2015년 11월 9일 월요일

聖書の預言と成就と約束の牧者

聖書の預言と成就と約束の牧者



本文:ヨハ14:29、ヨハ19:30、啓21:6



 聖書が言う預言とその成就は何であり、約束の牧者は誰なのか。

 聖書は、神様が神様とその御心を人に知らせる文章であり、これを悟って信じさせたのである。預言は、成し遂げることを前もって知らせたものであり、その成就は、約束した預言をその通りに成し遂げた実体である。そして、約束の牧者は、預言を成し遂げる時、見て伝える牧者で、聖書に前もって決めておいた牧者である。預言を成し遂げる時、神様は、約束の牧者に来られて、共におられて、預言を成し遂げて、あかしするようにされた。



 神様は、約束された預言が全ての人にあかしされるため、全世界に宣べ伝えられた(マタ24:14)後、この預言を成し遂げられた。

 神様が創世記15章に、アブラハムと約束された預言は、出エジプトしたモーセの時、全て成し遂げられて、旧約の預言者たちに預言されたことは、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられ(ヨハ19:30)、新約の啓示録に預言された事は、約束の牧者、勝利者に来られて、全て成し遂げられた(啓21:6)。



 約束したことに対する信仰は、神様が約束された預言を人が見て悟った時、信じるようになるのである。もし、神様が約束されたことがなければ、信仰人がこれを待つ必要もなく、希望も、信仰もないだろう。望んでいる希望が預言の中にあるので、これを守って待ち、信じるのである。信じない理由は、預言も、成就も悟れなかったからである。神様が創造されたアダムとエバは、神様の御言葉を完全に悟れなかったので、蛇、すなわち、悪魔(竜、サタン)に惑わされたのである。



 アダムとエバを惑わした蛇は、誰なのか。ここで蛇は、比喩したものであり、蛇は、神様が創造した野の獣の中の一つである(創3:1)。イザヤ書14章12-15節では、これを暁の子、明けの明星(啓明星)と言い、この明けの明星がまことの神様に敵対したと言った。そして、エゼキエル書28章では、これを「覆うケルブ」と言い、この覆うケルブは、四つの生き物のうちの一つであった(エゼ1章、エゼ10:15-20)。彼は、自分を神だと言って追い出されて、サタンになり、自分がまず、神様に背教して、神様の子どもたちを惑わして、背教させる者である。そして、啓示録では、2章と8,9章と13章と17,18章で、神様の幕屋の人々を惑わして、倒し、自分の名前で聖徒たちの額と手に刻印を押して、自分に拝ませた者、すなわち、蛇(竜)である。



 神様の本、聖書の中には、この蛇のせいで創世から啓示録の時まで昔の秘密と比喩の言葉があるようになったのである(マタ13:10-15)。イエス様が言われた比喩の御言葉を悟れなければ、他の人(外人)になり、罪を赦されないと言われた(マコ4:10-12)。

 新約の末世論を話しているマタイの福音書24章と啓示録で、イエス様が惑わされないように気をつけなさいと言われたことも、蛇の惑わしを言ったのである。イエス様は、まことのぶどうの木であり、いのちの木であり(ヨハ15章)、野の獣である蛇は、野ぶどうの木であり、善悪の木である。申命記32章31-33節に見たように、蛇のぶどうの木があり、そのぶどう酒は、蛇の毒であり、まむしの悪い毒だと言った。啓示録17,18章に見たように、この不品行のぶどう酒で万国を惑わして、倒した。

 アダムの時にあった事件が、今日、啓示録の時にもあるので、竜の群れ、七つの頭と十本の角を持った獣、すなわち、偽りの牧者たちの行いである。これがわからなければ、彼らに惑わされるようになって、善悪の実を食べるようになる。



 地上には、数多くの宗教がある。これらがみんな神様が下さった宗教なのか。経書の中で見たものは、二種類の神がいる。一つはまことの神様の聖神であり、もう一つは蛇の悪神である。この二種類の神がアダムの時から今日まで、6千年間、戦ってきた。

 神様は、ただ一つの道に一貫とした歴史と預言と成就で働いてこられて、悪魔、蛇はあらゆる姿で神様の宗教を混沌とさせるためににせものの宗教を作ってきた。宗教という名称を持っているが、私教と国教と文化などで宗教にしてきて、人々は無知で、これを信じてきた。

 この宗教の中に儒・仏・仙(仙教:道教、神仙思想)の三つの道があるが、この中で仏教は恣意的なものと初歩の内容が入っていて、儒教は、文字的な解説で初歩的預言と生活的道具として信じてきた。仙教(道教)と脈を同じくするキリスト教は、歴史と教訓と預言と成就の信仰がある。全ての宗教の中で最もたる御言葉である。



 今は、預言の成就の時であり、審判の時である。この時、審判の石を(啓2:17)受けた者がまことと偽りを審判するようになる。人の考えと悪魔の思想で作られた宗教は、悪魔の宗教である。まことの神様の宗教は、そのあかしがある。善行をすると言ってまことではなく、知識があると言ってまことの宗教ではなく、歴史と経書があると言って、文化があると言って、数が多いと言って、礼法があると言ってまことの宗教になることはできない。まことの神様の宗教は、歴史と教訓と預言と成就がある。

 歴史は、唯一神から今日まであったように、流れがあり、系図があり、宗教の教訓は、天から来た神様の啓示である。天の神様の教育、すなわち、教えである。地の知識と教育ではない。人生の善行は人の基本であり、これによって宗教になることはできない。預言は、神様の成し遂げられる約束であり、成就は、預言したことを成し遂げたことである。預言と成就がなければ、何を信じることができるのか。



 神様は、アダムが罪を犯した後、地球村を離れておられ、アダムを惑わした蛇(サタン)の神が6千年間、地球村を統治してきた。それで、この事実と将来に成し遂げることを神様は、地球村の人々に知らせてきたのが聖書の御言葉である。そして、まことの神様は、6千年間、約束した預言を全て成し遂げてこられた。なので、神様と神様の約束は、信じることができるのである。以前の預言が成就されたことがなければ、また約束した預言があるとしても、どうして信じて待つだろうか。約束した預言とその成就がない宗教は、神様の宗教ではないのである。



 神様は、生命体であられ、生命体であられる神様が人から離れたということは、いのちが離れたということなので、死ぬようになるのであり、生命体であられる神様が人に再び臨まれるならば、断ち切られた命の綱が再びつながって生きるようになる。神様が人から離れられるようになった理由は、自分を創造した主であられる神様を背教して、他の神、すなわち、蛇の神に仕えるので離れられたのであり、人の中には、蛇の毒があり、死が来たのである。



 人の中にある死の罪を何によって、どのようになくすことができるだろうか。いけにえの法は、この罪のためにあるようになったのである(ヘブ10:1-18)。しかし、牛と羊の血でいけにえを捧げ、人に振りかけたが、人の罪はなくならなかった。これがモーセを通しての律法のいけにえの法であった。

 人の中にある罪は、ただ、義人の血でだけ罪を赦すことができるのであった。世の全ての人々が罪人アダムの遺伝子で生まれたので、みんな罪人である。義人はいない、一人もいなかった。だから、神様の子、聖なる独り子が来て、父の御心に従って十字架を負って、血を流されることで人類の罪を赦すことができる条件になったのである。



 まことの宗教は、人の罪を赦すことができる宗教である。もう一つは、人の肉の欲求や血によって生まれたのではなく、神様の種で再び生まれることによって神様の子どもになることができる(ヨハ1:13)。義人の血で罪を赦されて、生きておられる神様の種で再び生まれた人は、新しい被造物としての神様の家族であり、子どもなので、神様と共に生きることができ、神様が共におられることができる。これが救いであり、希望を成し遂げた者になる。これ以外には、どんな宗教の名前でも救われることはできず、恐ろしい審判だけがあるようになる。



 宗教と信仰の目的は、永遠のいのちと天国であり、神様のまことの家族である子どもになるのである。宗教を全て信じないで、神様が約束されて、共におられる宗教と約束の牧者に出会って信じることが希望を成し遂げた宗教人になる。神様が約束されて、遣わされた使者に出会って、希望に至る者になろう。アーメン。

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