2015년 2월 2일 월요일

新しい天、新しい地(新天地)

新しい天、新しい地(新天地)

本文:啓21章、啓6-7章


 新しい天、新しい地は、何を言ったものなのか。イエス教の一つの時代が啓示録6章のように終わって、新しい時代が啓示録7章のように、再び創造された事を知らせたものである。これは、アダムの時とノアの時と同じで、ノアのカナンの時とモーセの肉的イスラエルの時と同じで、肉的イスラエルの時とイエス様の初臨の時と同じで、今日、古くなって腐敗した霊的イスラエルを啓示録6章のように終えられて、霊的新しいイスラエルを啓示録7章のように創造した事と同じである。これを啓示録21章には、「新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」と言われたのである。この新しい天、新しい地を一つの漢字語で要約した言葉が、すなわち新天地である。

 先に言ったように、この新天地は、以前の天と以前の地、すなわち先天地が啓示録6章のようになくなった後、再び啓示録7章のように創造された新しい天、新しい地を言ったのである。世がこれをどうしてわかるだろうか。
 これは、2千年前にイエス様が昇天した後、弟子のヨハネに将来にある事を幻で知らせた啓示録の約束である。

 以前の天と以前の地がなくなったのは、腐敗して、背教したからである。啓示録2、3章のように、啓示録13章のように、悪魔の牧者から額と手に刻印を受けて、獣のような悪魔の牧者に拝んだので、どうして背教ではないだろうか。これは、蛇の言葉を聞いて、神様に背教したアダム・エバのようで、イエス様の初臨の時のエルサレムの聖殿の牧者たちとその教徒たちと変わるところがない。これは夢ではなく、今日の現実である。

 今、地上の全ての聖徒たちに御言葉があるのか。なければ、なぜないのか。牧者に御言葉がないからであり、これは神学校に御言葉がないので、牧者に教えることができなかったからである。
 啓示録22:18-19に、啓示録を加減すれば、天国に行けず、呪い(災害)を受けると警告されているが、そんな事は、知るところではなく、啓示録が本当にわかる者が一人もいないので、救いがあるだろうか。だから、啓示録10章のように、啓示を受けた牧者に学んでこそ、啓示録の意味とその成就がわかるだろう。この言葉が事実ではないのか。
 人、すなわち肉体も食べなければ死ぬ。このように、私たちの霊も、霊の食物であるみことばの乳を食べなければ死ぬ。みことばの乳は、啓示録の預言とその成就された実体である。
 啓示録の約束の牧者、勝利者は(啓2、3章参考)、干からびて、しおれて死んだ魂をいやし、復活させる永遠の命の食物を受けて持って来た。信じられるだろうか。それにもかかわらず、異端だと言うのではないのか。この食物は、啓示録2:17の隠されたマナ、すなわち永遠に生きる食物である。これを探して、受けて食べる事がマナ、すなわち永遠の命の食物を食べる事である。

 神様は、エレミヤ31章の約束通り、イエス様に来られて種を蒔いて成し遂げられたし(マタ13:34-35)、イエス様は収穫しに再び来られると(マタ13:30、24:29-31)約束された通り、啓示録14章に来られて、収穫されて、収穫した者たちに啓示録7章のように、印を押されて、神様の新しい国と民族を創設された。この国が啓示録21章に約束した新しい天、新しい地である。
 新しい天は、新しい幕屋(啓15:5、創39:9-11参考)を言うのであり、新しい地は、新しい肉体、すなわち新しい人を言ったのである。昔のものは終わって(啓6:12-14)、これからは新しいものである。
 新天地に来た、印を押された、いのちの書に名前が記録されたとしても、御言葉と信仰を守らなければ、いのちの書からその名前が薄れていって、消し去られる(塗抹)と記録されているし、今しんがりの者が後で先頭になり、今先頭の者がしんがりになるのだ(ルカ13:29-30)と言われた事を肝に銘じなければならない。
 人は、誰もが神様の御前で審判される日がある。この時は、自分の行いに応じて数々の書物、すなわち聖書に記録された通りに審判され、地獄と天国に行くようになる(啓20:12)。

 教会は、神様の御言葉を教えて学ぶ所である。ところが、教会で世のものを教える者は、世の牧者であって、神様の牧者になる事はできない。まことの神様の教会と牧者は、啓示録10章と15章の牧者と聖殿である。ここの牧者は、天の啓示を受けて教える牧者であり、聖殿は、その事をあかしする証拠幕屋聖殿である。ここは、啓示録12章で獣の群れと戦って勝利した者たちがいる神様の御座の前であり、すべての国々の民が来て、ひれ伏す所である(啓15:2-5)。
 なぜ、信じないのか。なぜ、約束の御言葉がわからないのか。わからなくても、信じなくても正統なのか。天国に入る事ができるのか。これでも天国に行くと教える者は、偽りの牧者ではないのか。
 約束した新約の啓示録通り、自分に成し遂げられない者は、ただの一人も天国に入れる者はいない。これは聖書が証明している。

 イエス様の初臨の時、エルサレムの聖殿の牧者たちに悪魔が入って、その聖徒たちは、悪魔の牧者たちの言葉を信じて、偽りを話す使者になって、イエス様に迫害を加えた。今日、啓示録が成し遂げられる国の牧者と教徒たちもそれと同じではないのか。見てもわからないのか。その実でその木がわかるだろう。
 迫害する事は、御言葉(神様)より人(牧者)を信じているからである。さらには、新しい天、新しい地を「異端だ。悪魔だ。」と言う。それなら、新しい天、新しい地を約束した神様とイエス様とヨハネが悪魔だという話しになり、異端だという話しになる。これは、自分たちのように腐敗した昔のものではなく、新しいものだから言う話しである。
 神様は、パウロを通して腐敗した所から出て来て分離した者が神様の子どもであり、神様は、彼らと共におられる事を約束された(Ⅱコリ6:14-18)。新天地が、まさにこの御言葉が成し遂げられた所である。神様も、その御言葉も、新しい事も、信じない者は、誰の種で生まれた者なのか。悪魔の種で生まれた者である。私たちは、神様の種で生まれた。だから、私たちは信じる。

 神様の約束は、旧約の預言者たちの時から始まって、今日、成し遂げられた啓示録の時までの事である。しかし、この事を腐敗した者は誰もわからないだろうし、生まれ変わって、啓示を受けた者は、この事が成し遂げられた事がわかるだろう。預言の意味がわからないのに、どうして成し遂げられた実体を見てわかるだろうか。しかし、生まれ変わった私たちはわかる。イエス様が「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです(ヨハ14:29)。」と言われた。盲人であり、耳しいになった者たちは、わからないだろう。

 啓示録は、神様の最後の働きであり、成し遂げようとされた目的は、新しい天、新しい地、すなわち新天地である。この新天地に悪口を言っても天国に行けるだろうか。
 この新天地は、種を蒔いた畑に行って、夜に盗人のように収穫して(マタ24章、Ⅰテサ5:2、啓17:14、18:4)、144000人に印を押して、神様の国、12支派を創設して、その後、万国から集めた白い群れを創造したのである(啓7、14章)。これは、主が目的とされた事である。

 これを迫害する者は悪魔の所属だからである。あと少しで悪魔も終わる(啓20:1-3参考)。そして、神様の統治時代として成し遂げられる。
 国際法の制定と宗教大統合を見たならば、この時がわかるだろうし、神様の統治と神様の働きの時である事がわかるだろう。

 聖書の啓示の御言葉を道とし、ここに来る事が天国に来る事であり、救いである。ここが、まさに啓示録3:12のように、成し遂げられた所である。アーメン。 

댓글 없음:

댓글 쓰기