旧約の啓示と新約の啓示の異なる点
本文:エゼ3章、啓1章-22章(イザ29:9-14、ホセ12:10)
旧約の啓示と新約の啓示の異なる点は、どんなことなのか。
旧約の啓示は、旧約を成し遂げることであり、新約の啓示は、新約を成し遂げることである。このように、旧約を成し遂げることと新約を成し遂げることの差のために、同じ啓示ではない(啓示の意味は、封じられていたものを開いて見せるという意味である。)。その例を挙げれば、旧約の成し遂げる啓示は、種を蒔くことであり(エレ31:27、マタ13:24-25)、新約の成し遂げる啓示は、蒔いた種の実を刈り取って、神様の新しい国を創造することである(マタ13:30、啓14章)。
旧約も、新約も、成し遂げる封じられた本を与えられる方は、神様であられるが、その本を開いて、成し遂げられた後、その本を受けて食べてあかしする牧者は違う。旧約の本を受けて食べた方はエゼキエルであり(エゼ3章)、新約の開かれた本を受けて食べた人は、イエス様の弟子、使徒ヨハネであった(啓10章)。だが、旧約でも、新約でも、人名と地名はたとえたものである。ホセア書12:10に、「預言者たちによってたとえを示そう。」と言われたので、エレミヤ、また、エゼキエルを用いて語られたが、旧約を成し遂げる時の人物は、エレミヤでもエゼキエルでもなく、イエス様であられた。このように、新約も開かれた本を使徒ヨハネに与えたように記録されたが、成就の時の人物は、ヨハネではない。ヨハネが見て記録した啓示録は、その時から約2千年が過ぎた今日の事なので、成就の時の人物が、どうしてヨハネだろうか。また、エゼキエルが見て聞いて記録したそれが、6百年が過ぎた後に成し遂げられたので、成就の時の人物が、どうしてエゼキエルだろうか。従って、聖書の記録は、その昔の人名、地名をたとえたものであることを知らなければならない。
また預言書に、たとえた比喩で約束を話したのは、サタンと敵対者が聞いて悟らないようにするためだと(マタ13:13-15)と言われた御言葉を知るべきであり、はっきりと告げる時は、その約束を成し遂げる、その時である。この時、約束の牧者に来られて、約束した成就を見せてくださって、説明してくださる。従って、これを見て聞いた約束の牧者は、自分が見た実体をあかしするようになる。これが預言とその成就であり、預言された神様と成就した約束の牧者であり、この時、信じる者と信じない者がいるようになる。
預言と実状を信じることによって救われるようになる。預言を信じても、実状を信じなければ、救われない。また預言を悟れなければ、実状もわからない。旧約で種を蒔くことを約束されて、初臨の時、イエス様が来られて種を蒔かれて、再び来られて蒔いた種の実を収穫して、新しい国を創造されることを約束された。種を蒔くことがなければ、どうして再び来られて収穫することがあるだろうか。従って、種を蒔く預言とその成就があり、蒔いた種の実を収穫するという預言とその成就があるのである。
従って、旧約の啓示と新約の啓示が異なるのである。旧約の預言と新約の預言が異なっていて、その成就も異なるのである。旧約も、新約も、神様の目的があってこそ言われたのである。預言とその成就、旧約と新約の目的とその結果は、この地の罪悪の世を終わらせて、神様の義の国を立てられて、神様が統治されるということである。それだからこそ、罪を赦されて、神様の種で再び生まれ、聖霊を受けて、新しい世で神様と共に住むのである。
だから、神様の種を蒔かれて、収穫されて、印を押されて、新しい国を創造された。このためにイエス様は、十字架にかかられて血を流された。その血で罪を洗って白い群れになるようにされて、その血でサタンと戦って勝利されて、その血で私たちを罪から解放されて、その血で私たちを贖って、神様の国と祭司長になるようにされた。
キリストの血で罪を赦されて、神様の種で再び生まれ、神様の子どもとなり、神様の家族になることによって神様と共に天国で住むようになる。このために種を蒔くことも、収穫することも、印を押すことも、神様の新し国の創造もあったのである。
このように約束されて、今日、成し遂げられたことを見ても信じず、妨害する者たちは、サタンに惑わされたサタンの働き手たちだからである。しかし、私たちは、新約通り私たち自身に成し遂げられて、本当に父と息子(子ども)になった。これは、新約の啓示通り成し遂げられた天国であり、天民であり、神様の国であり、天国である。アーメン。
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