良い宗教だと思うので、自分の宗教を信じて伝えている。例えば、人が中国で生まれて見て聞いて生活したなら、中国の言葉と文化が体に染み付いているだろうし、ロシアで生まれたなら、ロシアの言葉と文化が体に染み付いているだろう。人が生きて来たこの世界で20世紀の文化の差は国によって、民族と氏族によって大きく異なる。

本文で言われたように、創世記の再創造があり、ヨハ1:1-5で見たように、神様と御言葉によって創造されなかったものは一つもない。ところが、どうしてお一人の神様が万の宗教を造ったのか。本当に神様が造ったものなのか。真の神様の他に、異なる神である偽物の神がいて、真の神様を装って人を欺き、自分が真の神のふりをしながら多くの宗教を造ったのではないのか。そうであるなら、神様と神は幾つあるのか。本当に紛らわしい世である。混沌として虚しくて暗やみに満ちている。地球上の中は数多くの宗教によって混沌として虚しい。どれが本物で、どれが偽物なのか。

6千年の聖書の歴史の中で神様が導かれたアダムの世界、ノアの世界、モーセの世界、初臨のイエス様の世界の差も見た。再臨の時、成し遂げる世界も異なる。宗教が多いのも、互いに異なるのも理由がある。記録されたように、神だからと言ってみな信じてはならないと言われた御言葉もある。Ⅰヨハ4章1節を見なさい。

唯一であられる真の神様はお一人であるのに、神様が創造された被造物の中で自分の知恵と能力を信じて自分を創造してくださった真の神様を裏切って自分こそ神であると言った天使長がいた(Ⅱテサ2:1-4、イザ14:12-20、エゼ28:1-19、創3章参考)。このように霊界で背教した一人の天使長がサタンになったのであり、肉界でもサタンの群れがあるようになったので、この者(サタン)が真の神様と戦争を起こした(啓13章、12章参考)。
多くの宗教がある理由は、真の神様の宗教があり、他の背教した神によって造られた多くの宗教もあるからである。

人は自分に与えられたもの、考えたこと、開発したことを真の神様が与えてくださったものだと思い、最高の教訓、最高の真理であると思って伝える。しかし、真の神様はお一人であり、真の神様が伝えてくださったものは一様に一定して一つである。それでは、数多くの宗教と経書は誰が与えたものなのか。正しい言葉、善良な言葉を話すからと言って、神様が与えたものではない。
記録されたように、第二コリント11章13-15節で、「サタンさえ光の御使いに変装して、偽使徒も自分をキリストの使徒に変装する。」と、言われた。サタンが神様の真似をして騙して道を造ったのが偽宗教である。偽宗教が多いが、信じる者たちが偽宗教を真の神様がくださったと勘違いをしているのである。

神様の真の宗教は創世記から啓示録まで続いて来た。誰かの宗教を盗用したり、かこつけたりしていない。しかし、偽宗教は神様の6千年の聖書の歴史の中にあったことを盗用しているものが多い。これは騙すためのやり方である。神様の御言葉と働きは、続いて来た時代と系図がはっきりしていて、前もって約束(預言)され、預言したことがすべての民族にあかしされるために全世界に宣べ伝えられた(マタ24:14)後、その預言通り成し遂げられた。
神様とアブラハムとの約束(預言)はモーセの時に、旧約の預言者たちとされた約束はイエス様の初臨の時に成し遂げられたのであり、イエス様とヨハネを通して預言された新約は今日、その預言通り加減することなく成し遂げられた(ヨハ19:30、啓21:6参考)。神様は預言せずに成し遂げたことはない(アモ3:7参考)。預言とその成就がなければ、どうやって信じることができるだろうか。

正しい良い心を持たせるのは人の基本である。これを宗教と言うには不足である。宗教は神の教えである。正しい良い心を持つということは世の中の学校でも各家庭でも教えることである。これらは人の知識と戒めに過ぎず、神様の預言した約束はそれとは違う。神様は約束したことを成し遂げる時、信じなさいと言われた(ヨハ13:19、14:29)。
神様が申命記18章18-22節で、「神様のことばを授けた預言者を起こす」と言われたのであり、「彼が告げることばに聞き従わない者は罰を受けるようになる」と、言われたのであり、「わたしが告げよと命じていないことを不遜にもわたしの名によって告げたり、他の神々の名によって告げたりする預言者は死ななければならない」と言われた。また、「あなたが心の中で、私たちは主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか、と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」と言われた。

真の神様から受けた宗教であり、経書であるなら、必ず歴史と教訓と預言と成就がある。歴史と人の教訓だけがあり、将来に成し遂げる預言も成就したこともなければ、これは真の神様の御言葉ではなく、信じて待つ理由もない。昔、約束した事に対する成し遂げた実体があり、また、約束した事もその通りに成し遂げるという言葉があってこそ、成し遂げられる事を信じる事ができるのである。中身もなく、「正しい良い行いをして、正しい良い心で生きなさい。」は、人の戒めの一つであり、宗教と言えないのである。

もう宗教に対する審判の時となった。全ての宗教が一つになって各宗教が自分の宗教の経書を持って出て来て、万民の前で真の宗教について確認をする時である。そのようにして、信じるに値するものを選ばなければならない。私が見た地球上の経書と宗教は、人の知識と戒めに過ぎない。そして、宗教人たちは自分の宗教に陥っている。

経書の中でキリスト教の経書は66冊からなっている。ここには多くの預言者たちが神様から聞いたことを記録した預言と成就があり、彼らが見て聞いたことが記録されている。その内容はアダムの時から今日まで続いており、時代ごとに前もって約束された約束の牧者がいた。この経書が聖書なのである。カトリックの聖公会、正教会、プロテスタントは同じ聖書で信仰をする。
神様がアブラハムと約束された通りモーセの時、成し遂げられて、旧約の預言者たちと約束したことはイエス様の初臨の時に成し遂げられた。
このイエス様こそ旧約に約束された牧者であった。イエス様について多くの預言者たちが預言された。すなわち、イザヤは「(イエス様が)処女から生まれる(イザ7:14)。」、ミカは「ベツレヘムで生まれる(ミカ5:2)。」、ホセアは「エジプトから出て来る(ホセ11:1)。」、ゼカリヤは「子ロバに乗ってエルサレムに入られ、平和を叫ぶ(ゼカ9:9-10)。」と、言ったのであり、その通り成し遂げられた。このように、預言があり、その通り成し遂げられたことがあってこそ、約束(預言)を待ち望み信じるのではないだろうか。新約の約束の牧者もこのように預言されている。しかし、他の宗教、経書ではこのような預言も成就もない。

ところが、神様が新約に、今日について言われた御言葉は、地球上の全ての宗教が腐敗したと言われた。いくら真の宗教の経書を持っているとしても宗教人自体が腐敗したので、末世、すなわち世の終わり(宗教の末年)が来ると言われたのである。経書、すなわち聖書が完全であると言っても宗教人が腐敗したなら、その経書は無駄な書物になってしまうのであろう。
神様は新約通りに成し遂げるだろう。この時、約束を悟って知った者は、ノアのように、ロトのように、イエス様の弟子たちのように救いを受けるだろう。しかし、腐敗して悟れない者は自分の考え、自分の判断によって滅亡を免れない。それゆえ、神様の御心通りにしてこそ生きる。

真の神様が与えて下さった真の聖書は、新約に成し遂げる事を詳細に記録して下さった。背教者たちと滅亡者たちと救い主が記録されていて、背教者は誰であり、何で、なぜ、背教したのかが詳細に記録されているのであり、滅亡者たちは悪魔の所属の牧者たちであることが詳細に記録されている。そして、この時、いつ、誰が、どのような者を救い主として選んで、どこから何で、どのように救うのかを詳細に記録して知らせられた。
この三つの存在の秘密、すなわち背教者、滅亡者、救い主の秘密とその実体が分からなかったらどのように救われるだろうか。自分が滅びて、自分が腐敗したのに、誰を救えるのか。自分が天門が塞がれて通れないのに、どうやってこれが分かるだろうか。それで、末世の事件をノアの時、ロトの時のようだと言われたのである(ルカ17:26-30)。
悪魔は自分の牧者たちを殺して、牧者は自分の信徒たちを殺して、悪魔の所へ突き出しているのではないか。アンチカフェ(anti cafe)の学生と青年の悪評、悪口、呪いの声は道徳が地に落ちてしまった事を示すのであり、不法に満ちた言葉で呪う。この行為は家庭や学校で学んだのではなく、彼らのこのような行為が、自分の教団の牧者から学んだことではないと言い切れるのか。彼らの教会は、世の教会と言うよりは、悪魔の教会と言うべきであろう。こうだから神様がこの腐敗した宗教をどうされるだろうか。それで、世の終わり、すなわち宗教の終末を言われたのである。そして、再創造する事を約束されたのである。

今、再創造が成し遂げられている。来てみなさい。確認しなさい。そして、信じて救われる者になりなさい。アーメン。

2015년 1월 21일 수요일

新約の啓示録の預言と それ以外にあった事

新約の啓示録の預言と
それ以外にあった事

本文:啓示録全章


旧約聖書のマラキの預言(マラ3:1)の実体はバプテスマのヨハネとイエス様であったし、新約聖書の啓示録の預言の実体は七つの星(使者)と約束の牧者である。

神様はどの時代を問わず、預言で前もって知らせて約束されたことを時になると加減することなく、全て成し遂げられた(旧約成就 ヨハ19:30、新約成就 啓21:6)。聖徒が聖書を見て信じるべきことは預言とその成就である。新約の啓示録の預言を成し遂げた実体があり、それ以外にあった事とはどんな事なのか。

それ以外にあった事は、家柄と暮らしと組織構成の活動的なことである。勿論イエス様もバプテスマのヨハネも親がいたのであり、親戚と系図があった。新約の道を備える七つの星と約束の牧者も親がいたのであり、親族がいたのであり、生い立ちがあった。
新約の道を備える者、七つの星たちは、バプテスマのヨハネのようにしばらくの間、燃えて輝くともしびであった。彼らは神様の御前で動脈を切ってその血で神様と契約をしたのであり、彼ら七人は、山の中で100日間、神様に養育を受けた後、下山した。伝道に出て行けば、一人でも伝道できたら帰れるし、伝道できなかった時は、帰ることができず、市場の路上で野宿したりした。この時の信仰は動脈を切るほどの殉教の精神でしたのであり、命懸けの信仰心を持って働いた。そのようにしてあっという間に全国に80ヶ所余りの支教会が立てられた。
この七つの星を「天使」と称し、彼らの中にはインマヌエルと呼ばれる者もいたし、七つの星の他にモーセ長老と呼ばれる者もいて、彼らだけが暮らす天使村があった。聖徒たちは彼らに絶対的に従順した。彼らの教名は「~教会」ではなく、幕屋聖殿と言い、これは神様の啓示によって名前を付けたのである(啓13:6天、すなわち幕屋)。七人の天使たちだけではなく、聖徒たちもその血で十字架を書いた辞令状を受け取ったので、誰もが血で契約をした人々であった。彼らがイエス様から約束された時間は3年半であった。3年半が過ぎれば戦争が起こって、皆滅亡されるようになり、御言葉に従順した者だけが生き残って救われると、時限付きの信仰で命懸けの努力と信仰をして来た。3年半という時限付きと戦争が起こるという言葉をどのように分析すべきなのか。霊的戦争なのか、肉的戦争なのか。

初臨の時のバプテスマのヨハネの立場である彼らは、しばらくの間、燃えて輝くともしびとして働くようになったのであり、戦争はどのような戦争なのか。イエス様が「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と、言われたことを覚えなければならないだろう。実際に、道を備える者として立てられた彼らの使命は一時的なものであったし(3年半)、戦争も霊的戦争が起こったので、戦争が起こるという言葉も正しい。そして、戦争によって滅亡されるという言葉も正しい。

啓示録13章の天の幕屋に獣の群れが入って来て、聖徒たちと戦って勝利して、聖徒たちの右の手と額に刻印をしたので、これは3年半後の事であり、この事で道を備える幕屋聖殿が敵の所有になってしまったので、戦争によって終わるのであり、この時、ただ御言葉を守った者だけが生き残って、逃れたのである。第二コリント6章14-18節を見なさい。腐敗により滅ぼされた啓示録13章の事件は、道を備える幕屋の終わりであった。しかし、彼らは啓示録の秘密(三つの存在の秘密の中の一つ)である七つの星(啓1:20)が自分たちの事だという事が分からなかった。

初臨の時、バプテスマのヨハネの祭壇が終わったのは、滅亡者たちによって終わったのである。道を備える者の働きが終わってこそ、約束の牧者が出現して働くようになる(マタ4:12-17参考)。イエス様の初臨の時、肉的イスラエルの終末はバプテスマのヨハネの時までであり(マタ11:12-13、ルカ16:16)、新約の霊的イスラエルの終末は道を備える七つの金の燭台の幕屋の七つの星の時までである。
以後、イエス様が約束した牧者を選ばれ、罪を犯した七つの星と七つの金の燭台の幕屋を飲み込んだサタンのニコライ派、すなわち竜の牧者と約束の牧者の間に戦争が起こり、この事の前に、約束の牧者は、七つの星に悔い改めを促がす手紙を送る。この手紙は七つの星がサタンの牧者から偶像の供え物を食べて、ニコライ派の教訓を受けて、サタンと不品行を行った罪に対する悔い改めを促がす内容である。この事を語ったものが、啓示録1、2、3章である。このような事があってこそ、この預言が成し遂げられるのであり、事が起こった時、見て信じるために前もって記録して下さったのである(ヨハ14:29)。

事件の始まりと出現人物を見ると、まずは七つの星であり、次はサタンのニコライ派であり、次が悔い改めなさいという手紙を送った約束の牧者の出現である。七つの星とサタンのニコライ派は互いに異なる存在であり、悔い改めを促がす手紙を送った約束の牧者と彼らもまた互いに異なる存在である。
事件の始まりは七つの星の働きが先になければならない。次はサタンのニコライ派、次は悔い改めなさいという手紙を送った約束の牧者である。この三つの存在が三つの秘密の存在であり、この三つの存在が戦って、その中で勝利を得る者が新しい国を創造するようになり、神様と天国とイエス様は、この新しい国に来られて治められる(啓3:12参考)。これこそが聖書であり、約束であり、この新しい国が神様が預言され、成し遂げられた新しい天国である。

神様とイエス様が信じなさいと言われた御言葉もまさにこれであり、信仰人が聖書を見て待っていた望みもまさにこれである。このような約束も預言も成就も希望もなければ、何故教会に行き、何を望んで祈りをするのか。神様が約束された御心が成し遂げられた時、私たちが願って待っていた望みも成し遂げられるのである。それゆえ、聖徒は神様の約束を正しく知って、その御心通りにするのが信仰と望みを成し遂げる事である。
神様が新約に約束された国が来ても悟れない人は、聖書もその御心も知らないので、無知な人であり、信じるという言葉自体が偽りであり、天地の分別もできない者である。神様の約束を正しく知って信じて望みに至る者になろう。

神様の聖書の6千年の働きの中にあった時代を見ると、一つの時代が過ぎ去り、また一つの時代が来た。すなわち、アダムの時代が過ぎ去り、ノアの時代が来たのであり、ノアの時代が過ぎ去り、肉的イスラエルの時代が来たのであり、肉的イスラエルの時代が過ぎ去り、約束した霊的新しいイスラエルの時代を迎えたのである。そうして千年の都が開かれて、涙も苦痛も死もない天国の時代が到来したので、送旧迎新好時節であり、万物が待ちに待った新天運勢[萬物苦待新天運]である。不老不死人永春なので、太古以後初樂道の時代である。

真の神様の子どもになって、別れることのなく、永遠に天国で生きるようになる。アーメン。


 ※参考
送旧迎新好時節:旧年を送り、新年を迎える良い時節
萬物苦待新天運:全ての万物が嘆き悲しみながら待ちに待った新しい
天の時代の運が来た。
不老不死人永春:人が老いず、死なず、永遠に続く春
太古以後初楽道:この世が始まって以来、初めてあるようになった歓び道(教え)

2015년 1월 20일 화요일

京畿道果川所在幕屋聖殿の秘密

京畿道果川所在幕屋聖殿の秘密


幕屋聖殿の七人の牧者と教徒たちは血で神様と契約をした。全国に支教会が、あっという間に80ヶ所にもなった。
チョン(全)大統領の時代、三清教育隊(政府が造った訓練所)があった時、異邦の七つの大きな教団(今の韓基総所属)の牧者7人がカチョン(果川)にあった幕屋聖殿に入って来た。

牧師の任職式の日、聖徒の約三千人が見ている壇上で、異端(幕屋聖殿)の牧者ユ氏から、異端浄化のために来た正統だと自称している牧者が先に按手を受けた。そして、神学校の門前にも行ったことのない異端の伝道師、17人に正統長老教の牧師が牧師按手をした。
また、牧師按手を受けた者たちと全ての聖徒を立たせて、右の手を挙げて長老教の教理が正統だと誓わせたのである。この日、額と右の手に、長老教の教理が正しいと認めた事で、彼らの刻印を受けたのであり、刻印を受けた彼らは、刻印を受けさせた長老教の正統の牧師を拝むようになった。啓示録13章を読んで見なさい。同じではないのか。
これが正統教団の教法なのか。不法ではないのか。

血で契約をした幕屋聖殿の伝道師たちと聖徒たちは神様を背教したのであり、正統長老教の七人の牧者たちは幕屋聖殿を滅亡させて、刻印を受けさせた滅亡者たちではないと言えるだろうか。聖書の啓示録は証明している。

神様の血の契約に背いて異邦の教団の牧者に額と右の手に刻印を受けて拝んだ者たち(17人の牧師按手を受けた)の中には全国で老会長になった者たちもいる。

刻印を受けさせた者と、刻印を受けた者の、この秘密を私たち(新天地)が見て知っているので、彼らが私たちのことを憎むのである。真の正統と異端は誰なのか、啓示録13章の実体が誰なのか、刻印を受けさせた者と、刻印を受けた者は誰なのか、誰が誰に拝んだのか、誰が背教者であり、誰が滅亡者であるのか、分からないのか。聖書は証明している。第二テサロニケ2章を見なさい。

啓示録12章の男の子とその兄弟たちが竜の群れの七つの頭と十本の角を持つ獣、すなわち異邦の偽りの牧者と戦って打ち勝って、竜の群れが追い出された。(この時から神様の国と救いがあると言った。)男の子とその兄弟たちがあかしの言葉のゆえに打ち勝ったと言った。あかししたその言葉とは何なのか。そのあかしが信憑性のある言葉なのか。真実なのか。
上記の御言葉のように、啓示録13章の現場、すなわち滅亡者たちと背教者たちの行動を現場で見たことがあかしした言葉である。これは事実を事実通り語ったのである。老会長になった者たちの所に行って聞いて見なさい。また、当時、そこにいた約3千人の聖徒たちに聞いてみなさい。これが約束した啓示録13章の事件であることを彼らが分かっただろうか。しかし、事実である。

これだけではなく、啓示録の全章で約束した全ての事件が、まさにここ(幕屋聖殿)ですべて起こったのである。啓示録16章で御怒りの鉢が啓示録13章で見た背教者と滅亡者たちにぶちまけられた。ぶちまけられたこの御怒りが何なのか分かるのか。この御怒りの鉢の所に行って聞いてみなさい。知っているだろう。この御怒りの鉢は啓示録15章の獣とその像と、その名を示す数字とに打ち勝った者たちであり、12章であかしの言葉のゆえに打ち勝った者たちである。神様が勝利を得た者たちの心に怒りを入れたので、すなわち生ける鉢である。彼らの口からぶちまけられたのが神様の御怒りである。御怒りの内容は啓示録2、13、12、17、18章の背教した行為と滅亡させた行為とサタンの偽りの行動である。鉢からぶちまけられた御怒りを聞いたことがあるのか。聞いてみなさい。聞いて見なさい。事実なのか事実ではないのか確認しなさい。

私たちは見て聞いたことを話す、加減せずに。彼らが現場の実体を見て聞いた生き証人ではないのか。私たちは啓示録がこのように成し遂げられたと話す。この事実を私たちはよく知っているので、第二コリント6章14-18節の御言葉通り、そこから出て来て別の所にいるのであり、神様は私たちと共におられる。啓示録14、15章のように。
そして、命じられた通り、収穫して印を押して神様の新しい国12支派を創造した。これは、啓示録の約束を成し遂げたことである。新約の約束の御言葉、聖書を信じなさい。なぜ、私たちのように従順しないのか。なぜ、信じないのか。私たちは信じて従順して命令通りにしている。来てみなさい。

2015년 1월 19일 월요일

世の終わりの三種類の秘密の人物

世の終わりの三種類の秘密の人物

本文:ヨハネの啓示録全章


世の終わりの三種類の秘密の人物は誰か。宗教の世界の終わり(キリスト教の終末)に現れる背教者、滅亡者、救い主、この三種類の存在が三種類の秘密の人物である。新約聖書の啓示録の中にはこの三種類の存在が現れ、行う働きが記録されていて、預言が成就する時、この三種類の人物は自分に該当する預言通りに行うようになる。

この秘密の三種類の人物については、地球上に誰も知っている者がいなかった。しかし、啓示録の事件が始まる時には秘密の人物が現れるようになって、この時、神様が選ばれた牧者に、この秘密の人物を知らせて下さる。
もう一つ、分かる事は、この時、行う働きを見て、滅亡者なのか、背教者なのか、救い主なのかを聖書でわかる事ができる。これは約束の御言葉、啓示録に精通できる者であってこそ、分かる事ができるだろう。滅亡者は悪魔の所属の偽りの牧者であり、背教者は神様の所属だったが、預言された事件が起きる時に惑わされ、アダムの時のように神様に背教し、悪魔の牧者と一つになった者である。蛇、すなわち、悪魔とそして神様の所属のアダム、エバは異なる存在だったが、アダム、エバが蛇に惑わされて神様に背いて蛇に属したので、この者が背教者である。これが二種類の秘密の存在である。

世の終わりに起きる啓示録の事件は宗教の世界の終わりを言ったのであり、ノアの時とロトの時のような世の終わりの事件であった。この時の避難所はどこだろうか。ノアの時はノアの箱舟が避難所であり、ロトの時にはロトが硫黄の火の災害から逃げて行った山である(創19章参考)。
新約の世の終わりの事件を語っているマタイの福音書24章では、民族と民族、国と国の間に戦争があり、偽りの預言者がたくさん現れるなど、世の終わりの前兆を示す事件があり、滅亡者が聖なる所に立つのを見たならば、山へ逃げなさいと言われた。この山が避難所である。ここを知っているのか。現在の地球上ではマタイの福音書24章の事件も、啓示録の事件も知っている者がたったひとりもいなかった。そして、避難所であるこの山を知っている者もいなかった。しかし、世の中の牧者たちは自分の腐敗と無知と愚かさに対しては考えもせず、自分がまことの牧者のように話している。
しかし、今日、その事件と避難所を知っている牧者が一人いる。この人を知っているのか。もし、自分の腐敗と悔い改めで神様の約束の牧者が分かるようにしてほしいと願うならば、教えてくれるだろう。

世の終わりになったという事は、宗教が腐敗したためであり、滅亡があるようになった事も、腐敗した罪に対する罰である。事実がこうであるのにも関わらず、宗教指導者と宗教人は自分の過ちを物ともせず、自分だけが正統で、最高で、救われると思っている。
アダムの世界もノアの話を聞かず、ソドムとゴモラの人々も偉そうにしてロトの話を聞かず、迫害に迫害を加えた(創19:1-11参考)。イエス様の初臨の時にもエルサレムのユダヤ人とパリサイ人たちがかえってイエス様を異端だと言った。今日は、新約聖書にどうだと預言されたのか(ルカ17:26-30参考)。聖書も預言の意味も分からないのに、成就された事件がどうやって分かるだろうか。

イエス様の初臨の時、イエス様は自分の言葉を聞いて神様を信じる者は死から命に移されて、墓から命の復活に出て来た者だと言われた。どういう意味なのか。聖書も預言の意味も分からない者たちが預言を成し遂げても分かるはずがない。これは全て腐敗した牧者たちの責任に違いない。どんな教団を問わず、世の終わりの時にはみんなお互いさまで、みんな同じように腐敗したので、牧者たちも教徒たちも、神様は認めはされない。
滅亡者も背教者も救い主も、その秘密も実体も知る事のできない夜になったのである。彼らに救いがあるだろうか。むしろ不信者よりも悪い。反省して悔い改めて、まことの神様と、そして、神様の本、聖書の御言葉を知ることに総力を尽くさなければならないし、自ら低くならなければならない。そして聖書の道に行って約束の牧者を探さなければならない。そしてまず啓示の御言葉を受けて約束した啓示録の御言葉の意味を知るべきだし、その成就された実体を、預言した啓示録で確認して信じなければならない。ノアの時、ロトの時を考えて、生きるために命をかけた努力をしなければならない。

問題(三種類の秘密)の人物の実体は、1980年代に東邦の地の果ての国、大韓民国、果川所在の幕屋聖殿で出現した。啓示録の意味を知って見る者は、この実体を分かるだろう。秘密の人物のうち滅亡者は啓示録13章の通りに現れ、啓示録17章、18章のように不品行のぶどう酒(サタンの偽りの教理)で万国を倒した。使徒ヨハネは2千年前に、幻で啓示録の全章を見て聞いた。そして、2千年が過ぎた今日は幻ではなく、新しいヨハネ(約束の牧者)が成就された実状を見てあかしするのである。
世の中にいた竜の群れ、すなわち、七つの頭と十本の角(偽りの牧者たち)が果川所在の七つの星(使者)がいる幕屋聖殿(天の幕屋、啓13章)に侵入し、聖徒たちの額と右手に獣、すなわち、偽りの牧者たちの名前で刻印を押し、聖徒たちは刻印を受けて獣に礼拝した(1981年9月任命式の時)。この時は全大統領が第5共和国を始める時であった。
彼らが侵入した理由は幕屋聖殿を異端と定め浄化するという名目で入って来た。この日、彼らは、神学校の門前にも行った事のない異端(自分たちが異端と言った)の伝導師17名に牧師按手をした。牧師按手をする前に、異端を浄化しに来た牧者が檀上で、いわゆる異端の幕屋聖殿の使者(牧者)から先に按手を受けてから、幕屋聖殿の伝導師17名に牧師按手をし、以後数十人にまた、牧師按手をした。これがこの国の正統と異端である(パウロはⅡコリ6:14-18で「不法を行う者から出て行き、彼らと分離されてこそ、神様の子どもとなる」と記録した)。

牧師按手を受けた彼らは幕屋聖殿にいた当時、神様の前で血で忠誠を誓った者たちである。彼らの辞令状(裏面)を見れば、血で十字架を描いておいた。これが証拠である。このような者たちが、神様との契約はなくなり、イザヤ2章のように、異邦と手を繋いで契約し、異邦の牧者となったので、彼らがどうして裏切り者、背教者ではないだろうか。異邦の七つの頭(七人の偽りの牧者)、権力者たちがこのように牧者を急に作って、聖徒たちを教えたので、キリスト教のありさまがどうだっただろうか。神様に背教し、異邦から按手を受けた者たちは啓示録13章が言っている偶像(偽りの牧者、ハバ2:18)である。彼ら17人の中には異邦の長老教の老会長になった者もいる。

韓基総が(長老教が主流をなす)どうして新天地を憎むのか。それは、前で語った内容を見れば分かるだろう。これは彼らの秘密を唯一、新天地だけが知っているからである。エルサレムを主管するパリサイ人(マタ23章)の秘密をイエス様が知っておられたように、今日も聖書(啓示録)通りに成し遂げられた背教者と滅亡者の実体の秘密を知っているため、彼らが迫害をするのである。
これだけではなく彼らはまむしの恐ろしい毒である蛇の不品行のぶどう酒を飲ませ、万国が倒れるようにし、聖徒たちを蛇、すなわち、悪魔と結婚させるようにした(啓18章)、その罪は天にしみている。悔い改めなさい。新しく生まれなさい。新天地はこれを促している。

この文章を書いた私(約束の牧者)は見て、聞いて、触った実体を知っているからこそ、その事をあかししているのである。

2015년 1월 18일 일요일

新約が成就する時の状況

新約が成就する時の状況

本文:啓16章


新約が成し遂げられる時の状況はどうなのか。これはイエス様の初臨の時と同様である。マタイの福音書23章とヨハネの福音書5章を見なさい。

イエス様の初臨の時、腐敗した肉的なイスラエルが終わり、霊的イスラエルが始まったように、再臨の今日も腐敗した霊的イスラエルが終わって霊的新しいイスラエルが創造される。これは、啓示録6章で腐敗した一つの時代が審判されて終わり、啓示録7章で再び印を押して新しい国が創造されるのと同じである。また、啓示録21章では初めの天と初めの地が無くなって新しい天と新しい地があるようになり、この新しい天地に天国と神様が来られて共におられる事を約束された。

再臨の働きも初臨の時のように、道を備えるともしびの働きが先にあるようになる。その働きが啓示録2、3章の事である。この啓示録2、3章の現場が啓示録13章の現場である。ここ(天の幕屋)に滅亡者のサタンの牧者が侵入して占領するようになる。13章の天の幕屋は滅亡されたのであり、サタンの牧者は天の幕屋を所有するようになった。神様に属していた天の幕屋の七つの星(使者)とその聖徒たちが背教した事によって、サタンの群れに負けて、サタンの牧者が勝利したのであった。初臨の時も旧約の預言がエルサレムの聖殿で起こった事件であったように、再臨の働きも天の幕屋、すなわち七つの星の幕屋(聖殿)で起こった事件であった。このような事が先になければならないし、これが背教と滅亡の事件である。第二テサロニケ2章を見なさい。
これが神様の預言であり、約束であり、成し遂げる現実であるという事を地球上の牧者たちが分かるだろうか。

この事の後、啓示録12章に太陽、月、星を着た女から生まれた男の子とその兄弟たちがイエス様の血とあかしの言葉で竜の群れの牧者たちと戦って勝利した。この時から神様の国と救いがあるようになる。この時を知っているのか。また、この場所と出現した彼らの実体を知っているのか。
啓示録13章で天の幕屋の民たちと戦って勝利を得て、幕屋を飲み込んだ竜の牧者たちが啓示録12章では女から生まれた男の子とその兄弟たちに負けた。啓示録13章で竜の群れに負けた者たち(七つの星)が七つの道に逃げ去ったように、12章の竜の群も七つの道に逃げ去ったのである。申命記28章に勝利を得た者と負けた者に対する結果が詳しく記録されている。

誰が勝って、負けたのか、よく知っているだろう。啓示録12章で勝利を得た者たちが15章に獣とその像とその名を示す数字とに打ち勝って出て来た者たちであり、神様の御怒りを勝利を得た者に入れたので、彼らが御怒りの七つの鉢(啓15:7)である。啓示録16章で御使いたちがこの御怒りの七つの鉢を背教者(背教した幕屋の聖徒)たちと彼らを滅亡させたバビロンの竜と獣と偽りの預言者にぶちまけて審判した。この時、竜と獣と偽りの預言者の口からカエルのような汚れた霊が出て来て、天下の王たちに行って自分たちを審判した勝利を得た者たちと戦おうと彼らを戦場に集めると言った。
竜と七つの頭と十本の角を持った獣は、啓示録13章、12章で見た者たちであり、カエルのような悪霊が彼らの口から出て来たのは、この悪霊が彼らの中にあったという事であり、この霊の言葉を聞いて戦場に集まったという事は、彼らが仲間だという意味であり、天下の王たちは世の牧者たちの事を言っている。この獣の牧者たちは竜が与えた不品行のぶどう酒で万国を倒したので、天下の王たちも竜の所属の牧者たちに違いない。
 天下の竜の所属の霊たちと牧者たちが集まったので、啓示録が成就される現場がどうであったのかが十分に分かるだろう。神様が働かれる所に悪霊たちとその所属の牧者たちが集まる事は、イエス様の初臨の時にもそうであったし、今日もそうなのである。

考えてみると、啓示録の成就の現場は悪霊の天地であり、神様の所属からも霊たちが働かれたので、啓示録が成し遂げられるこの地には患難と苦しみが激しいという事は十分に推察できるだろう。12章で神様の所属があかしの言葉で勝利して、16章では御怒りを彼ら(竜の群れ)にぶちまけたので、この啓示録の現場は患難の渦となったのである。二つの所属の霊たちの間に、そして、二つの所属の人々の間に戦争と審判がたて続けに発生したので、混沌として空虚だっただろう。この事も生きている者は分かるだろうが、死んだ者はこれに対する感覚がないだろう。

七つの頭と十本の角を持った獣、すなわち竜の群れが不品行のぶどう酒で万国を倒したのである。この不品行のぶどう酒は何なのか。
イエス様はご自分の事をまことのぶどうの木だと言われたのであり、その枝は弟子たちであり、この枝にぶどうが沢山できたと言われたので、イエス様の御言葉はまことのぶどう酒である(ヨハ15章)。申命記32:32-33を見ると、蛇の毒、コブラの恐ろしい毒はサタンの野ぶどうであり、野ぶどう酒であった。これは彼らから出た教理であり、教法である。
神様(イエス様)のぶどうとぶどう酒は命を与えるのである。しかし、サタンの善悪の実、すなわち蛇の毒である不品行のぶどう酒はサタンの教法であり、サタンの偽りの教理である注釈である。これを万国に飲ませて倒したので、すなわち万国を死の中に置くようにしたのである。

今の時は神様の聖書の御言葉(真理)を宣べ伝えて、サタンの群れは偽りである注釈の言葉を伝える混濁した時である。聖徒たちがどうやって知識を得て、この事実を知って区分できるだろうか。
神様の御言葉には命があり、サタンの言葉には邪悪がある。もし、神様の働きとサタンの働きがなかったら、この時代は静かであったろう。しかし、約束した啓示録が成し遂げられなければ、神様とサタンとの戦争が終わらないようになっている。それゆえ、どちらにしても一度は直面しなければならない事である。この時、神様の使者(牧者)とサタンの使者の実体を誰が分かるだろうか。
神様は聖書でこれを知らせられた。成し遂げる啓示録の中には、神様が約束された事と約束された牧者について記録し、サタンとサタンの牧者がする事を記録した。それゆえ、その仕業をみると、誰の行動なのか分かるようになる。サタンは神様に偽装して、サタンの牧者もまことの牧者のように偽装する(Ⅱテサ2:4、Ⅱテサ11:13‐15)。しかし、その行動と仕業は異なる。もし、サタンの牧者が神様の事をするようになれば、サタンの立場がどのようになって、神様の牧者がサタンの事をするなら、神様の立場がどうなるだろうか。それゆえ、各々記録された通りに自分の事をするのである。

世の牧者が天の幕屋に入って来て聖徒たちの額と右の手に刻印を受けさせたなら、啓示録13章が成し遂げられたのである。
誰が天の幕屋の聖徒であり、誰が世(海)から入って来た者なのか。また、誰が誰の手と額に刻印をしたのか、誰が刻印を受けてその刻印をした者に拝んだのか。これはただ約束の御言葉である聖書でのみ、判断する事ができる。

啓示録は三つの組織(人物)の事を記録したので、彼らが秘密の人物であり、背教者、滅亡者、救い主である。
もし、啓示録の道を備える七つのともしびの働きが始まったのにもかかわらず、サタンがじっと見ているだけでいるならば、そのまま神様の国になってしまうだろう。だから、サタンは彼らの働きができないように積極的に妨害をするのである。この事によってサタンの正体が現れるようになる。
神様は神様と神様の人を聖徒たちに知らせる事で、聖徒たちはサタンを信じず、まことの神様を信じるのである。この事こそ神様がなさろうとする事である。聖徒たちが悪魔を信じようとするのではなく、悪魔の正体が分からないので、惑わされるのである。

まことの宗教は天の神様が人に教える事であり、人は天の神様から学ぶのである。
神様は時代ごとに将来に成し遂げる事を前もって預言されて、その預言が宣べ伝えられた後に、約束した牧者に来られて成し遂げられた。これを信じなさいという事である(ヨハ14:29)。これがまことの宗教である。正しくて良い事をしなさいと言うからと言って宗教だと誤解してはいけない。預言と成就がないのは宗教ではなく、神様の御言葉ではない。これは恣意的な事で、自分の知識と人の戒めに過ぎないのである。世の中には国教があって、私教があり、まことの宗教が腐敗により変質されたものがあり、権威を振るって宗教を事業のように思う世の中の教え(世上教)がある。

  聖書には「末世だ、終末だ。世の終わりだ。」という言葉がある。これは一つの時代が終わる事を言う。なぜ終わるのか。腐敗したからである。神様は腐敗した一つの時代を清算して、新しい時代を再び創造される。聖書が言ったのは、まさにこれである。預言の御言葉を悟って、この時を知る者は終わる時代にしがみ付かず、約束した新しい時代の創造に入る事に力を注ぐだろう。

神様は誰が何と言っても約束された啓示録通りに成し遂げられる。啓示録を鏡として自分の事を映してみなさい。どのように現れるのか。この本の御言葉で審判を受けるようになる。
新約が成就する時は啓示録の背教、滅亡、救いの事件が息詰まるように現れて解決されるはずなので、この時代の状況がどのようなのか、分かる事ができると思う。
三つの存在が現れる順理はまず、背教者の七つの星であり、次は滅亡者のサタンの群れであり、その次は救い主である(Ⅱテサ2:1-3)。この三つの中の誰に救いがあり、誰に付いて行ったら救われるのか判断しなければならない。
インターネットのアンチカフェで救い主である約束の牧者を迫害する牧者と青年、学生たちは、聖書で自分の姿を探してみなければならない。彼らは分からず迫害して呪うのが義であると思っている。自分たちの行為がサタンの行動である事が分かれば、そのような悪行をしないだろう。これが啓示録の成就の時、現れる状況である。

彼らは私たちと共に神様の種で植えられて、生まれ変わるならば、その時は悟る事ができて、悔い改めるだろう。そのようになる事を祈る。


-光と光の出会いは勝利-

38000フィート上空で書く。

2015년 1월 17일 토요일

新しい事と二種類の種と新しい契約

新しい事と二種類の種と新しい契約

本文:エレ31章(マタ13章、ルカ8:11、啓14:14-16)


今から約2600年前に、神様がエレミヤに新しい事と二種類の種を蒔く事と、新しい契約を立てる事を預言された(エレ31:22、27、31)。

(このエレミヤはベニヤミンの地、アナトテの祭司のヒルキヤの子である。神様の御言葉が23年間エレミヤに臨まれ、これを記録したのがエレミヤ1章から52章までであり、新しい事と二種類の種を蒔く事と新しい契約を立てる事は52章の中、31章に記録した。聖句:エレ1:1-3、エレ25:1-3、ヘブ8章)

約束した事(新しい事、二種類の種、新しい契約)は、いつ、誰を通して成し遂げられるのか。
この預言は全ての民族にあかしされるため約600年間宣べ伝えられ、全世界に宣べ伝えるため、このような期間が必要であった。約600年後、神様はエレミヤに約束された事を成し遂げるために約束された牧者を誕生させ、この約束された牧者を通して成し遂げられた。

約束された牧者はいつ、どこの誰なのか。イザ7:14、ミカ5:1-4、ホセ11:1、ゼカ9:9。これが約束である。この御言葉通りに来られた方がイエス様である。

神様は約束されたイエス様に来られた(ヨハ1:29-34)。そして、マタイの福音書13章でエレミヤに約束された(エレ31:27)二種類の種を蒔かれた。良い種はイエス様を通して、悪魔の種は蛇、パリサイ人の牧者を通して(ルカ8:11、マタ13:24-30、36-43)。
神様がアダムの以後、約束された預言は、その通り全て成し遂げられ、約束をその通り成し遂げなかった事はただの一度もない。もし、神様が約束を守られなかったならば、どうして神様を信じる事ができるだろうか。

新しい事とは、モーセの律法ではない、違う事を言われたのであり、二種類の種は人の肉的種を意味するのではなく(ヨハ1:13)、霊の種、すなわち、神様の種と悪魔の種を言われたのである。
そして、新しい契約という事は、モーセの時の契約ではなく、新しい契約を再びするという意味である(ヘブ8章)。エジプトから出て来た肉的イスラエルと契約をされたが(出19:5-8)、彼らがその契約を破ってしまったので、新しい契約をされたのであった。新しい契約は、イエス様の血で立てられた(ルカ22:20、Ⅰコリ11:25)。イエス様の血で立てた新しい契約が、すなわち、新約であり、新約を総合したものが啓示録である。この啓示録を成し遂げるという事を血で契約したのである。
この新しい契約を守る者と守れない者がいる。約束の種で生まれ、再臨の収穫の時、収穫され、新しい国、12支派に所属されるならば、新しい契約を履行した者となる。

イエス様の以後、宗教人は、二種類の種で生まれるようになる。神様の種で生まれた者は収穫の時、収穫されて行って、悪魔の種で生まれた者は、収穫されて行かず、自分の畑、すなわち、自分の教会に残った者である。これが二種類の種の証拠である。
新しい契約、すなわち、新約には種を蒔く時があり、収穫する時があり、印を押して神様の新しい国、12支派を創造する時がある。これが血で約束された新しい契約である。

宗教とは、人の論理でも、知識でも、思いでも、戒めでもない。宗教は天の神様の御心であり、肉的なものではなく、霊(神)的な働きである。それゆえ、天が約束したその御心通りにするのが宗教人である。しかし、地球上の6千年の歴史を振り返って見ると、最初のアダムの世界が腐敗によって終わって、代わりにノアの世界が繰り広げられ、ノアの世界が腐敗する時、肉的イスラエルの世界が繰り広げられ、肉的イスラエルの世界が腐敗する時、イエス様を通して霊的イスラエルが始まった。イエス様の世界は、初臨と再臨に分かれていて、再臨で完成される。
時代ごとに腐敗したひとつの時代は終わって、再び創造された新しい時代が主管して来た。これが聖書であり、歴史である。

宗教を人の戒めと知識と考える人は、宗教の意味をわからない者であり、世の人なので、世の中のものでだけ知っている者である。宗教は神の御心であり、神の教えであり、神からの学びである。宗教が語っているのは、神様の約束である。この約束を全世界に知らせた後、その約束を成し遂げられ、信じさせるのである。これが約束であり、信仰である。約束した事があかしされるためにあらかじめ約束され、時になって成し遂げられる。
種を蒔くと約束されて種を蒔かれ、種を蒔いた後、収穫しに来ると約束され、時になって来られ収穫された(啓14:1-5、14-16)。収穫した人で神様の新しい国(再創造)の12支派を創造されるという約束通り、印を押して創造された(啓7章、14章)。これを約束されて、信じなさいと言われたのである。

神様の種でできた人と神様の種でできていない人の差は大きい。その差は天民と世の中の人(世上人)である。人々が信じるか信じないか、これは事実であり、神様はこの二つのうち、どんな人に共におられ、祝福を下さるだろうか。結局は一つは終わり、一つは永遠に存在するようになる。アーメン。

2015년 1월 16일 금요일

新約のアルファとオメガの結果と約束の牧者

新約のアルファとオメガの結果と約束の牧者


本文:啓22:13(啓1:8、21:6、2:8)



聖書で言うアルファとオメガ、即ち始まりと終わりはどんなものなのか。これは預言と成就を言っている。その例として、神様がアブラハムと約束された預言はモーセの時、全て成し遂げられ(出12:37-42参考)、旧約の預言者を通して約束された預言はイエス様の初臨の時、全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。このように新約の預言も約束の通り全て成し遂げられる(啓21:6)。これが新約のアルファとオメガである(啓22:13、21:6、1:8)。

神様は聖書に記録された通り、将来に成し遂げる事を計画され(イザ14:24)、預言者たちを通して先に預言され(ホセ12:10)、約束された預言を万国に知らせた後、あらかじめ約束された牧者を通して約束された事を成し遂げられた。神様は信じるくらいの証拠を過去6千年間、見せて下さり、このようにイエス様が新約で成し遂げる事を約束された事が預言であり、新約である。

イエス様の初臨の後、2千年間は、新約の働き(福音)を全ての民族にあかしするため、全世界に宣べ伝えた期間であり、今日、地の果てまで宣べ伝えられたので、これからは新約を成し遂げる時であり、現に成し遂げている。しかし、新約を信じなかったり、新約のその意味を知らなければ、成し遂げられたとしても初臨の時のようにわからず、敵対するようになる。イエス様が信じなさいと言われた事は新約であり、約束である(ヨハ14:29)。新約の預言とその成就をわからなければ救われない。新約が成し遂げられる前に救われたという者は、聖書も意味もわからない者であり、惑わしの言葉を話す者である。

新約が言っている世の終わりが来るようになれば、背教者が出現し、滅亡者が出現し、救い主が出現する。この三つの存在(牧者)が世の終わりに登場する人物たちである。預言されたこの三つの人物を見分けることができなければ救われない。
世の終わりの背教者は記録された背教の働きをするのでわかるようになり、滅亡者も記録された滅亡の働きをするので滅亡者だと分かるようになり、救い主も記録された救いの働きをするから救い主だと分かるようになる。
世の終わりの事件である啓示録6章と18章と13章で見た通り、万国がサタンの牧者から不品行のぶどう酒を受けて飲んで倒れ、サタンの神と結婚したので、これが背教でなければ何と言えるだろうか。異邦の偽りの牧者たちが、神様の民を、アダムの時の蛇のように善悪の木の実、即ち不品行のぶどう酒を飲ませ、万国を滅亡させたので、この偽りの牧者たちが滅亡者でなければ、何だろうか。これを見ても悟れなければ、死んだ者だろう。
神様が遣わされた牧者は、滅亡者たちに捕らわれている聖徒たちを召され、選ばれ、滅亡させた者たちと戦って勝利を得るのである。この事が啓示録15:2、17:14、18:4で見た事と同じである。これが新約が言っている世の終わりであり、世の終わりの事件である。世の終わりの時には背教、滅亡、救いの三つの存在を確実にわかってこそ、救いがある。
啓示録13章で見たように、竜も自分の牧者に権威と座を与えて働かせた。このようにイエス様も自分の使者を御座に共に着かせて下さり(啓3:21)、啓示録全章の事件を全部見せられた後、諸教会に遣わして、成し遂げられた事件、即ち背教、滅亡、救いの事件をあかしさせられた(啓22:16)。

第一ヨハネ2章を見ると、イエス様は神様の代言者であり、保恵師であった(韓国語聖書:Ⅰヨハ2:1「代言者」欄下注参考)。このようにイエス様もイエス様の御名で来られる真理の保恵師を遣わす事をヨハネの福音書14章、15章、16章に約束され、啓示録22:16にも、ご自分の使者を遣わすと言われた。世の終わりを迎えた聖徒たちが待ち望んでいるのはイエス様が約束された牧者である。旧約時代の聖徒たちが待ち望んでいた牧者はイエス様であったし、新約の聖徒たちが待ち望んでいる牧者は保恵師であり、遣わされたイエス様の使者(代言者)であり、敵と戦って勝利した約束の牧者である。
神様がイエス様と共におられる時、イエス様を見た事が、即ち神様を見た事になると言われたように、真理の聖霊が共におられるその牧者を見る事が、保恵師聖霊を見た事になる。保恵師というのは、真理で保護する師という意味である。
サタンの牧者も神様の牧者も働きが始まる時には、自分の牧者と共に働くようになる。これはニコライ派をサタンの会と言った事と同じで、イエス様を神様と言った事と同じである。どちらにしても霊は肉体を用いて働くようになる。

今のこの時代が必要とするものは、約束された使者である。モーセのように、イエス様のように、約束された新約の牧者が必要である。この牧者は再臨の時、成就された啓示録をあかしするようになる。

啓示録には三つの災害があり、三つの秘密がある。これを知っている牧者は全人類の世界の中でただ一人だけである。これを知ってこそ救いの事件もあるようになる。世の終わりの人々は自分の教団が腐敗した事も、倒れた事もわからず、自分の牧者によって救われると思っている。しかし、世の終わりには、自分の牧者が救い主ではなく、再び来られるイエス様と約束の牧者が救い主である。
世の終わりには、聖徒たちは、自分の教団、自分の教会、自分の牧者に陥っていて、自分の牧者の詐術(詐術:偽りでだましてそそのかすこと)に縛られている。誰が彼らを解放させるだろうか。約束の牧者は、啓示録12章のように、神様の民を捕えているサタンの牧者と戦って勝利し、聖徒たちをそこから救い出す。戦って勝利し、負けた証拠は申命記28章がよく語っている。負けた者は7つにの道に分かれて逃げ去り、勝利を得た者はイスラエルになって約束された神様の新しい国(霊的新しいイスラエル) 12支派を創設するようになる。この事を言って「収穫して、印を押し、12支派を創設する」というのである。

終末である世の終わりの事件が啓示録の事件であり、啓示録は加減なく記録された通りに成し遂げられたものなので、確認する事ができる。しかし、サタンの神に捕われた者たちは、これを知ろうともしない。当然、収穫され、印を押され、12支派に所属してこそ、約束された再創造の天民になる。

悪い者たちは、悪を思い切り行って地獄の火に入るようになるし、私たち、信じる者は楽園の世界、天国に入って神様と共に永遠に生きるようになる。アーメン。

2015년 1월 15일 목요일

新天地イエス教が、どうして韓基総から 憎まれているのか

新天地イエス教が、どうして韓基総から
憎まれているのか


本文:マタ23:29-36




新天地イエス教(以下「新天地」)と韓基総は同じキリスト教であり、同じ聖書、同じ神様に仕えている教会なのに、新天地が韓基総にあれだけ憎まれていて、迫害される理由は何か。それは、彼らから憎まれる内容が多いから憎まれているわけである。

憎しみと迫害を受けるのがいいのか。そうではない。肉を削られ、胸をえぐられるような痛みを感じる。韓基総と一つとなり、させられるまま従順すれば、迫害されないのではないのか。そうである。どうして、知っていながらもそうしないのか。それは、韓基総よりももっと大きい方が神様であられ、神様の御心通りにするため、彼らと一つにならないのである。
聖書のどこにそういう言葉があるのか。Ⅱコリ6章14-18節に「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」と言われた。こういう理由で、新天地は別にいるわけである。

それでは、韓基総の過ちは何か。韓国人ならば、みんな知っている事実をわざわざ聞く必要もないと思うが、一回調べてみることにする。韓基総の根は長老教であり、長老教の根は殺人者、カルヴァンの教であるカルヴァン教(イエス教ではない)であり、彼らは日帝時代に日本の神(天皇)に礼拝し、賛美した。その証拠は高神派である(*高神派は大韓イエス長老会の教派の一つで、日帝時代、神社参拝をした者たちから分離して出て行った)。

1980年代に長老教(大韓イエス教長老会)の牧者たちが、果川所在の神様の選ばれた幕屋聖殿を異端と言いながら、浄化するという名目で入って来ては、神学校の門前にも行ってみたことのない異端伝道師たちに牧師按手をした。ここ、幕屋聖殿の伝道師たちのうち、長老教の牧師となった者たちは、啓示録13章の七つの頭と10本の角を持った獣、すなわち、異邦の偽りの牧者たちから額と手に按手を受け、彼らに礼拝した者たちであり、彼らが、長老教の権勢をふるい、総会長、老会長までやった。死んだ信仰人でないかぎり、どうしてこのことを知らないと言えるだろうか。

彼らが、啓示録13章の竜の牧者に、額と手に刻印を受け、礼拝するのを見た者(当時幕屋聖殿の聖徒たち)が数千名である。彼らは、神様に恵みを頂いて伝道師にまでなった者たちだが、アダムのように神様に背教したし、獣、竜の牧者たちに属した者たちである。

当時、幕屋聖殿の現場で、この事実を見て、よく知っているのに、サタンの偽りの牧者たちと背教した牧者たちに属して、同じ善悪の木の実を一緒に食べることはできない。神様とイエス様の御言葉で「あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように」と言われた。Ⅱコリ6章14-18節、啓示録17章14節、18章4節をみよ。むしろ信仰をしないで不信者になったらいいのであって、どうやって、彼らの悪行を知っていながら、彼らのように背教者になるだろうか。
彼らがあの昔のカルヴァンと同じ行動をするのは、彼らの霊的子供だからである。しかし、私たちは、彼らを悔い改めさせ、再び生まれるようにするために無数に我慢し、悟らせている。悪を善で、敵を愛で、くらやみを光で輝かせ悟りを与えている。私たちは、ののしりと迫害と呪いより許しと愛と祝福で、私たちが神様の所属であり、神様の戒めを守ることを見せてあげる。

もうひとつは、神様の聖霊とサタンの悪霊は、敵同士で、互いに憎んでいる。歴代の神様の使者たちが、現れる時ごとに、サタンの牧者たちが、耽って迫害したし、イエス様とその弟子たちにも以前の預言者たちにしたように、偽りの牧者、即ち、サタンの牧者が憎んで、迫害し、呪って、殺すことまでした。これは歴代の聖書が証明している。

私たち、新天地は、本当に真と偽りを区別することを願い、これのために、大衆の前で、聖書を基準にして、試験を受けようと数えきれないほど既成の教団に提案したし、聖句40問題を提示したりした。

今日、預言が実体となって現れる時、サタンの牧者たち(滅亡者)の秘密(啓17:7)と彼らから刻印を受けてひとつとなった彼ら(背教者)の秘密(啓13:14-17)を主が約束された牧者に教えることで知るようになり、知ってこそ彼らを見分けることができる。この秘密を知る者は、世界の民族の中、ただ、新天地人たちのみである(啓11章参考)。初臨の時にもイエス様は律法学者とパリサイ人たちの正体をご存じだったので、彼らを蛇と言われた。
新天地(約束の牧者)が彼らを現場で、全部見たから自分たちの正体が全部ばれるから、だから殺すまで憎むわけである。泥棒が自分が泥棒だということを知っている人を憎むように。この事実を知っているから私たちは、彼らの罪を許し、再び生まれるように手助けしている。

私たちは2千年前の預言が、今日成し遂げられたことをあかしする。信じる者は本当に幸いである。アーメン。

2015년 1월 14일 수요일

天国の秘密を預言した比喩とその成就

天国の秘密を預言した比喩とその成就
(本文:詩78:1-4、マタ13:34-35、ヨハ16:25)


天国の秘密を預言した比喩とその成就は、どんなものなのか?
神様の御言葉、詩篇78:2に、「たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。」と言われた。この事は、誰が成就されたのか?アダムの9代目の子孫であるノアの10代目の子孫アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロンに移住する時までが14代、バビロンに移住した後から14代目に聖霊によってイエス様がお生まれになり(マタ1:16-17)、イエス様を通して詩篇78編の預言を成就されたので、すなわち、天国の秘密を比喩で語られたのであった(マタ13:34-35)。

比喩で語られた天国の秘密は、必ずわからなければならない人がいて、絶対にわかってはならない人がいる(マタ13:10-11)。この二種類の人は、どんな人なのか?必ず聞いて悟らなければならない人は、神様の所属の人であり、絶対に聞いて悟ってはならない人は、悪魔の所属の人である。聞いて悟れなくさせるという事は、蛇(サタン)の人になったアダムとエバが、その手を伸ばし、いのちの木の実を取って食べないように、エデンの園から追い出して、その道をふさがれた事(創3:22-24)と同じである。

天国の秘密、比喩の重大性は、どうだろうか?
比喩を悟ってわかる人は、選民であり、罪を赦されて、比喩を悟れない人は、外人であり、罪を赦されない(マコ4:10-12)。前で言ったように、神様の所属は、悟って罪を赦されて、悪魔の所属は、悟れず、罪を赦されない。選民と外人は、肉体を指して言っているのではなく、その人の所属の神によって外人と選民になる事ができる。比喩を悟れない理由は、まさに、悪魔の神の所属だからであり、神様の種と霊で新しく生まれなければ、罪を赦されないので、罪人であるのみである。天のものを聞いて見て信じる者が、印を押された者であり、聖霊が共にいると言われた・・・(ヨハ3:31-34)。

啓示される信仰が来る前には、律法の下にいて、養育係の下にいて、この律法では罪を赦されないので(ヘブ10:1-8)、新しい事、すなわち、種を蒔く働きがあるようになった。神様の預言、詩篇78編は、イエス様が来られて天国の秘密を比喩で語られた事によって成し遂げられて、神様がエレミヤを通して預言された通りイエス様は、天国の秘密の種(良い種)を蒔かれて(エレ31:27、マタ13:24-25)、この時、悪魔は、毒麦の種をさらに蒔いた。この二種類の蒔いた種のうち、良い種の実(穀物の聖徒)は、再臨の時、収穫されて、神様の国と祭司長になるようになる(啓5:9-10)。これが種に対する秘密である。

では、イエス様が比喩で語られた(預言)その実体は、いつ、わかるようになり、見るようになるのか?これは、再臨の収穫の時である。その時は、預言が成し遂げられた実体を、顔と顔を合わせて見るようになるのでたとえ(比喩で話す言葉)ではなく、実体ではっきりとあかしする事ができる(ヨハ16:25、Ⅰコリ13:12)。

初臨のイエス様は、当時、旧約を全て成し遂げられて(ヨハ19:30)、将来(再臨の時)に成し遂げられる事を比喩で語られた。イエスが天国の福音を蒔いたという事は、旧約を成し遂げた事であり、天の神様の種を蒔いた事である。この蒔いた種の実を刈り取って来るので、これが再臨の働きである。この時、神様の種でできた実は、神様の息子たちであり、悪魔の種、毒麦は悪魔の子どもたちである(マタ13:37-39)。神様の種で生まれた神様の子どもたちは、神様の行いをするだろうし、悪魔の種で生まれた悪魔の子どもたちは、悪魔の行いをするだろう(マタ7:15-21参考)。
神様は、まことの言葉、すなわち、真理を語られる。しかし、悪魔は、まことの言葉ではなく、偽りの言葉、すなわち、非真理を話す。これは偽りの種で生まれたからである。悪魔の子どもたちは、昔も今も、自分たちの間違いを神様の子どもたちに濡れ衣を着せる偽りを話す。インターネット・アンチカフェ(Anti Cafe)に入って見ると、どれくらいたくさんの偽りの話を総動員しているのか、のろい、迫害、殺人、偽りが乱舞している。本当に目を覆いたくなるほどである。あらゆるのろい、あらゆる偽りの話を全て動員したので、これがどうして人だと言えるのか?獣よりももっとひどい。これをどうして神様が赦されるだろうか?再臨の時を、ロトの時とノアの時のようだとイエス様は語られた(ルカ17:26-30)。本当にノアの時、ロトの時も、こうだっただろうか?今が、その時よりももっとひどいと思う、何倍も。

今は、教会の救いではなく、教会の終末の時であり、世の終わりだと言った。アンチカフェに上っている偽りの話は、大多数が彼らの牧者の指示によってしているものだというのは明らかであった。個人的に出会って、戒めるならば、みんな「間違っていた、ごめんなさい。」と言い、許しを求めた。ある宗教放送に行って、「新天地について、なぜ、偏頗・歪曲をしたのか?」と言うと、「ごめんなさい。」と言い、間違いを認めた。では、訂正報道をしなさいと言ってみると、「それはできない。」と言った。その理由は、「自分たちはサラリーマンで、これを指示した人がいて、8ヶ所の教団の牧者が訂正報道をしなさいと言ったならば、訂正報道をする事ができる。」と言った。これが教会の末年の宗教世界の現実である。

この時、救われる人は、Ⅱコリント6:14-18の御言葉のように、悪から出て来て、分離して、祈ってこそ、救いが可能になるだろう。末世の悪は、悪の神から始まって、その悪は、その神が人の心を動かす事によってあるようになると思う。聖書の戒めを守れないそれ自体が悪であり、不法である。インターネットカフェに載せる悪意的な内容、それ自体がその人の所属を語っている。

審判の時、どこに行くだろうか?善の道に出て行く事を祈っている。

2015년 1월 13일 화요일

まことの信仰と偽りの信仰と迫害

まことの信仰と偽りの信仰と迫害
 (本文:ヨハ12:9-11、Ⅰヨハ4:7-8、使7:51-53、マタ5:10-12、マタ23:29-34)


聖書6千年の歴史の中で見たように、創造主神様がおられて、被造物である悪魔がいる。そして、神様の所属の牧者と聖徒がいて、悪魔の所属の牧者と教徒がいる。

神様の御言葉(聖書)の中で見たように、この地の人々には、誰でも原罪と遺伝罪と自犯罪がある。この罪を解決するため、モーセの律法的な祭事があり、イエス様が十字架で血を流された、罪の贖罪のため・・・・

世には、神様の所属の人よりも悪魔の所属の人がもっと多いと思う。何によってその事実をわかるだろうか?その行いである(マタ7:15-20参考)。上の本文の聖句で見ると、二種類の人の行いがある。神様に属した者が悪を行なわず、悪魔に属した者が愛を行いはしない。神様の6千年の歴史の中で迫害と殺人をした者たちは、悪魔の所属の牧者とその教徒たちであり、迫害を受けて殉教した者たちは、神様の所属の牧者とその聖徒たちであった事を旧・新約聖書は証明している。この聖書に記録された御言葉が偽りの言葉なのか?
イエス様の初臨以後、再臨の時までの迫害についても、迫害と殺人と出教があると、イエス様が語られた事が、ヨハネの福音書15章―16章に記録されている(ヨハ15:18-21,16:1-3)。

今日、新天地の天の文化は、どの時代よりも、そのどの誰よりも確実で、優れたものである。新天地には、その誰もわからなかった啓示録に通達して、その実体をあかしするイエス様の代言の使者が共にいる。イエス様は、諸教会のために自分の使者を遣わして、これらのこと、すなわち、啓示録の成就をあかしさせられた(啓22:16)。今、韓国の諸教会がこのあかしを受け入れているのか?ノアの時とロトの時のように、イエス様の初臨の時のように、また迫害して、殺す事ができなくていらいらしている。インターネットのアンチカフェ(Anti Cafe)に入ってみよ。この言葉が本当かどうかわかるだろう。

あらゆる偽りの言葉を作り出して流布した内容は、顔を上げて見る事のできない恥の中の恥、汚らわしい事を全て動員した。これは、彼らが自分たちの教団、教徒たちがこれを見て、真理の町である新天地に行かせないようにする手段だと言えるだろう。人の良心で、どうしてこのように醜悪な偽りを作り出して流布できたのだろうか?大人たちでも見るに忍びないのに、育って行く子どもたちが見るなら、どうなるだろうか?あのような行為を真似るようにならないだろうか?政府は、なぜ、あのような醜悪な行動を見ているだけなのか?

我が新天地は、イエス様が「敵をも愛せ(マタ5:44)。」と言われたように、私たちに罪を犯して来た者たちを許して、罪から解いてあげた。そして、「互いに愛し合って、共に生きる道に出て行こう。」と言った。誰が神様の御心通りした者であり、誰が善を行った者で、悪を行なった者なのか?
大人たちでも子どもたちでも、人には見る事と聞く事、全てが教育になる。我が天の文化は、天の聖なるものを教えている。これが本当に正しい事ではないのか?

迫害する者は、韓国の仁心と教育と社会を辱める反国家、反国民の思想者だと思われる。韓国を除外した全ての世界は、新天地の天の文化について大歓迎をしていて、大賛成を送っている。私たちは、世界の中に、韓国のため、国威宣揚をしている事を世の中は知っている。天でも地でもという事である。彼らがそのように行う事を見ると、無識だからでもなく、悪魔の心を受けたので、死ぬ気で暴れていると思われる。これは、天も見て、地も見て、天地万物も聞いて見たので、証拠になる。

我が新天地は、神様の約束が一日も早く完成されるため、総力を挙げていて、彼らは新天地を滅ぼすため総力を挙げている。これが神様に属した牧者とその聖徒、そして、悪魔に属した牧者とその教徒の心と行いである。
あのような間違った思考方式の行いは、神様(所属)に対する迫害であるだけではなく、不信者の世界と子供たちにまで害を与え、さらには世界の中で韓国の教育水準の価値まで失わせる行いではないのか?

私は聖書に無知な彼らのために神様に祈っている。もし、彼らが聖書の知識があったならば、あのように悪鬼に捕らわれはしなかったのに・・・・。この迫害をする者たちの中には、改宗教育で金をもうけようとする者もいて、神様と聖徒のお金を詐欺を行う者もいて、李萬熙(新天地総会長:約束の牧者)の血と肉(啓示の御言葉)を食べてこそ、救いがあり、李萬熙の名前で祈ってこそ、その求めた事を受けると言って新天地から追い出された者もいる。聖書には、イエス様の名前で祈りなさいと言った(ヨハ14:13-14)。

父なる神様、彼らを目覚めさせて、悟りを与えられ、彼らも私たちのように神様の戒めを守って、義に至らせて下さい。アーメン!

2015년 1월 12일 월요일

悪夢の5年

悪夢の5年


狭く、険しい十字架の血の涙の道。
両親に踏みつけられ、監禁される人権の涙の訴え。
大統領と国会議員を後ろ盾に踊りを踊る韓基総(韓国キリスト教総連合会)。
落ち葉ちる信仰、神様なのか、大統領なのか、韓基総なのか?
目も耳もない大統領は、どの国の大統領なのか?

急減する信仰世界、薬を捜して行かれた方、なぜ、来ないのか?
九萬里長天(高く果てしない空)の道が遠くて来られないのか、天にも薬がないのか?
不法の5年、とめどなく流れるあの水は、天の涙なのか?
悪夢の5年、ローマ書8章で、栄光のその日を待ち望む。

天馬に乗って、雲を蹴散らし、地球上を見下ろす心。
二つの手を合わせて神様を仰ぎ見、誓って、祈る姿。
天も見て、地も見て、雲も見て、山川草木も見る。

悪夢の中に育つ一株の木、光と雨と空気を受けて呼吸する。
天と結んだ契約、不変の岩。千回、万回、吹き付けても不変。
この夜も、父の懐の中で休む聖徒たちの姿、美しい!
悪が行って、善が来る。夜明けの胸に降り注ぐまことの光
まことの種でできた姿は、父の姿、我が光の形。

待って、待ち望んだ天国が来る。天から下って来る。
霊人たちをぎっしりと入れて来る。霊人たち、踊りを踊り、歌い来る。
雲も泣き行き、霊たちも泣いて行った世が過ぎて、栄光の国が来る。
天增歲月人增壽、春滿乾坤福滿家は、永遠のいのちの天国、新天地。
死末生初初樂道は、新天地の運勢、一飮延水永生水。
我が役軍たち、抱きしめて、踊りを踊って、懐を広げてみせよ、新天地。
おはやしは良い調子で、踊り出す。永遠無窮、愛の国。

2015년 1월 11일 일요일

各時代的信仰と食物

各時代的信仰と食物
(本文:マタ24章(ヨハ6章))


各時代的信仰と食物は、何を言ったのか?
時代は、アダムの時から今日まで、アダム、ノア、モーセ、イエス様の初臨の時があり、また、イエス様の再臨の時がある。
時代的信仰はどんなものなのか?時代ごとに預言があり、成就された事柄があった。これを信じる事が信仰である。
食物は、二種類がある。一つは肉の食物であり、一つは霊の食物である。時に応じて下さる食物は(マタ24:45-47)、霊の食物であり、信仰の食物で、預言が成就される時にその預言と成就された実状を知らせて下さるものが、その時の食物である。
本文のマタイの福音書24章は、成し遂げられる御言葉であり、この預言(マタ24章)が成し遂げられる時は、マタイの福音書24章の御言葉(預言)とこの御言葉通り成し遂げられる実状が、この時の取って食べる食物である。

神様がアブラハムと約束された(創15章)事をモーセの時、成し遂げられた。この時、食べるべき食物は、その預言(約束)の御言葉と、その成し遂げられた実状である。旧約の預言者たちに預言された事は、イエス様の時、成し遂げられたので、この時、取って食べるべき食物は、旧約の預言と、イエス様の時、それを成し遂げた実状である。ヨハネの福音書6章で、イエス様の肉と血をいのちのパン(食物)と言ったが、この肉と血が、すなわち、旧約を成し遂げた啓示であり、当時に食べるべき霊的食物であった。イエス様が2千年前に約束された事は、新約の預言であり、この預言が2千年が過ぎた今日、大韓民国で成し遂げられた。この時、聖徒が取って食べるべき食物は、新約の預言と、その預言通り成し遂げられた実状である。

これが、時に応じて下さる時代的信仰と食物である。

肉の食物は、どの時代でも食物であるならば、みんな食べても大丈夫だが、霊の食物は、そうではない。約束した新約を成し遂げたにもかかわらず、相変わらず、旧約の預言と旧約を成し遂げたものをあかしするという事は、新約を成し遂げた時の食物になる事ができない。新約を成し遂げた時の食物は、新約(預言)と、その成し遂げた実状であり、新約の啓示録が成就された今日は、これ(新約の預言とその実状)を食べてこそ、救いがある。
旧約と、その成し遂げたれたものを取って食べたとしても、新約の預言を成し遂げられた時、これを見る事も聞く事もできないので、信じられないという事は、時に応じて下さる食物を食べた者になれず、相変わらず、飢えるだろうし、暗い夜のように見えず、過ぎ去ってしまうだろうし、見る事も、聞く事もできなかった。信じられないので、救われない。

2千年前のイエス様のあかしは、旧約を成し遂げた事であり(ヨハ19:30)、イエス様の再臨の時のあかしは、新約を成し遂げた事である(啓21:6)。主の再臨の時は、旧約を全て成し遂げたように、新約を全て成し遂げられる。イエス様が新約の封じられた本(啓5章)の印を解いて開かれて(啓6,9章)、その本を啓示録10章で一人の人(約束の牧者、新しいヨハネ)に食べさせて下さった。そして、新約(啓示録全章の事件)を全て成し遂げられて、その成し遂げられた事をこの一人の全て見せて下さった(啓22:8)。そして、啓示の本を食べた者であり、啓示録全章の事件の成就を全て見た一人(牧者)を選んで、諸教会のためにご自分の使者にして、その見て聞いた事を諸教会に行ってあかしさせられた(啓22:16)。この約束を信じなければならない事が、聖徒の義務ではないのか?

イエス様が七つの印を全て解かれる事によって開かれた本を受けて食べて者に、全章の事件を全て見た者に聞いて見なければならないという事が、天の父の御心通りする信仰である。この御心通りする者が、天国に入ると言われた(マタ7:21参考)。この御心通りできない者は、天国に入れない。
新約の啓示録が成就された実状の食物を取って食べない者は、飢え渇くだろうし、また、聞く事も見る事もできないので、信じない。

神様が啓示録を成し遂げられる目的は、何なのか?それは、神様の国と祭司長と白い群れたちを創造されるためであった。アダムが罪を犯した後、この地には、まことの神様の国と牧者と民がいなかった。アダムの世界も、ノアの世界も、モーセの世界も同じように契約を破って、腐敗して、結局、滅亡されてしまった。もし、アダムやノアやモーセのイスラエルが神様の契約を守ったならば、神様が後の時代を約束されなかっただろう(ホセ6:7、出19:5-6、エレ31:31-32)。このゆえに、神様が啓示録1:5-6に、「罪から私たちを解放されて、神様の国と祭司長にされた。」と言われたので、これが啓示録を成し遂げる目的である。
神様が約束された啓示録の十二支派が約束の国であり、祭司長であり、白い群れである。ここに属さない者は、誰であるにもかかわらず、ただの一人も救われる者はない。アダムのように、肉的イスラエルのように(ホセ6:7)、なぜ、契約を信じないのか?

新約に約束した啓示録の成就と代言の使者の言葉を信じる事が、すなわち、イエス様の御言葉を信じる事である(啓1:1-3参考)。信じる者は、天国と永遠の命を得るようになる。アーメン!

2015년 1월 10일 토요일

神様と竜の正体

神様と竜の正体 
(本文:啓20:1-3、創1:1、出3:14)


神様は、自ら存在される方であり、天地と万物を創造された創造主であられる(創1:1、出3:14)。これゆえ、神様は、天地万物の父であられる。
竜は、被造物で、背教した霊である。竜は古い蛇であり、サタンであり、悪魔である(啓12:9、20:2)。創世記3:1で見たように、これを神様が創造された野の獣のうちの一つ、すなわち、蛇だと言われた。これは、エゼキエル28章で見たように、自分を神だと言った敵対者であり、背教者である保護者ケルブであった。この保護者ケルブは、エデンの園で、火の石の間を歩み、各種の宝石で身を飾り、知恵が充満で、完全な印であった天使長であった。ケルブは、多くの天軍たちを持った者であり、その権威は、天軍を動かす(指揮する)権威であった。
竜、すなわち、蛇は、アダムとエバを惑わして、神様の世界を6千年間統治した者である(マタ4:8-9、ルカ4:5-6、エペ2:2)。これを解決するため、神様の回復の働きも6千年間、続けて来た。この竜が、今日、啓示録の時、捕えられて閉じ込められるようになったので(啓20:1-3)、今や、解放が来て、神様の世界になって、神様が統治する時代になったのです。
アダムの時、権威を持った竜は、アダムの時、ノアの時、モーセの時、初臨のイエス様の時にも神様の働きを妨害して、人々を惑わして、迫害とのろいをして、人々を混乱させて来て、殺人までした。

悪魔の武器は、偽りの言葉である。アダム、エバの時から偽りに専念して来た。これもまた、そうするしかないという事は、自分が神様にならなければならないので、まことの神様のものを盗用して、ここに自分の偽りの言葉を混ぜて、偽りに専念して来たのである。
この悪魔が一番不安な時は、時代ごとにあった神様の働きの代行者である牧者、預言者たちがあかしした時であった。悪魔が、なぜ、神様の代言者のあかしを恐れたのだろうか?これは、遣わされた神様の使者のあかしが本当だったからである。悪魔が、今日まで、あかしした事は、偽りの言葉であり、神様の使者のあかしは本当だったので、悪魔の牧者のあかしが偽りである事が明らかになるからである。この事で悪魔は、神様が遣わされた者たちを、さらに憎んで、彼らに悪い行いを専念するのである。それだけではなく、彼らを殺すまでした。イエス様も、その弟子たちも、旧約の預言者たちも本当に、まことのあかしのせいで、サタンに災いを受けたのである。

イエス様がヨハネの福音書8章に、ユダヤ人たちとパリサイ人たちに言われた御言葉を見る時、彼らは、イスラエルの人々であったが、悪魔と一つになって、悪魔の神を受けて、悪魔を神様だと思って仕えたので、悪魔が彼らの父になり、彼らは悪魔の子どもになった。それなのにもかかわらず、彼らは、まことの神様とにせものの神様である悪魔を区分できず、悪魔をまことの神様だと思っていた。

私は、天地人である。天の種で地から生まれたのでという事である。天と地、天地人は、新しい天、新しい地、新しい天地人である。これが天の種で新しく生まれた新しい被造物である。
神様が共におられる牧者がいて、悪魔(竜)が共にいる牧者がいる。初臨の当時、エルサレムを主管した牧者たち、すなわち、パリサイ人の牧者たちが悪魔の牧者であった。彼らを主が蛇だと言ったのでという事である(マタ23:33)。
時代ごとに神様が遣わされた預言者たちを迫害して、殺した者たち、すなわち、当時の牧者たちは、サタンの神が入った(イスカリオテのユダのように)サタンの牧者であった。この事は、聖書が証明している。
イエス様を殺したイスラエル(ユダヤ人)の牧者たちを神様の牧者だと人々は思っているだろう。しかし、事実は、その中にサタンが入って主管していたという事をわかるだろう。

2千年が過ぎた今日、啓示録の事件を見たように、誰が背教者で、誰が滅亡者で、誰が救い主なのか?啓示録には、この三つの存在が出現している。しかし、封じられた本の印を解く前には、この啓示録の意味をわかる者は天上天下に一人もいないと記録されている(啓5章)。この本の七つの印を解いた方は、ただ、イエス様であられ、開かれたこの本を受けて食べた者は、ただ、一人使徒ヨハネの立場のイギンジャだけ(新しいヨハネ)である。この御言葉とこの御言葉通り成し遂げられた事を聞いた者も、ただ一人だけであり、これを伝えよと指示された方も、啓示録10章のただ一人だけである。すなわち、新しいヨハネである。
この時、選民(霊的イスラエル)は、天の太陽・月・星のように、全て地に落ちて、啓示録13章のように、背教して、この背教者たちを滅亡させた者たちは、エルサレムを主管したパリサイ人のような教権主義者たちであった。啓示録13章に、選民を滅亡させた七つの頭と十本の角を持った獣は、竜の牧者たちであり、初臨の時の祭司長たちと大祭司長たちのような主管者たちである。この事実を見てもわからないならば、そのような者には、聖書が必要ないだろう。
このような時に、主の命令を受けて、悔い改めよという手紙を送って(啓2,3章)、見て聞いた事と開かれた本の御言葉を初臨のイエス様のようにあかしした者は、イエス様に属した救い主である。誰を救うのか?啓示録17,18章のように、竜の群れの牧者たちに捕らわれて、捕虜になっていてもわからない民族に行って、彼らを救い出すのである。

なぜ、聖書の預言と現実を信じないのか?彼らが与える不品行のぶどう酒は、蛇の毒であり、まむしの悪じなのに(申32:31-33)、これは良いと受けて食べながら、隠されたマナといのちの木の実は、なぜ、背を向けて受けないのか?今日、彼らの不品行のぶどう酒(善悪の実)によって万国が倒れた事を知っているのか、わからないのか?

イエス様は、ご自分の使者を諸教会に遣わして、この事実を知らせた(啓22:16)。遣わされた使者を迎え入れないという事は、イエス様を迎え入れない事と同じである。迎え入れない者は、アダムの家族たちのように(ノアの時、ロトの時)イエス様の初臨の時の肉的イスラエルのように、救われない。
聖書を持って、遣わされた使者の前に出て来て、正道に立て。聖書は、私たちの救いのために下さった御言葉である。聖書の約束を無視して、信じも、守りもしないという事は、背教と悪の神(霊)が自分をさえぎっているからである。

神様とその御言葉は信じず、自分の牧者のその言葉だけ信じるという事は、間違った信仰である。約束した神様の種で生まれず、収穫されず、印を押されず、約束の国12支派に所属されず、啓示録を加減して、いのちの書に名前を記録されなかった。天国と地獄、死と命のうち、どちらに行くだろうか?
聖書も良くわからないのに、無視して、のろって、このような者がどこに行くだろうか?初臨の時を考えよ。私は、あなたたちのために努めて祈っている。

2015년 1월 9일 금요일

海外の各国と我が国(韓国)の信仰の比較

海外の各国と我が国(韓国)の信仰の比較
 (本文:使7:51-53)


韓国の牧者たちと海外の各国の牧者たちの信仰は、どうだろうか?聖書についての知識は同じだと思うが、行いは全く違うと思う。

海外の牧者たちは、親切で、優しくて、身なりも行ないも低くなっていて、高慢な事を見る事がなく、協力的であった。また、祝福を受ける事を望み、相手を自分よりも高くして、友好的であった。
韓国の牧者たちは、どうだろうか?過度に高慢で、自分を高くする事に力を尽くして、自分だけを一番に思って、きよいふりをして、救われた正統だと自認して、お金を好んで、他人を無視して、愛よりのろいを好んで、迫害とのろう事を信仰だと考えていると思う。

海外の各国の礼拝は、ほとんど賛美礼拝であり、イエス様をあかしする礼拝であり、祝福の礼拝であった。韓国の牧者たちは説教の時間に主に、世の話をする事が大多数であり、祈福(福を祈ること)信仰をする事で知られている。そして、聖書の啓示の御言葉を恣意的に解説した。注釈を聖書の上において、主に注釈の言葉で説教する。

海外の牧者たちも連合会がある。しかし、信仰の自由によって単独教団が多く、それなのにもかかわらず、互いに往来し合っている。どんな教団も責めず、友好的に過ごしている。韓国の教団は、全く違う。自分たちの所属教団でなければ、異邦、または、異端だと罪に定め、他の教団(仏教、儒教、ヒンドゥー教、イスラム教)などを悪魔と罪に定め、のろう批評をインターネットのアンチカフェなどに載せる特異な面が多い。
例を挙げれば、海外の牧者たちは、一般の不信者のような批評をするにはするが、主日礼拝だけは賛美と祝福によってするように見える。韓国は特に教団の区分がひどく、祈福信仰をして、聖書の解釈は注釈に頼って、礼拝の時、終末論について極端な主張をする傾向がある。聖書を恣意的に解く事が注釈であり、この注釈の内容で教育と礼拝をリードしている。

海外の諸教会は、安全で、静かで、平穏に見える。韓国の教会は、教団ごとに戦争である。はなはだしくは、自分たちと教理が異なる教団に対して戦争を仕掛けている。夜が明ければ、宗教新聞、放送などは、偽りまで動員して、偽りで歪曲報道をする。これは戦争を誘発する行為に見える。

このような理由が何だろうか?
今の時は、聖書での名前の通り、真理の聖霊が来られる時である。一方、全世界の教会は、終末の時、すなわち、太陽・月・星が全て落ちる時である。
神様の6千年の働きの中にあった事を調べて見ると、神様の使者、すなわち、預言者が現れる時ごとに紛争が起こって、迫害があり、遣わされた預言者たちが殺された。イエス様とその弟子たちもそうであった。誰が殺したのか?同じ宗教の指導者たちが殺した。初臨の時を見よ。その答がある。
今日、韓国にイエス様の初臨の時のように神様とイエス様と真理の聖霊と天国が来たならば、悪魔がじっとしてだけいるだろうか?昔のように(マタ23:30-37、使7:51-53)殺そうとするだろう。これが聖書が言った戦争であり、患難である。

聖書は、この時を知らせて、勝利せよと言ったのであり、イエス様の血とあかしする言葉で勝利したと言われた(啓12章)。このような事がなければならないし、この事実は免れないだろう。しかし、神様と天国が韓国に来られる事よりさらに大きな祝福はないだろう。韓国が新しい選民、新しいイスラエルになって、新しいエルサレム、新しい天、新しい地になって、新しい天国が成し遂げられる。

神様とその働きが現れる所に悪魔が働くようになり、霊的戦争があるようになった。今日、この戦争で悪魔が負けて、神様が勝利し、悪魔が地獄に捕らえられて閉じ込められるようになるので、平和が来て、神様が6千年目に始めて統治するようになる(啓19:6)送旧迎新、好時節になるだろう。

このため、神様は、休まずに6千年間働いて来られたのである。ここで誰が悪魔の行動をして、誰が背教の行動をし、誰が救いの働きをしたのか、聖書、すなわち、啓示録でその答を探そう。悪魔の行動をした者と、背教した者は共に地獄に行くだろうし、救いの働きをする者は、天国に行くだろう。

啓示録13章、16章の実体たち、啓示録14-15章の実体たち、啓示録6章と7章の実体たち、啓示録17-18章の実体たち、啓示録2-3章のと12章の実体たちをわかるのか?私は見た。だから、誰なのか知っている。
初臨の時のように、イエス様がこの事実を諸教会に知らせようと私を遣わされた。エゼキエル3章のように、啓示録22:16のようにという事である。

今、この世の宗教は、イエス様の初臨の時の肉的イスラエルのように終わった。私たちは、新しい時代を迎えている。アダムの世界→ノアの世界→モーセの世界→イエス様の初臨の世界→イエス様の再臨の世界のようにという事である。

今は、神様と天国とイエス様と御使いたちが大韓民国に来られて(初臨の時のように)、その御心が天で成し遂げられたように(啓21章)、今日、韓国で成し遂げられている。これは、人類の最高の祝福であり、この国は、天国と永遠の命の国である。今は、これを受け入れなければならない。事実がこのようなのに、信仰人たちは、どこを探しているのか?

天国と神様とイエス様が探そうとする人は、啓示録3:12のように、成し遂げられた所に来てこそ、見るようになり、ここに来た事が、すなわち、天国に来たのである。ここは、シオン山があり、十二の門、十二支派がある。ここには、イギンジャもいる。来て見よ!ここに天国がある。神様もイエス様も御使いたちもいる。毎月、十二種の実を結ぶ命の木もあり、水晶のような命の水が大通りの中央を流れている。ここが天国である。

2015년 1월 8일 목요일

初臨と再臨の時の迫害の形

初臨と再臨の時の迫害の形
(本文:使7:51-53、マタ23:29-36)


創造主、神様が離れられた(創6:1-7)世界は、今日まで、蛇、すなわち、サタンが主管して来た(創1:1-啓22:21)。神様は、罪に落ちた人生を救われるため、時代ごとに預言者たちを遣わして、働かれたが、その時ごとにサタンは、自分の牧者を通して彼らを殺した。どんな理由で殺したのだろうか?

このように続いて来た世の中は、6千年になった。旧約を成し遂げられた方は、神様と勝利されたイエス様であられた(ヨハ17:3,16:33,19:30)。新約を成し遂げられた方は、イエス様と約束の牧者、すなわち、イギンジャである(啓21:6)。旧約の預言者たちは、神様から聞いて見た事を伝えて、見て聞いた事を記録した。すなわち、旧約聖書である。新約の弟子たちは、イエス様から聞いて見た事を伝えて、見て聞いた事を記録した。すなわち、新約聖書である。

旧約の預言者たちを殺した者たちは、異邦でも、不信者でもなく、選民の牧者たちであり、イエス様の初臨の時、イエス様とその弟子たちを殺した者たちもやはり、異邦でも、不信者でもなく、選民の牧者たちであった。上の本文の迫害者たちも、選民、すなわち、ユダとエルサレムの牧者たちであった。ヨハネの福音書8章で見たように、選民イスラエル、すなわち、ユダヤ人たちとパリサイ人たちの牧者とその民たちが迫害して殺した。なぜ、選民が自分たちのために遣わされた使者たちを迫害して、殺したのだろうか?これはサタンが彼らに入って働いたからである。なぜ、サタンが選民の牧者に入ったのか?これは、選民が自分の牧者を信じるからであり、サタンが入った選民の牧者は、偽りを通して神様が遣わされた使者が選民に接近できないようにさせるためのである。

使徒パウロは、人の心を畑、または、家だと言った(Ⅰコリ3:9)。神様が人の心から離れたのは、罪のためであり、神様が離れられた人の心は、空き家である。この罪の家にサタンが入って行動するのである。このサタンが神様の使者を好むだろうか?サタンは、アダムの時から今まで偽りをあかしして、不法を行なって来た。神様のまことの預言者たちが来て、まことを知らせるので、サタンとサタンの牧者の過ちが明らかになった。また、将来にある事を伝える事によってサタンの正体と不法が明らかになるので、これを隠すため、預言者たちを殺すまでに至ったのである。
神様は、「許しなさい、愛し合いなさい、祝福しなさい、隣人を自分の体のように愛しなさい、敵をも愛しなさい、敵が渇くならば、食べさせなさい、5里を共に行く事を望むなら、10里でも一緒に行きなさい、憎んではならない、憎む事は殺人罪である。」と言われた。これが神様の戒めであった。

イエス様の初臨の時の牧者たちは、モーセとその律法は信じても、旧約の預言者たちが伝えた神様の預言と、その預言を成し遂げたイエス様とその実体は信じなかった。今日も、旧約を成し遂げた事とイエス様は信じても、新約の預言とこの預言を成し遂げた事と、約束の牧者と成し遂げた実体は信じないでいる。まことに神様とイエス様とその御心を信じるならば、旧約も、新約も信じなければならないだろう。今日、旧約の成就が重要なのか、新約の成就が重要なのか?新約が旧約よりも何万倍もさらに重要である。聖書全書のまことの意味をわかるならば、誰でもこのように言うだろう。神様の6千年の働きは、今日、啓示録一つを成し遂げるため働いて来たと言っても過言ではない。
イエス様の初臨の時、サタンの牧者たちの迫害の強度を調べるため、彼らが迫害した理由を調べてみよう。
1.安息日を犯す(マタ12章、ヨハ5:1-16)。
2.神様を自分の父だと言う(ヨハ5:18)。
3.惑わす者だ(ルカ23:2)。
4.永遠の命を主張する(ヨハ8:51-59)。
5.悪霊に取り付かれた(ヨハ8:52)。
6.伝染病にかかった者だ(使24:5)。
7.王だと言う(ヨハ19:18-22)。
8.異端だ(使24:5)。
などである。

そして、イエス様の再臨の時の約束の牧者とその教団(組織)に与える迫害の強度を調べるため、彼らが迫害した理由を調べてみる。
   1.   教主だと言う。
   2.   永遠に生きると言う。
   3.   収穫すると言う。
   4.   難病にかかった者だ。
   5.   異端だ。
   6.   悪霊に取り付かれた。
   7.   詐欺だ。
   8.   暴行監禁者だ。
   9.   イエスだと言う。
   10.   保恵師だと言う。
   11.   新天地だと言う。
   12.   証拠幕屋だと言う。
   13.   不法集団だ。
   14.(聖書を教える宣教センターが)無料センターだと言う。
このように言いながら戦争を仕掛けた。

私たちは、迫害を受けるのみならず、聖徒の中に殺されるまでした者がいる。インターネットのアンチカフェがインターネット(ブログ、ウェブ、カフェなど)に登載した非難と迫害は、目を覆って見る事のできない状況である。この行為がイエス様の戒めなのか?
私たちは、何度も公開討論を要請して、手紙まで送って、解説をしなさいとも言った。どの誰もこれに応じなかった。聖徒たちが真理の町である新天地に集まって来るという事は、聖書通り成し遂げられるという事であり、彼らが聖書を間違って教えるので、良く教える所に来たという事である。
新天地に戦争を仕掛けた所は、教徒の数が急減して、教団は二つ、三つに裂けて、互いに異端だと言っていて、牧師も会長もお金で売り買いをしている。これが神様の御心なのか?命の真理なのか?光と塩なのか?

対話になれば悟る事ができるだろうか?その誰一人も御言葉で対話する人がいない。このような時、昔の預言者たちとイエス様の初臨の時の事々が思い出される。サタンとその牧者は、昔も今も、その手法が同じなのである。天国の門をふさいで、自分も入らず、入ろうとする者も入らせないでふさぐという(マタ23:13)言葉が、まさにこれである。古くなって、腐敗して、衰えて、背教した所、ここの教徒たちは、神様と聖書よりも自分の牧者の言葉だけ信じて、同じ思想で神様(イエス様)が遣わされた使者をのろって、悪口を言って、同じ偽りの言葉で迫害して、殺人を犯して、敵対して、異端だと言い、かえって、悪霊が取り付いたと言い、真理を探して行く聖徒たちを行かせないようにふさぐ。

神様の戒めとサタンの家族たちの行動を見た。どこが神様の所属であり、どこがサタンの所属なのか、幼い子どもでもわかるだろう。もし、これを見ても聞いても悟りがないならば、聖書と神様が必要ないだろう。
しかし、政治家たちは、選挙の時、票を意識して、真理と非真理に関係なく、彼らの言葉を認める姿を見せもする。

神様が韓国に人類最高の祝福を下さった。しかし、人々の行為によって、神様が下さった祝福が他の所に送られはしないかとひどく心配で、彼らが滅亡しないかと心配である。私たちは、二つの手のひらがぶつからないため気をつけて耐えている。イエス様は、天の十二の軍隊、さらには天軍によって審判できるにもかかわらず、耐えられた(マタ26:53-54)。モーセの時は、過越しの夜に天軍が下って来て、エジプトの最初に生まれた長子たちをみんな殺した。これによって、エジプトの王パロが神様の羊の群れを送ってくれた。

神様は、天地を呼んであかしをされて、命と死と祝福とのろいをあなたの前においた。あなたとあなたの子孫が生きるために命を選んで、神様を愛して、その御言葉に従順して、彼に服従しなさいと言われた(申30:19-20)。
神様は、婚姻の宴を前にして、万国を統治するため、竜を捕えて閉じ込めて、この後、サタンの群れと戦って勝利した者たちと、殉教した霊たちが一つになる第一の復活が成し遂げられる(啓20:1-6)。

聖書で見たように、世の終わりに聖徒が救われるためには、どこに行かなければならないのか?教会の終末の時、私たちの希望であられる神様とイエス様と天国がある所に行かなければならない。神様と天国は、どこにあり、どこに行かなければならないのか?天国に行く道は何なのか?初めの御言葉が、すなわち、道である(ヨハ1:1)。御言葉を道にして行かなければならない。どんな事、どんな事、どんな事の後、ここに神様と天国がある。彼らは、御言葉の道を否認するので、どうしてその道をわかるだろうか?シロアムに行って、目を開けて見なさい(ヨハ9:7参考)。見えるだろう。啓示録2,3章と、12章のイギンジャ(約束の牧者)がいなければ、人類世界の救いは永遠にない。これに反対する者はサタンであり、これを認める者には救いがある。

神様と天国は、啓示録3:12におられる。探す事ができるだろうか?ここが約束の国であり、私たちの希望であり、神様がおられる天国である。
これは信仰の目的地であり、神様が目的とした所である。

2015년 1월 7일 수요일

新天地と韓基総、誰がまことなのか

新天地と韓基総、誰がまことなのか

(本文:Ⅱテサ2:1-4、Ⅰヨハ4:4-6、啓17-18章)


聖書で見るならば、韓基総と新天地、誰が背教者、滅亡者、救い主なのか?
背教者は背教をしてこそ、背教者になって、滅亡者は誰かを滅亡させてこそ、滅亡者になり、救い主は選民が誰かに滅亡された時、そこから救う働きがあってこそ、救い主になる。

まことの信仰人の信仰は、まことの神様とその御言葉を信じて、守る者である。
聖書66巻には、歴史・教訓・預言・成就があり、預言が成就される時には、預言で話した通り、背教者、滅亡者、救い主の順理で、この三つの存在が出現する(Ⅱテサ2:1-4)。

背教者は、神様の所属の聖徒だったが、アダム、エバのように蛇の惑わしを受けて背教する者であり、滅亡者は、選民を惑わして、滅亡させるサタンの牧者である。サタンに惑わされて滅亡された選民を再び救う者が救い主である。
新約のマタイの福音書24章と啓示録13章は、教会の終末を預言したものであり、この事の後、主が御使いと共に来られて収穫する働き、すなわち、救いの働きがあるようになる。マタイの福音書13章で、この収穫の時を世の終わりだと言った。この働きを再び言うならば、選民太陽・月・星が天から地に落ちる終末であり、教会(キリスト教の世界)の終末である。

これは、聖霊で始まって、肉に戻る背教である。蛇、すなわち、サタンがアダム、エバに善悪の実を食べさせて、滅亡させたように、今日、啓示録でもサタンの不品行のぶどう酒を食べさせて、万国を倒した(啓17-18章)。これは、宗教の末世である。アダムの世界が善悪の実によって肉に戻って、滅亡されれ終わって、ノアの世界もアダムの世界のように罪によって終わって、肉的イスラエルのモーセの世界も、ソロモンの時、異邦の神に仕える事によって終わった。霊的世界であるイエス様の初臨の世界も、アダムの世界のように善悪の実、すなわち、不品行のぶどう酒によって万国が倒れて終わった。

神様は、時代ごとに一つの時代が腐敗する事によって新しい時代を創造して来られた。アダムの世界→ノアの世界→モーセの世界→初臨のイエス様の世界→再臨のイエス様の世界にという事である。神様とイエス様が約束された新約、すなわち、四福音書と啓示録の預言とその成就を見たように、以前の世界は、背教、滅亡によって終わった。モーセの律法がキリストに導く養育係であるように、イエス様の初臨の時の天の福音の種蒔きが、再臨の収穫をあるようにしたのであり、この収穫は、主の再臨の時、背教、滅亡の事件の後のある事を新約聖書とイエス様が語られて(預言)、預言通り成し遂げられた。これらは、新約の主の再臨の時の事件であり、この預言通り成し遂げられた。

イエス様の初臨の時、旧約を成し遂げられた事をユダヤ人、パリサイ人たちの牧者たちが、その事をわからなかったように、新約の時代である今日も、この時代の牧者たちが新約が成し遂げられた事を全くわからなかった。その時と同じだという御言葉が応じたのである(ルカ17:26-30参考)。新約に記録された預言は、到来する事件であり、選民の背教と滅亡も必ずあるようになる事件で、これと同じく成就された。
旧約の預言、イザヤ29:9-10、この成し遂げられた初臨の時の盲人になった牧者たちのように(マタ15:14参考)、今日、啓示録3章の牧者たちも、盲人になって、預言も、成就もわからないのと同じであった(啓3:17-18参考)。聖書の神書は、神(霊)の心で見てこそ、悟りがあるようになる。

今日、預言通り背教、滅亡の事件の後、東西南北の種を蒔かれた畑に行って、収穫して、印を押して、12支派144,000人(祭司長)と白い群れ(民)を創造する事によって新しい時代、新しい国、新しい民族、すなわち、天民が創造されたのである。これ以外には、背教者と滅亡された者たちだと、聖書は言っている。
韓基総は、啓示録7章と14章の創造された新しい民族なのか?そうでなければ、そのように創造されなかった民族なのか?韓基総は、イエス様の初臨以後、遺伝された伝統の信仰人だという事は明らかである。新約の啓示録の背教・滅亡・救いの事件と新しい国、新しい民族の創造を信じないという事が明らかな事だと思える。
韓基総の種類は、長老教であり、長老教はカルヴァン長老教として始まったのであり、旧約時代のイスラエルのソロモンが異邦の神に拝んだように、日帝時代に日本の天皇の神に拝んで、賛美して、世の政治に加担して、御言葉よりも帰福信仰を旨として、会長と牧者職をお金で売り買いして来て、韓基総の所属でなければ、異端と罪に定め、迫害して、戦争を仕掛けた。
この韓基総は、今や古くなって、腐敗して、衰えて、二つ三つと裂けて、互いに異端だと紛争を起こして、衰退して行っている。これが韓基総の現実であり、終末である。

新しい天、新しい地、すなわち、新天地は、新約聖書通り創造された。これを韓基総が異端だと言うので、新天地は、初臨当時のイエス様のような偽物の異端、すなわち、まことの教団ではないのか?新天地が、どれ一つでも新約聖書通り創造されなかった事があれば、指摘せよ。新約の預言通り創造されたという事は、神様の御心通りできたのであり、これを迫害するという事は、すなわち、神様を迫害するという事である。新天地は、神様が預言されて、神様が成し遂げられたからという事である。

その昔、神様が旧約を預言されて、初臨の時、イエス様に来られて、旧約を成し遂げられた。これを当時の牧者たちが迫害したように、今日も、新約を預言された方が来られて、成し遂げられた事を世の牧者たちが迫害するので、その昔のその神が彼らに入って迫害させた事と同じである。真理と非真理の神が、このように入るという事は、マタイの福音書7:15-20の御言葉が応じたと思う(Ⅰヨハ4:4-6参考)。
獣は聞きもできず、話せもしない。誰でも神様の霊と神様の種で再び生まれてこそ、変化されて、新しい被造物になると思う(ヨハ3:5)。神様の者は、創造主、神様に戻って行かなければならないし、被造物は本主人であられる神様の中で祝福を受けるだろうし、神様は、自分のものとして愛されるだろう。これによって神様が天地を統治されるようになる。これが天国である。

私たちは、みんな一緒に国と民族を神様に捧げて、神様が統治されるようにしよう。そして、祝福を受けよう。これが平和であり、安息であり、戦争が終息された天国、楽園の世界である。アーメン!

2015년 1월 6일 화요일

神様の牧者と竜の牧者と人の牧者

神様の牧者と竜の牧者と人の牧者
(本文:啓1章、啓13:1-2(イザ29:11-13))


神様が約束として立てられた牧者がいて、竜、すなわち、サタンが立てた牧者がいる。神様は、正直で、信仰がある者を選んで、ご自身の牧者として立てられ、サタンは、自分のように背教して、不法に明け暮れる偽りの牧者を選んで、自分の牧者として立てた。人の牧者は、人々(牧者たち)が集まって、自分たちの主管者である代表の会長を選ぶので、この者が人が立てた牧者である。

神様が旧約を成し遂げられる時、約束されたイエス様を選んで(ルカ9:35)、牧者とされた。竜、すなわち、蛇も(マタ23章、啓13章)自分のような者を選んで牧者にした。
世を主管して来た霊物である竜は、神様と神様が選ばれた牧者が現れる時は、力ある主管者である代表の会長を選んで、権威を与え、代表の会長は、その権威を利用して、神様の牧者と戦うようになる。イエス様の初臨の時のエルサレムの主管者が、すなわち、蛇であるパリサイ人たちであった。
啓示録1章で、イエス様から選らばれて、按手を受けて、指示を受けた牧者が、人が立てた牧者から按手を受けて、その所属(教団)に登録しなければならないのか?約束の牧者が、竜が共にいる牧者に按手を受けて、その所属に登録しなければならないのか?

神様も、竜も、互いが二種類の牧者についてよく知っている。このように、選ばれた二種類の牧者も、互いを良く知っている。その理由は、互いに敵だからである。もう一つは、その行いを見てわかる(マタ7:15-20)。聖書には、神様の牧者がする働きと行いがあり、サタンの牧者がする働きと行いがある(ヨハ15:18-19)。これは牛と犬がする事と声と行動と食性が違うように、二種類の牧者の働きと行動が違うので、互いが良く知っている。
背教者は、聖書に記録された背教の働きをして、滅亡者は、記録された惑わしと滅亡の働きをして、救い主は、記録された救いの働きをする。これが互いに違う点である。これをわからせる事が聖書である。聖書の意味をわかる事によって、上の二種類の存在を区分することができ、わかるようになる。
聖書は、「神様の民が知識がなければ滅ぶ。」と言った(ホセ4:6)。聖書は、私たちにまことの神様が遣わされた使者をわからせ、悪魔と悪魔の牧者をわからせる。信仰人が記録された聖書の御言葉のまことの意味をわからなければ、神様も、悪魔もわからず、不信者よりももっと悪い悪人になる。

宗教は、神書であり、神の御心を教えて学ぶものである。聖書を見たように、「私が教会に行く。献金と祈りをする。」と言ってまことの信仰人になって、神様が認める者になるのではない。約束の御言葉を悟って、信じて、心に刻んで、その御言葉通りする時、御言葉の本体であられる神様が共におられて、神様が導かれるようになる。このような人が、すなわち、神と言えるし、まことの信仰人と言える(ヨハ10:35)。
御言葉があれば、神様が共におられ(ヨハ1:1)、御言葉がなければ、神様が共におられない。教会に(牧者)御言葉がないのは、御言葉であられる神様がおられないからである。いくら偉そうなふり、よく信じるふりをして、教権と権威が高いとしても、御言葉がなければ、殻であるのみである。
神様の牧者は、神様が共におられ、悪魔の牧者は悪魔が共にいる。神様も、悪魔も共にいない者は不信者たちである。神様が共におられる牧者は、天国に行って、悪魔が共にいる牧者は、地獄に行く。不信者は、どこに行くのか?不信者は土なので、土に戻る。しかし、その霊は、アダムの遺伝子で生まれたので、罪によって地獄に行く。
韓国の韓基総の会長は、韓国の信仰の顔であり、信仰の顔であり、標本であり、指導的、道と光である。もし、代表の会長が不正を行えば、韓国の全ての信仰人は、みんな不正をするのである。これは、彼が信仰の顔であり、信仰の標本だからである。韓基総で、もし、代表の会長になろうとお金をやり取りして会長の地位を売り買いするならば、韓基総は、悪魔の集団なのであり、お金を渡して、牧者の按手を受けた牧者が聖徒を治めて導くならば、信仰の世界は、アダムの世界よりももっとひどい罪悪におちいった所になるのである(Ⅱコリ6:14-18参考)。
彼らが異端だと言えば、異端になって、彼らが正統だと言えば、正統になるのか?そして、彼らが二つ三つに分かれて、互いに異端だと言い、紛争するならば、この二つ三つの所がみんな信仰人ではなく、悪党になるだろう。彼らが悪党でないならば、何を悪党だと言うのか?これは、神様の戒めになる事もできず、悪魔の行いを見せる顔だと言えるだろう。これがどうして韓国の代表的な信仰の顔であり、標本だろうか?

天地万物は、創造主、神様が創造された。それゆえ、万物の父は、創造主、神様であられる。それで神様は、万物を愛される。万物もまことの神様を愛さなければならない。人の牧者は、神様も、悪魔も共にいない、自らなった牧者を言うのであり、この牧者の教徒たちも、人(どんな神も共にいない)に過ぎない。

神様は、今日の人々に信じるくらいの根拠を与えられた。「新約の預言」である。神様とイエス様は、今日、成し遂げられる事を新約としてくださって、私たちが信じるものは、新約である。これを成し遂げる時、見て、信じなさいと言われたのである(ヨハ14:29参考)。これを信じる事によって約束を信じる信仰になる。この約束は、背教、滅亡の働きがあった後にあるようになる、この地の印を押された144,000人(祭司長)と白い群れ(民)の創造である。これが、神様が共におられる天国である。これを信じない事が不信である(ヨハ16:8-11)。信じる者が救われるのか、信じない者が救われるのか?

私たちみんな、新約を信じて、天国に行こう。天国は、啓示録3:12にある。私たちみんな、約束の御言葉を道として、神様に行こう。アーメン!

2015년 1월 5일 월요일

イエス様の初臨の道を備える者と再臨の道を備える者

イエス様の初臨の道を備える者と再臨の道を備える者

(本文:マタ11:10-15、啓1,2,3章)


初臨と再臨の時の道を備える者は、どのように違うのか?

モーセの時、天のものを見て、七つのともしびと12個のパンを造った(出25章)。啓示録4章で見たように、御座の前に七つのともしびがあった。
まず、わかる事は、宗教の歴史は、先に天の霊界から始まって、肉界にも、そのようなものがあるようになり、天の霊が肉を用いて働く事によって始まったという事である。

本文の御言葉のように、先に来て、主の道を備える使者がいて、その次に約束の使者が来るようになっている。イエス様の初臨の時は、道を備える者がバプテスマのヨハネであり(マタ11:10-15)、再臨の時は、七つの星の代表であるユ氏であった。
初臨の時も、道を備える者が羊の群れを捨てて逃げて行き(ヨハ10章)、再臨の時も、道を備える者が羊の群れを捨てて逃げて行った(啓12章)。これによって天国、すなわち、教会と羊の群れが敵に侵入されたのである。初臨の時も再臨の時も、自分が道を備える者であり、雇われた牧者なので、狼が来るのを見て逃げて行ったのである。羊の群れのため、天国のため戦わなければならないのか、自分だけ生きるために羊の群れを捨てて逃げて行かなければならないのか?まことの牧者は、羊と天国のために命をかけて、決死的に戦うであろう。

再臨の時の道を備える使者が羊の群れを捨てて逃げて行く光景を見た約束の牧者であるまことの牧者は、主の御心を受け取って、悔い改めて、勝利せよと言う手紙を道を備える使者に送る。勝利すれば、啓示録2,3章に約束した祝福を与えると言った。誰と戦って勝利するという事なのか?侵入したサタンの牧者である。道を備える牧者が手紙を受けて、敵対者、サタンの牧者と戦わなければならないのにもかかわらず、羊の群れを捨てて逃げて行ったので、今や、敵サタンの牧者と戦わなければならない牧者は、約束の牧者だけである。

これは、初臨の時も再臨の時も、事情は同じである。アダムの時から今日に至るまで、神様の働きがあり、約束の牧者が出現する時ごとにサタンとサタンの牧者が現れて妨害した。道を備える牧者が先に来なければならない理由は、何なのか?もし、サタンが道を備える牧者がする働きを見ているだけでいるならば、その通りに神様の働きは完成するだろう。しかし、道を備える牧者の幕屋にサタンが入って来て、害するようになるので、サタンの組織とその実体をわかるようになる。それゆえ、道を備える働きは、サタンを捕らえるわなであった。啓示録13章のように、啓示録2,3章のように、サタンとサタンの牧者の正体が明らかになった。これは、預言の御言葉が応じたあかしになるだろう。

この事実をわからせる事によってサタンに惑わされず、戦って勝利する事ができる。これは、神様が目的のため、犠牲を準備されたのである。サタンが道を備える幕屋と牧者を害するそれ自体は、すなわち、自分たちの正体を現わす事になった。事件の始まりは、道を備える者であり、これによって滅亡者が、ここに侵入するようになった。選民の道を備える幕屋が戦いに負ける事によって、獣の刻印を押されて、獣に礼拝するようになるので、背教したのであり、選民の幕屋を飲み込んだ者は、滅亡者であった。この時、啓示録12章のように、あかしする言葉でサタンの群れと戦って勝利するので、救いと国があるようになる。

神様とイエス様と聖書の約束を信じるという事は、預言とその預言が成し遂げられる事を見て悟って信じる事である。信仰によって背教せず、滅亡されず、神様のまことの牧者と約束の国、天国に行く事ができるのである。このような信仰が、末世に自分を救うのであり、希望を成し遂げるようになるのである。

新天地は、世界の民族の中で唯一、末世の事件、啓示録の預言に通達して、啓示録の全章の事件が記録された預言の通り成就される事を現場でもれなく、全て見て聞いた(啓1:1-2参考)。誰が道を備える者であり、誰が背教者なのか、誰が滅亡者、すなわち、サタンの牧者なのか、誰が誰と戦って勝利して、負けたのか、その実体を見て聞いて、負けた者は聖書通り七つの道に逃げ去って、勝利を得た者は、霊的新しいイスラエルになって、収穫して、印を押して、この地に12支派、すなわち、神様の国を創造した事を見た。神様とイエス様と天国が、どこの誰に臨んだのかと、万国が来て、礼拝する事も知って、見た。

天国に望みを置いて信仰する聖徒であるならば、神様と天国に行かなければならない。約束の牧者、勝利者を通さずには、天国にも、神様にも、行く者がない。天国と神様は、まさに、啓示録3:12、ここにおられる。万国が、ここに来て礼拝しなければならないだろう(啓15章)。

2015년 1월 4일 일요일

真理と自由

真理と自由
(本文:ヨハ8:32-55)


<ヨハ8:32-55>

32.
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33.
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
34.
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
35.
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36.
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
37.
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
38.
わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
39.
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
40.
ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
41.
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
42.
イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
43.
あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
44.
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
45.
しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
46.
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47.
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
48.
ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
49.
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
50.
しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
51.
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
52.
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
53.
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
54.
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
55.
けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。


イエス様とユダヤ人たちが互いにやり取りした言葉を調べてみると、次のようである。

イエス様がユダヤ人たちに、「真理を知れば、真理があなたがたを自由にする。」と言われた。この言葉を聞いたユダヤ人たちが、自分たちはアブラハムの子孫であり、他の人の奴隷になった事がないと言った。もう一度イエス様が語れるのに、「罪を犯した者はみな、みんな罪の奴隷である。」と言われた。そして、「奴隷は永遠に家に住まず、息子は、永遠住む。息子があなたがたを自由にするならば、あなたがたがまことに自由になる。」と言われた。そして、イエス様も、「あなたがたがアブラハムの子孫である事を知っている。」と言われた。「しかし、私の言葉があなたがたの中にないので、私を殺そうとする。」と言われた。イエス様は、再びアブラハムの子孫であるユダヤ人たちに語られるのに、「わたしはわたしの父の所で見たことを話し、あなたがたはあなたがたの父から聞いた事を行なう。」と言われた。
イエス様がアブラハムの子孫であるユダヤ人たちに、イエス様の父とユダヤ人たちの父が違うと言われ、イエス様の父は神様であられ、ユダヤ人たちの父は悪魔だと言われた。これは、肉の父を言ったのではなく、この二人の霊の父が違うという事を言われたのであった。イエス様とユダヤ人たちの肉は同じだとしても、その中にある霊とその父は違うという事である。

今日も、韓基総の所属の人々と新天地の聖徒たちの肉は同じだとしても、その中に生まれた霊と霊の種が違う事によって、各々父が違うので、殺そうと迫害を強めていて、戦争を仕掛けたのである。私たちもイエス様のように、彼らに真理を知らせるならば、真理が彼らを自由にするだろう。真理がその中にないので、自由人になれず、罪の奴隷になって、敵対者になったという事がわかる。罪の奴隷から解放される事と、悪魔の父から救い出される事も、ただ、まことの真理がその中になければならない。

私たちは、彼らに真理を与えて、再び生まれさせている。今、話しているこの言葉は、恣意的に話したり、自ら話す言葉ではなく、私を遣わされた方が、この言葉を話させているのである。今、時は、霊的イスラエルの終末であり、再創造の時であり、収穫されて、印を押されて、再び生まれてこそ、まことの神様が父になり、再び生まれた者は、神様の子どもになるのである。

天国は、神様の子どもたちの一つの家族が住む所である。これを信じる者は、再び生まれて、天国の家族になるだろう。アーメン!

2015년 1월 3일 토요일

新しく創造された新しい天、新しい地と なくなる以前の天、以前の地

新しく創造された新しい天、新しい地と
なくなる以前の天、以前の地

(本文:啓21:1(創37:9-11))



なくなる以前の天と以前の地は、どんなものであり、新しく創造された新しい天と新しい地は、どんなものなのか?

キリスト教徒たちが、聖書がいう末世を不信者たちの世として見ているが、これは間違った判断である。聖書がいう終末(末世)は、キリスト教の終末を言ったのである。
神様の6千年間の働きを見たように、腐敗したアダムの世界がなくなって、ノアの新しい国が立つようになって、腐敗したノアの世界がなくなって、モーセによる肉的イスラエルが創造され、腐敗した肉的イスラエルがなくなって、イエス様の霊的イスラエルが創造された。イエス様の霊的イスラエルも、2千年が過ぎた今日、腐敗して、霊的イスラエル、すなわち、以前の天、以前の地がなくなって、霊的新しいイスラエルが創造されるので、これが本文の新しい天、新しい地である。
創世記37:9-11に、ヤコブの家族を太陽と月と星と言ったので、彼らがいる所が、すなわち、天である。そして、土で造った肉体が、すなわち、地である。自然界の天と地である地球を言ったのではない。以前の天と以前の地(先天の霊的イスラエル)が腐敗したので、新しい天と新しい地を再び創造されたのである。これは、先天の牧者と教会が腐敗する事によってむなしくなって、再び後天の新しい牧者と教会を創造された事を語られたのである。

啓示録21章に、以前の天と以前の地がなくなって、新しい天、新しい地が創造されたと、2千年前にイエス様が弟子、使徒ヨハネに預言された、その以前の天と以前の地は、イエス様以後の先天の霊的イスラエルを語られたのであり、新しい天、新しい地が創造されたと言ったのは、今日、新天地イエス教が創造された事を前もって見て聞いて預言した、それである。
この新しい天、新しい地は、イエス様の預言通り、種を蒔いた畑、すなわち、教会から、今日、穀物の聖徒たちを収穫して、啓示録7章でのように、印を押された12支派、144,000人(祭司長)と白い群れの民たちである。彼らは異端ではなく、イエス様の預言が成し遂げられた実体である。彼らは、イエス様の血であがなわれた国と祭司長たちであり、イエス様の血で罪を洗われた聖徒たちである。イエス様が初臨の時、十字架にかかられた事も、血を流された事も、2千年間、福音の種を蒔いた事も、今日の背教・滅亡の事件と救いの働きも、ただ、神様の国、12支派を創造するためのものであった。これを異端だと言う者はみな、神様に属さない者たちであり、収穫されなかった毒麦、すなわち、悪魔の子どもたちである。
まことにイエス様とその御言葉を信じるならば、約束通り成し遂げられた事を、なぜ、信じないのか?イエス様が種を蒔いた畑(教会)に、サタンの牧者も自分の種を蒔いたので、イエス様の畑には、世の終りの日まで、この二種類の種が一緒に育って来て、収穫の時、穀物、すなわち、神様の種でできた者たちだけ、収穫して来たので、教会に残ったものは、悪魔の種、毒麦だけである(マタ13:24-30)。この毒麦は、悪魔の子どもたちだと言ったので(マタ13:38-39)、収穫されなかった牧者と所属の教徒たち、すなわち、毒麦(悪魔の種でできた悪魔の子どもたち)たちだけ残ったのである。彼らが収穫されて行った穀物たちに異端だと言うと言って、異端になるだろうか?まことの異端は、毒麦である悪魔の子どもたちである。

ノアの時にも、ロトの時にも、イザヤ1章のユダとエルサレムに関する預言が成就された時、すなわち、イエス様の初臨の時にも、少しの種だけ残って、後代に引き継いで来たように、今日も、収穫された少しの群れが後代を成し遂げるのである(啓3:4,6:6参考)。肉的イスラエルがイエス様を信じなかった理由は、彼らが旧約の預言を信じなかったから、その預言を成し遂げる時、信じなかったのであり、今日、再臨の時も、霊的イスラエルが新しい天、新しい地に関する預言を信じなかったから、新しい天、新しい地、すなわち、霊的新しいイスラエルの実体を信じなかったのである。
新約の成就について信じない理由を見ると、一つは新約、すなわち、新しい契約の預言を悟れず、信じないのであり、もう一つは、サタン(悪魔)の牧者と、そして、その種でできた毒麦、すなわち、悪魔の種でできた悪魔の子どもだから、悟る事も、信じる事もできないのである。

二種類の種を蒔く時や、二種類の種が育つ時や、二種類の種に対する収穫の時があり、穀物は、刈り取って神様に行って、毒麦は、刈り取って審判されると、啓示録14章にも、マタイの福音書13章にも同じく説明している。これは、旧約(エレ31章)から始まって、啓示録で完成されるのであった。収穫の時は世の終りであり(教会の終末)、悪魔の群れと神様の群れがいて、神様と悪魔との戦争がある。この時、先天の選民が侵害されて、天から背教して、地、すなわち、肉に戻る背教があり、この選民を滅亡させる滅亡者がいる。これが終末を預言した啓示録の事件であり、このような末世に救われるために聖書の御言葉の中に入って、背教の働きと、滅亡の働きと、この時の救い主の働きを詳しくわからなければならない。

彼らを知ることによって不品行のぶどう酒、すなわち、善悪の実を食べないだろうし、命の木の実を食べるようになるだろう。この命の木は、12の枝があり、12種の実を結び、この木の上には鳥(聖霊)がいて、この木の葉は万国を蘇醒させるためにある(エゼ47:12、啓22:2)。この命の木の実を食べれば、永遠に生きると記録されている。
この命の木は、まことのぶどうの木であり、まことのぶどうの木から生まれた新しいぶどう酒が永遠に生きる酒であり、万国を倒させた啓示録17章、18章の不品行のぶどう集は、善悪の木からできた蛇の毒であり、まむしの悪じである(申32:33)。アダムも、エバも、今日の万国も、これを飲んで、倒れて、死んだのである。
この二種類の木は、神様と悪魔であり、神様の牧者と悪魔の牧者である。二種類の酒、ぶどう酒は、神様の啓示の御言葉と悪魔の偽りの言葉である。この二種類の酒のうち、神様から出た者は、神様の新しいぶどう酒、啓示の御言葉を好み、悪魔の種で生まれた者は、不品行のぶどう酒、すなわち、悪魔の偽りの言葉を好む。これはまことの牧者と偽りの牧者を、ぶどうの木にたとえて比喩を施して語られたのであり、真理と非真理を酒に比喩したのである。アダムの時も、今日も、二種類の木の実と果実酒によって生と死が来たのである。

今日、チョンジキ教育印も、韓基総の注釈の言葉も、まことのぶどう酒だと信じるか?ぶどう酒に水が混ざったように(イザ1:22参考)、偽りの言葉が混ざれば、これをまことのぶどう酒と言えるだろうか?また、その行いが正しい行いでなければ、どんな木だろうか?
アダムの一つの時代が善悪の実で終わって、ノアの世界が創造されたように、肉的イスラエルがアダムのように(ホセ6:7)、異邦の神に拝む事によって終わって、イエス様の世界を立てたように、今日の先天の諸教会が腐敗して、異邦の不品行のぶどう酒を飲んで、異邦の神に拝んで、天から地に、聖霊で始まったのに肉に戻ったこの時代を清算して、新しい時代の約束の国を啓示録の約束通り創造された。この国が「新天地イエス教」である。これは、聖書通り成し遂げられた事がはっきりしているのに、なぜ、信じないのか?これ以外に聖書で何を待っていたのか?新約、すなわち、啓示録は、将来に成し遂げられる事を約束したものであり、これを加減すれば、天国に行かれず、のろわれるという御言葉も(啓22:18-19)、加減せず信じなさいという御言葉である。
成し遂げられる時は、記録された啓示録22章までが全て成し遂げられた時、啓示録21:6のように、「全て成就した。」と言える。我が新天地は、これを現場で見て、触った証人である。韓基総のカルヴァン主義者たちが新天地の悪口を言うのは、神様も、イエス様も、新天地も信じないからであり、新天地のまことのあかしによって、自分たちが間違ったあかしをした偽りの言葉が明らかになるからである。

神様が先天を終わらせて、後天、すなわち、新しい天地を創造されたので、どんな話があるのか?信じなければ、地獄の火に行くだろうし、信じれば、永遠の命の国、天国に行くだろう。私たちの新しい天地は、神様とイエス様と預言の使徒たちに永遠に感謝、感謝する。アーメン!

2015년 1월 2일 금요일

新天地と李萬熙(イ・マンヒ)を売り渡す者

新天地と李萬熙(イ・マンヒ)を売り渡す者
(本文:マタ21:33-43)


古い昔話の物語の中に、万古孝女(親孝行の娘)のシンチョンが盲人である父親の目を見えるようにしようと、供養米300石で売られて、船倉に立って、両手を合わせて、神様を仰いで願う時、山川も泣き、樹木も泣いたと言う(お坊さんからお寺に供養米300石を寄付すれば、盲人の父親の目が見えるようになると聞かされた娘シンチョンは、海の嵐をおさめるためのいけにえが必要と言う話を聞いて、300石をもらえるならいけにえになると言っていけにえになった)。このシンチョンは、印塘水という深い池に身を投げたが、3日目に復活して、王妃になり、父の目を見えるようにしたと記録されている。
初臨で来られた神様の息子イエス様は、夜のような世の盲人たちの目を開けようとされて、銀貨30枚で売られて十字架上で天を仰いで神様に祈られて、死んでから3日目(第3日)に復活されて、天に上って、神様の右に着かれて、啓示をいただき、再び来られる事を約束された。
万古孝子のイエス様も、万古孝女のシンチョンも、万古の孝行の教訓となった。
再び来られるイエス様は、罪と関係なく、自分を望む者たちに現れると言われ、神様は来られて、世を統治される事が約束されている(ヘブ9:28、啓19:6)。

今の世は、どうだろうか?最悪の腐敗であり、宗教の末年になった現実である。これが夜であり、盲人になった事である。教会は、物質と権威と高慢で大荒れになった。神様がこの世をそのまま見過ごされるだろうか?主が再び来られる日を、ノアの時、ロト時のようだと言われた(ルカ17:26-30)。ノアの時も、ロトの時にも、彼らの腐敗のために神様が審判された。この時、神様がノアのように、モーセのように、イエス様のように一人の牧者を立てられて、腐敗した世界を清算されて、新しい時代を開かれた。この時、悪魔と腐敗した牧者たちが新しい牧者をそのまま見ているだけだろうか?また、どれくらい苦しめるだろうか?インターネットのアンチカフェに入ってみれば、確認できるだろう。どうしてこれが信仰と言えるのか?だから、啓示録21章では、以前の天、以前の地がなくなって、新しい天、新しい地を創設される事を明示した。これがノアの時のようだと言ったのである。

今日、世の教会の牧者たちと教徒たちが、神様の御心通り、聖書の指示と戒め通りまことなる信仰をして、新しい時代を開く新天地を苦しめている。ロトの時のように、偽りまで作り出して、埋葬に明け暮れている。キリスト教の一つの放送局で新天地に陰湿な攻撃をする目的で偽りの報道をした。探して行って「どうして、何なので、新天地がしてもいない事について偽りの報道をしたのか?」と聞いて見たら、彼らは、「すみません。間違いました。」とだけ言った。「では、訂正報道をしなさい。」と言ったら、「できません。」と言った。「どうしてできないのか?」と聞いた。すると、「本人たちはサラリーマンで、上の教団からさせられてしたので、訂正報道は、上の教団で訂正報道をしなさいと言えば、そのようにできます。」と言った。偽りの報道をしなさいとさせた者たちや、偽りの報道をした者たちが信仰人で、牧者なのか?

一時、MBC PD手帳は、情報提供者たちによって、新天地に対して偏頗・歪曲報道を二度もした(一度は、約50分間、もう一度は、総合編で約15分間)。これは、新天地のみならず、全国民をだます事であった。これが信仰人か?これがイエス様の戒めを守る事なのか?これが腐敗した末世であり、宗教の末世である。
今の牧者たちが聖徒たち、青年たちにさせて、インターネットカフェで新天地に対してあらゆる侮辱的な偽りを繰り広げている。これがイエス様の初臨の時の牧者たちが自分の教徒たちにさせて、偽りを話させた事(マタ28:11-15参考)と何が違うのか?その時より100倍も増えているのではないのか?今の教界とキリスト教の放送局とキリスト教の出版社・雑誌・新聞などで新天地と李萬熙(新天地の総会長)に対する偽りを作り出して、特集で売って生活をする所が一ヶ所二ヶ所ではないという。喜び勇んで、改宗牧者たちは、一回の改宗教育に数十万ウォンずつもらっていて、主日、及び、水曜日の礼拝は、新天地と李萬熙に対する迫害の説教を多くしている。これが果たして、宗教の末年でなければなんだと言うのか?ノアの時、ロトの時のように腐敗した者たちを、神様は、どのようにされるだろうか?こうして、彼らが滅亡されるか恐ろしい。
我が新天地があかしした内容は、救われて、天国に行こうとすれば、神様の種で生まれなければならないし、収穫されなければならないし、(神様の言葉で)印を押されなければならないし、啓示録を加減してはいけないし、12支派に所属しなければならないし、命の書に名が記録されなければならないという事である。これが神様の約束である。このような人々が誰を迫害する資格があるのか?誰を異端だという資格があるのか?このように腐敗した者たちが異端でなければ、聖書が間違ったという事だろう。彼らが、どうして信仰人と言えるのか?

我が新天地を迫害する事が彼らの説教であり、のろう事が彼らの真理であり、悪口雑言が飛び交って、互いが先を争って、新天地をのろう内容で叙述した本を売り出して、改宗教育で金儲けをして、本当に、本当に末世である。復讐は私がすることだと神様が言われた(ロマ12:19、ヘブ10:30)。

ノアの時、ロトの時のように、誰にかかわらず、再び生まれなくては、ただの一人も救われる者がない。新天地は、聖書に通達して、その御心通り不撤昼夜、最善を尽くしている。彼らのために祈りを休まずしている。

父なる神様、悪人も人なので、あの心を再び生まれさせて、新しい人になるようにして下さい。そして、天国の父の家族になるようにして下さい。お祈りいたします。アーメン!

2015년 1월 1일 목요일

時と時期に関して

時と時期に関して
(本文:Ⅰテサ5章(ルカ17:26-30))


主の再臨の時と時期に対しては、聖書を基準に信仰する人は、誰でも良く知っているので、さらに書く事がない。
主が再臨される世の終り(末世)には、ノアの時、ロトの時のようで(ルカ17:26-30)、諸教会が腐敗して、滅亡されて、聖なる聖殿に滅亡者が立つようになり(初臨の時、マタ23章の蛇の牧者、パリサイ人のように)、聖霊が離れ、天門が閉じられ、啓示がなく、天地の区分ができず、真理が変わって、悪事とのろいが満ちて、不法がはびこると言われた(マタ24章参考)。これによって裂けて、互いに争い、霊的戦争が起こるようになる。

この末世は、教会の終末を言ったのであり、不信の社会や地球村の終末を言ったのではない。末世には、驕慢とこだわりの悪が加わり、権威と名誉とお金と威信を掲げて、神様よりも人をもっと信じて、人の戒めを作って、恣意的な法を立てて、圧制を行なって、偽りと非真理を真理の上において、悪事がとどまる事がない。これはまるで太陽、月が光を失い、暗くなって、星々が地に落ちるように、教会が地に落ちて肉に戻って、また、聖霊で始まった教会がアダムのように、創世記6章のように、神様の息子たちが地のものを愛して、肉体になる事によって神様が離れて行かれる事と同じである。
新約聖書の約束通り先天世界(教会)が腐敗によって滅亡されたこの時、主が来られる。「人の子が来る時に信仰を持った者を(信仰を)見られるだろうか?」と言われた(ルカ18:8)ように、腐敗した人の権威を恐れて、愛して、口を合わせるこの時に、主が来られて、新約の約束を全て成し遂げられる(啓21:6)。
天から地に落ちて背教して肉に戻った者たちの心霊は、神様ではなく、悪の神がその中に入って、その神の意思に従って悪事を行なうだろう。太陽・月・星(選民:創37:9-11参考)が地に落ちて、光を失うこの夜に、主が盗人のように来られて、収穫をされる(マタ24:29-31、Ⅰテサ5:2)。夜に属した者たちが、これを見て、また、悪口とのろいと迫害に明け暮れるのは、聖書の約束を信じないからである。しかし、再び来られるイエス様は、必ず、新約を全て成し遂げられる(ヨハ14:29)。これを信じないのは、自分自身が腐敗したからである事をわからなければならないだろう。夜に属した者たちは、聖霊で始まったのに肉に戻った事をわからなければならないだろうし、天に属したのに地に落ちてやみの中にいる事もわからなければならないだろう。
なぜ、天から地に落ちて、やみになったのか、理由もわからなければならないだろう。これはエバのように、初臨の時のエルサレムの住民のように、蛇が与える善悪の実の酒、すなわち、不品行のぶどう酒を食べて、万国が倒れて、破壊されて、悪霊と結婚したからである(啓13章、啓17,18章)。野の蛇のぶどう酒、すなわち、蛇の悪じであり、まむしの毒である(申32:33)不品行のぶどう酒で万国を倒して、選民を捕虜として捕らえて、強制的に竜の獣の刻印を受けさせて、礼拝させて、万国の人々をサタン、蛇と結婚させた事が、啓示録13,17,18章の現実であった。

これは、今日、啓示録12章のように、あかしをするので彼らの竜はいる所がなくなった。選民を背教するように惑わした事も、背教した選民を滅亡させた事も、選民の手と額に獣の刻印を受けさせた事も、不品行を行わせた事も、蛇と竜、すなわち、悪魔の行為であり、このような行動をした事実が蛇の群れである事をあかししてもなお余りがある。これをあかしする事が真理である。

教会の終末、背教と滅亡、イエス様の光臨で収穫があり、印を押す事と、12支派が創造されるという預言が成し遂げられる、これが新約の約束であり、この時が、約束した時と時期である。これを見ても、聞いても信じないという事は、神様の種で生まれていない所以である(Ⅰヨハ4:4-6)。新約の預言が成就されても信じなかったので、審判の時、どんな話をするだろうか?弁明もできないだろう。

イエス様も、弟子たちも、主の再臨の時期と時について詳しく記録して下さった。選民の背教の事件、異邦の神を受けた滅亡者、約束の牧者、救い主、主の再臨の前兆、そして、神様と天国とイエス様と主の中で死んだ者たちが共に来られる所などを詳しく知らせて下さった。しかし、これを信じないのは、自分自身が腐敗したからである。天の光(太陽・月・星)が肉になって、夜になって、眠る心霊になる事によって、時と時期をわからないのである。しかし、光の子どもたちは、この時と時期を知って、目覚めて、準備を約束通りする者である。しかし、暗やみの世の中になってしまった、背教した偽りの牧者と毒麦の教徒たちは、悟れず、やみの中で死んで行く。

ノアの時、一つの時代(アダムの世界)が終わって、新しい時代(ノアの世界)が創造されたように、新約の約束通り新しい時代の新しい国が創造された、啓示録7章のように。神様も、イエス様も、天国も臨まれて、共におられる天国が約束通りこの地に成し遂げられた。我が新天地は、約束通り成し遂げられた神様の新しい国、新天地を新約聖書で知らせている。
この時、この時期を見過ごさないで、聖書で確認して、信じて、新しく生まれるならば、救いを得るようになるだろう。アーメン!