2014년 12월 12일 금요일

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

(本文:Ⅰヨハ4:1-8)



地上には、数百種類の宗教がある。これらは、同じように神様を基準としている。そして、自分の宗教が一番だと言っている。果たして、宗教の経書が信じられるくらいの内容があるだろうか?まず、信徒数が多い宗教団体であるキリスト教から調べてみよう(キリスト教は、カトリック、プロテスタント、聖公会、正教会、反ユダヤ教などがある。)

キリスト教の歴史は、6千年であり、アダムの時、ノアの時、モーセの時、士師の時、イエス様の時があり、啓示録の時がある。キリスト教の経書である聖書は、神様から聞いて、見て、記録したもので、旧・新約66巻であり、記録者は、数十名である。キリスト教徒たちが同じように神様から聞いて、見た事を記録したので、これ(聖書)を神様の御言葉だと言う。この御言葉は、内容で見ると大きく歴史、教訓、預言、成就が記録されている。

神様がアブラハムと約束された事は、モーセの時、成し遂げられて、旧約の預言者たちと約束された事は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。新約の啓示録は、イエス様が預言(約束)されて、これは、再臨の時、成し遂げられる(啓21:6)。

約束した預言とその成就を見る時、初めのものが腐敗する時、壊して、再び新しいものを創造された(ヘブ8:7-13参考)。例を挙げれば、アダムの世界が腐敗する事によって終わって、再びノアの世界を創造され、ノアの世界が腐敗する事によって終わって、再びアブラハムのモーセの世界(肉的イスラエル)を創造され、モーセの世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の初臨の世界(霊的イスラエル)を創造され、今日、イエス様の初臨の世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の再臨の世界(霊的新しいイスラエル)を創造された。これが6千年間のキリスト教の聖書が語った預言とその成就である。しかし、モーセとイエス様は、出現前に約束された人物であった。

仏教と釈迦の歴史は、約2,600年としてみて、仏教も幾つか(宗派)に分かれている。しかし、経書は、だいたい同じで、釈迦は、王の息子、すなわち、王子でである。この釈迦は、宗教に預言された人物ではない。釈迦が宗教の道を歩くようになったのは、生老病死の理由を知るため創造主を探しに出て行ったのが、その契機であった。釈迦が天の声を聞いて、記録したものが仏教である。韓国では、高麗の高宗の時、仏教を総合した大蔵経を刊行したが、その版数が8万編だとして、八万大蔵経と言い、これは釈迦も、その弟子たちも、見ても悟れない内容である。このような事は、単に釈迦だけではなく、キリスト教の聖書に記録された預言に対して、それを記録した預言の使徒たちも悟れないのは同じであった。それゆえ、仏教の信徒たちのうち、記録された八万大蔵経の意味をわかる者は一人もいない。

神様は、生老病死の秘密を知ろうとした釈迦に、約500年後、イエス様が来れば、将来の事を、預言してくれるという事を教えられた。釈迦に将来の事をわからせようとする時、神様は、それを以前の預言者たちに約束したので、改めて言う必要がなかった。韓国のサムソン財団の創立者、イビョンチョル氏も、カトリック教のパク某神父に人生、宗教などについての24の質問をして、この質問には、生老病死に該当する内容も含まれている。しかし、パク某神父は、その当時、答えられず、24年後、カトリック大の教授であるチャ某神父が答えたが(本にして出刊)、それはでたらめな答に過ぎなかった。

釈迦の弟子たちは、釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られた時、イエス様に啓示の御言葉を聞かなければならなかった。この仏弟子たちは、自分たちの知っている知識だけで仏教を彼らの権威と一緒に今まで延長させて来た。これは、キリスト教、すなわち、カトリック教も同じである。神様は、2千年前にすでに預言されて(マタ24章、ヨハネの啓示録参考)、12世紀のカトリック教の一人の預言家も、自身の死後、112番目の教皇が最後の教皇になるだろうと預言したが1)、この事で教徒たちの騒動が起こるかと恐れて、口を閉ざしていると見られる。

イスラム教は、イエス様の後、約600年が過ぎて創立されて(AD 610年創立)、今日、その歴史が約1,400年になり、経書の内容は、アダム、ノア、モーセの世界などの一部を語り、預言・啓示などの言葉はあるが、天の内容ではなく、地、すなわち、世の道理であり、預言とその成就に対する約束はなかった。良い、善良な行いをしなければならないという内容が、その大多数であった。しかし、これは、人の基本、道理である。彼らが善良で良い事について説明したものは、明心宝鑑2)よりもひどく、これらは求道だと言いながら紛争に専念していて、紛争によって国が分かれた所もあり、現在24ヶ国で多くの紛争を起こしている。

イスラム教を信じるアラブ人たちの先祖は、本来イスラエルの子孫、すなわち、アブラハムの息子の子孫であり、サラの女しもべハガルの子孫(ハガルの息子イシュマエルの子孫)で、約束の息子、本妻(サラ)の息子、イサクの子孫ではない。コーラン(Koran:イスラム教の経典)に記録された歴史は、アダムの時からイエス様の時までの歴史から取得してものであり、いつか成し遂げられる預言であり、その約束の預言が成就されたという内容は探す事もできず、また、イエス様以後に約束した預言がない。

神様がアブラハムと約束された事に対する成就、モーセの出エジプトの路程もなく、旧約の預言者たちの預言も、その成就も、イエス様の預言とその成就もない。コーランの経書を通して信じるほどの内容は探す事ができない。コーランを記録した一人の人3)の議論のみである。過去と現在、そして、未来に成し遂げられる約束があってこそ、その内容を見て、これを信じて守らなければならないという信仰が生じるだろう。

ヒンドゥー教の内容も、イスラム教の経書のように、一言で要約すれば、良い善良な行いをしなければならないという内容以外に、どんな約束をも探す事ができない。これ以外にもたくさんの経書があるが、話す価値がないものばかりである。

私たちが神様とその御言葉を信じるのは、聖書に生老病死の理由とこれ(罪による苦痛と死の問題)を回復する内容と、また、後世の人々に成し遂げられる将来の事などの内容があるからである。

過去に約束した事が六何原則に基づいて成し遂げられた事をパターンにして、新しい契約として話された預言も、信じる事ができるのである。将来の事に対する預言も、その成就も、六何原則に基づいて、すなわち、「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、なぜしたのか」という順理に従って語ってあかししている。

そして、聖書には、神様から創造された人の姿を始めとして、罪によって死と、創造主が離れて行かれた後の罪の赦しと、本来の姿に回復される事と、回復するための材料と、回復されるために人が守るべき約束と、創造主神様がご自分の人(神様の家族)と共に住まわれる事と、その時の人生の価値などが説明されている。

何によって、どのように本来のように回復されるのか?現在の人は、誰の種で生まれ、どんな神(霊)が主管するのか?今、私は誰の神(霊)が共にいて、誰の姿なのか?そして、神様の息子になろうとすれば、良い、善良でなければならないのか、神様の種で生まれなければならないのか?神様がなさろうとする御心と働きは、どんなものなのか?なぜ、そうしなければならないのか?

宗教が数百に分かれたのは、神(霊)の御心なのか、人の考えなのか?誰でもみんな神様を基準に信仰していると言う。しかし、経書の内容も異なり、その行動と教法も異なる。これでどうして一人の神様の御心だと言えるのか?これは長い歳月の中で宗教が変質されて、腐敗されたという確実なあかしである。この時、全ての宗教が宗教の主人であられる創造主神様に返して、神様の中で一つになることが原則だと言えるだろう。

初臨のイエス様は、平和の使者として来て、平和の働きを選民イスラエルがわかったならば良かったかもしれないが、平和を受け入れず(イザ52:7、ルカ2:14、19:38-44参考)、かえって、イエス様を異端だとし、殺した、当時のイスラエルの牧者たちが。今日も、その時のように、イエス様が教会のために遣わされた使者は、平和を叫び、平和の働きをしているが、韓基総は、戦争を宣布している。平和のためには、国境も、人種も、宗教も、思想も超越しなければならない。そして、敵をも愛さなければならない。

キリスト教の聖書が言っている末世に対する預言を要約してみる。キリスト教の経書に対する末世論を話そうとするのは、他の宗教の経書には末世に対する預言がないからである。イエス様が語られた末世は、宗教(キリスト教)の終末を言ったのであり、不信社会の終末を言ったのではなかった。宗教の末年には、宗教が腐敗するようになり、神様が背教する事によって天に属した太陽・月・星のような宗教人(選民)が地(肉)に落ちると言った。この時をノアの時、ロトの時のようだと言われたので(マタ24:37-39、ルカ17:26-30)、これは宗教世界の滅亡を言ったのである。

このような事があった後、主が御使いと共に来られて、収穫して印を押す働きがあり、神様の新しい国を創造すると言われたのである(マタ24:29-31)。この事は、この時の背教者たちと滅亡者たちと救い主を知らせていて(預言)、これを知らせたのがキリスト教の経書である。すなわち、この末世の事件を知らせたものが新約であり、啓示録の事件である。この時の救われる働きと避難所を知らせて下さって、この後の新しい国について説明されたのである。

聖徒たちは、どんな経書を望むのか?キリスト教の経書である聖書が信仰人に必要なのは、聖書の中に記録された内容である。

人は、誰でも罪があり、罪の遺伝子で生まれた。この罪が解決できなければならないし、背教者・滅亡者をわからなければならないし、救い主と再創造に所属されてこそ、救われて、天国に入り、永遠の命を味わう事ができる。

これを話した預言と、この預言が成就された内容がない経書は、神様が下さった御言葉、すなわち、啓示ではなく、人が盗用して作った本に過ぎない。

罪を赦す力がなければ、救い主でもなく、罪を赦す材料がなければ、救いを知らせてくれる経書にもならない。新しい時代の創造に関して、設計された経書がなければ、信仰人たちは、世のその通りに生きるしかないだろう。人も、世も、新しくできる約束の材料と創造された設計があってこそ、まことの経書と言えるだろう。仏教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、その他の宗教も、その経書にはこのような内容がない。それゆえ、各種の宗教の経書の中には、キリスト教の聖書が一番信じるだけの内容があり、このような内容が手落ちなく記録されている。

これは、各宗教の経書を一ヶ所に集めて置いて、上の内容に対して、その可否を調べて見なければならないだろう。間違った道を走っていると言って、目的地に行くのではない。正道を行ってこそ、目的地に行く事ができる。

釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られて、十字架で血を流されたとしても、その時から2千年が過ぎた今日に初めて、その約束である新しい契約の人生が成し遂げられるのである。

そのような人生が成し遂げられる所はどこなのか?ここは、啓示録3:12のように、神様とイエス様と天国が来た所であり、新しい天、新しい地、すなわち、心天地である(啓21章)。ここは、送旧迎新好時節4)であり、三豊之穀(啓2:17、「隠されたマナ」)、すなわち、永遠の命の食物を持って来たのであり、太古以後初楽道6)、すなわち、啓示録が成し遂げられた所であり、死末生初新天地7)である。アーメン!

 1)アイルランドの

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