2014년 12월 13일 토요일

神様の愛のまことの意味

神様の愛のまことの意味

(本文:Ⅰヨハ4:8)



愛とは、何を言っているのか?愛は、命と平和を意味する。

天地万物は、愛によって保存されている。恐ろしい動物も、傷づくいばらも、毒のある草も、愛があるので、子どもがいて、また、愛によって保存されて生きている。

万物を創造された神様は、愛であられ、愛であられる神様が創造されたので、神様から生まれた者は、みんな互いに愛し合う。

(Ⅰヨハ4:7-11)愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神をわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

神様は、神様の愛を知っている者の中におられる。これは、神様が愛であられるからです。

(ヨハ15:9-12)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

(Ⅰコリ13:12-13)今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

神様も、イエス様も、ヨハネも、パウロも愛について同じような御言葉を言われた。愛の世界、平和の世界、自由の世界は、神様の世界であった。この世界が神様の国、天国であった。この愛の世界を壊したものが悪魔であった。地を混沌とさせ、空虚にさせ、天を暗やみにしたのであった。これはまるでぶどう酒に水を混ぜた事と同じである。二種類の思想が一つの心の中で互いに争う事になったので、すなわち、善と悪である。

この混沌とした世の中が6千年間続いて来て、神様は、人の中にいる悪を除去するため、羊の血を注ぎもされた(レビ16:14-16、ヘブ9:13)。イエス様は、混沌とした世の中が6千年間続いて来たこの時(再臨の時)を指して、ノアの時、ロトの時のようだと預言された(ルカ17:26-30)。ノアの時も、ロトの時も滅亡の時であり、ほんのわずかの何人かだけが救われた。再臨の時は、教会の終末であり、滅亡であり、少ない種で(イザ1:9、6:13参考)再び新しい国を創造する新しい時代である。キリスト教徒たちは、この時を待って来た。

神様は、時代ごとに一人の預言者を立てて、その預言者に啓示を与えて、彼によって全ての事を知らせられた。イエス様が「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われた(ヨハ8:32)。真理は、神様の御言葉である(ヨハ17:17)。新約に約束した御言葉を悟って知る事によって滅亡を逃れるだろうし、敵に捕虜になった所から抜け出る事ができるようになる。光である真理の御言葉がなければ、真っ暗な夜であり、夜は見えない暗やみであり、眠る時である。真理で救われる事によって平和になる。

初めの御言葉がいのちであり、光だと言ったので、神様のように、イエス様のように、初めの御言葉で再び生まれるならば、その人も御言葉になる。御言葉がまず、あってこそ、神様が共におられて、神様の導きを受けるようになる。神様に導かれる者は、本当に祝福され、死に陥らず、永遠の命に至るようになる。

愛の神様が人の心から離れたので、どうして人の中に神様の愛があるだろうか?離れて行かれた神様と愛を心に再び迎えようとすれば、何がなければならないのか?神様の御言葉が心になければならない。

ヨハネの福音書1:1-5で見たように、神様は、初めの御言葉と共におられた。御言葉があるところに神様がおられるからであり、神様がおられるので、神様の御言葉がそこから出て来るのである。この御言葉が、すなわち、神様であり、いのちであり、光であり、愛であり、真理であり、平和である。

今日、神様を信じる聖徒は、まことの神様を(ヨハ17:3)知らなければならないし、6千年の神様の系図と歴史をわからなければならないし、あった事どもをわかってこそ、認められて、信じられて、愛するようになる。神様が私たちを愛されたので、私たちも神様を愛する事が当然である。

長い歳月の間、罪悪によって互いに敵のようになっていたが、イエス様の血で罪を赦されて、神様のまことの種で再び生まれたので、神様の息子(子ども)になって、家族になった。家族として、父と息子として信仰して、愛して、往来して、互いに顔を合わせて見るのが当然な道理である。

罪の赦しもなく、再び生まれる前には、捨てられた孤児のようであったが、今からは、父にあった喜びと愛があふれて、啓示録22:1-5のように、父の顔を見るだろうし、永遠に共に王となる、王子として。アーメン!

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