2014년 12월 14일 일요일

生と死

生と死

(本文:ヨハ8章)


人は、誰もが生と死の戦争をしている。働く事も、食べる事も生きるためである。しかし、望んでいない苦痛と死がやって来る。

その昔、インドの王子、釈迦は、生老病死の理由を知るために造物主を探して旅に出た。しかし、会えず、その声を聞いて教えたものが仏教であり、高麗時代に八萬大蔵経を刊行した。1)この八萬大蔵経の意味を知る人は、今まで一人もいない。

大韓民国の三星財団の創立者、イビョンチョル氏は、生老病死の理由など、質問24をカトリック教のパク某神父に質問して、24年ぶりに、チャ某神父(教授)がその答を出したが、それは正当ではなく、でたらめな答であった。

神様は、約2500年前、釈迦に生老病死の苦痛を解決する事のできる答を「イエス」だと言われた。イエス様は、釈迦の後、約500年が過ぎて、神様が遣わされて、この世に来られた。イエス様が「生」について、ヨハネの福音書6章で、ご自身の血と肉を食べる者だけが永遠の命があると言われた。ユダヤ人たちは、イエス様を捕らえて、十字架にかけて殺したが、イエス様は、3日目に(第3日に)復活、昇天された。この後、イエス様が異邦の使徒に選んだパウロは、第一コリント15章で、一人の人(アダム)によって死が入って来て、一人の人(イエス様)によって命が入って来たと言った。アダムは、死んで土に返って、イエス様は、死なれたが、再び生きて、天に上って行った(創3:17-19、ルカ24:46、Ⅰコリ15:4、使1:9-11)。

私たち信仰人は、聖書の御言葉を神様の御言葉と信じる(ヨハ10:35)。初臨当時、この地に自分の肢体がないエリヤとモーセとイエス様は、変化の山の上に現れた(マタ17:1-8)。記録されたように、アダム(創3章)と、神様の息子たち(創6章)が善悪の実を食べず、罪を犯さなくても、土に返っただろうか?イエス様は、弟子3人を連れて高い山に上って行き、再び来られる時の姿を、この日、前もって見せて下さったのである。彼らの姿は、肉体は別に、霊体は別にではなく、肉体と霊体が一つに変化された姿である。

パウロは、終り(第七)のラッパに、突然、変化されると言った。肉体が死んだ者たちの、その肉体は、再び生きられず、その霊は、変化されて、天の心霊なる霊のようになって生きて、肉体を持っている私たちも変化されるので、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちない時には、死が命(勝利)に飲まれると言ったその御言葉が応じると言った(Ⅰコリ15:51-54)。

このような御言葉がヨハネの福音書11章(25-26節)にイエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は死んでも生き、生きてわたしを信じる者は、永遠に死なない。」と言われた。そして、弟子たちに、「これ(この言葉)を信じるか?」と言われ、弟子たちは、「主よ、信じます。主はキリストであられ、世に来られる神様の息子であられることを信じます。」と言った。そして、イエス様は、死んだラザロを再び生かした(ヨハ11:43-44)。この事は、イエス様の御言葉を信じさせた。

また、イエス様は、ヨハネの福音書8章で、「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。」と言われ、これにユダヤ人たちが、「私たちの祖先アブラハムも、ヤコブも死んだのに、あなたはアブラハムとヤコブよりも偉大なのか?」と言った。イエス様は、「わたしの中に父(神様)がおられ、父の中にわたしがいる。」と言われた。この言葉は、神様が永遠に生きられるように、イエス様も神様と共に永遠に生きられるという意味になる。イエス様の御言葉と使徒パウロのあかしを見る時、同じ意味の命を言っている。

啓示録20章で見たように、主の御言葉をあかしして首をはねられたたましいたちと、私たち生きている者がキリスト共に第一の復活にあずかると言った。第一コリント15章のパウロのあかしもこのように、肉体が死んだ者たちの霊が変化されて心霊なる霊で生きて、私たち肉体たちも変化されて、朽ちず、死なないと言い、この言葉は、死んだ殉教者と私たち生きている者が第一の復活にあずかると言った、その言葉が一致する。

(性質が気難しい)パウロは、私たちにキリストのような復活がなければ、この世で私たちが一番哀れな者になるだろうが、復活の初穂として見せて下さったイエス様のように、主の再臨の時、主に属した者が順番に復活すると言った(Ⅰコリ15:19-24)。

アダムが罪を犯した後、地球上には数多くの人々が死んで来た。数多くの人物たちも生まれては死に、罪を赦されるためのいけにえもして来た。なぜ、神様は、釈迦の問にイエス様をその答として下さったのか?イエス様は、私たちの罪の赦しのため、代わりに十字架にかかられ、血を流された。死が罪の価であるならば、イエス様が十字架によって私たちの罪の価を代わって負って下さったので、この地に死が終わってなければならない。ところが、なぜ、2千年間、死が相変わらずあるのか?

ヨハネの福音書6章で言ったイエス様の血と肉は、いつ、食べるようになるのか?ルカの福音書22章の血で立てた新しい契約は、「まことのぶどうの木(イエス様)からできたものを神様の国が臨む時まで食べない。」と言われたので、イエス様の血と肉は、啓示録の成就の時に食べるようになる(啓5:9-10、啓7:14、啓12章参考)。

このゆえに、パウロも、終り(第七)のラッパの秘密だと言い、この時、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちないと言った。7つのラッパのうち、6つは、啓示録8章からラッパの音が出て(啓8.9章)、この終りの第七のラッパは、啓示録11:15から吹かれるようになる。このラッパの音で世の国が神様の国になると言ったので、神様の勝利であり、救いであり、回復される事を知らせたのである。使徒パウロも、この啓示録の時の終りの第七のラッパの音を言ったのであり、救いの秘密を言ったのである。

それゆえ、イエス様が2千年前に流された血は、啓示録の時、その効力が現れるようになり、「父の国で新しいもので食べる時までは、食べない。」と言った、「父の国」は、啓示録5章で、ご自身(イエス様の)血であがなった国と祭司長たちである。白い群れも、啓示録7章で、イエス様の血で衣を白く洗った人々なので、これもまた、啓示録の時の事であり、血でできたものである。

アダムが罪を犯す事によって死が入って来て、イエス様の血で命が来るようになったのである。前で言ったように、釈迦に言った「生老病死の苦痛」に対する答えは、イエス様であられ、イエス様の血であった。

主を信じる聖徒は、イエス様が言われた御言葉の時と血の効力があるようになる時に、啓示録2-3章に約束された祝福と約束の牧者を知る事が救いの道であり、永遠の命に対する答えだと言えるだろう。アーメン!



1)釈迦の教えを記録したものが仏教である。「大蔵経」は、釈迦の教えとその他に仏弟子たちが叙述したもの、または、仏教の歴史、釈迦の伝記、その他の仏教に関する文献などを総合したものである。高麗の高宗の時、版数、約8万あまりの大蔵経を作ったので、これを「八萬大蔵経」と言う。

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