預言と成就された復活と聖霊
本文:エゼ37章、ヨハ5章、啓29章、啓3:12
預言と成就された復活と聖霊を受けるということはどのようなことなのか。これは神様の約束であり、この約束通りに成し遂げられることである。
アダムの世界の腐敗によってノアの世界が立てられ、ノアの世界の腐敗によってアブラハムの子孫であるモーセの世界が立てられ、モーセの世界のイスラエルが腐敗したことによって、神様が旧約の預言者たちを通して約束(預言)されて、時になって神様がイエス様に来られて、その約束を成し遂げられたのである。
初臨のイエス様の約束は初臨で終わらず、再臨で完成されるのであった。その例をあげれば、エレミヤ31章27節の約束通り、イエス様が種を蒔かれて(マタ13:24-25)、種を蒔かれた後、収穫しに再び来られて、収穫して神様の新しい国を創造され、創造主である神様に仕えて永遠に住むことである。
預言が成し遂げられたことが分かるためには、まず預言の意味が分からなければならないし、預言が分かってこそ成し遂げられた時に、見て悟って信じることができる。
まずエゼキエル37章の預言を調べてみよう。(要約)
谷間の死んだ骨はイスラエル人たちが戦争(霊的)で殺されたのであった。人の子であるエゼキエルがこれらの骨に命である神様の御言葉を預言(代言)すると、骨と骨とが互いにつながって、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおったが、その中に息はなかった。また息に預言(代言)すると、息が彼らの中に入って、生き返った。彼らを墓から引き上げて、神様の霊を彼らの心に入れて生き返らせた。
これは成し遂げる預言であって、墓の中の骨は霊が死んだイスラエル人たちであった。
以後、約600年間この御言葉が宣べ伝えられた後、この預言が成し遂げられて、神様が約束の牧者であるイエス様に来られて成し遂げられたのであった。これをヨハネの福音書5章とマタイの福音書23章で探すことができる。
預言を聞いて見て記録した者はエゼキエルであって、預言された方と預言を成し遂げられた方は神様であられ、成し遂げたことを見てあかしされた方はイエス様であった。エゼキエルの37章で見た代言者(預言者)の実体は誰なのか。その代言者はエゼキエルではなく、エゼキエルは預言を記録しただけであり、代言者は成就の時のイエス様であった(Ⅰヨハ2:1-2)。
エゼキエルが見た死の現場はマタイの福音書23章のエルサレムであって、彼らを殺した者たちはエルサレムを主管していた蛇、すなわち牧者たちであった。このエルサレムのことをイエス様は白く塗られた墓だと言われ、その中には死んだ者たちの骨がいっぱいだと言われたのである。これはエゼキエルの預言と同じである。
また、これについてヨハネの福音書5章でイエス様は「わたしのことばを聞いてわたしを遣わした神様を信じる者は、死からいのちに移っているのです。」と言われた(ヨハ5:24)。この死といのちはどこなのか。死は骨があるエルサレムであり、いのちは神様といのちの御言葉がその中にあるイエス様であった。蛇がいる所はエルサレムであって、神様がおられた所はイエス様であって、イエス様は神様の聖殿であった。
また「墓の中にいる者たちが神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。」と言われて、「聞く者はよみがえって命を受け(いのちの復活)、聞かない者はよみがえってさばきを受ける(さばきの復活)のです。」と言われた(ヨハ5:25-29)。墓は律法学者たちとパリサイ人の牧者たちがいるエルサレムであって(白く塗られた墓)、この墓(エルサレム)の中にいる者たちが神様の子であるイエス様の声を聞いて信じると、よみがえていのちを受けると言われた。
墓の中で死んでいた霊が、預言(代言)の御言葉と息を受けて生き返った事が復活である。死んだのは肉ではなく霊であり、生き返ったのも肉ではなく霊である。
イエス様が父を葬ることを許してくださいと言った弟子に「わたしについて来なさい。死人たちに死人を葬らせなさい。」と言われた事も同じである。これは肉体が死んだ者を霊が死んだ者たちに葬らせなさいと言われた御言葉であった。
また、ヨハネの福音書6章63節に「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われた。
エゼキエルの37章の預言を見ると、死んだ肉体が生き返ったように見えるが、実は生き返ったのは肉体ではなく霊であって、その戦争も肉の戦争ではなく霊的な戦争であったことをを分かることができる。
エゼキエルの言葉によると、墓から生きて出て来た者に霊を注いで下さったと言われた。イエス様は墓であるエルサレムから出て来た者たちに聖霊(聖神)を注いで下さった。
これが預言と成就の事実である。
この事を当時の牧者がどうやって分かるだろうか。この事実が明らかになる前に彼らが話した事は、偽りのあかしであった。偽りを話す者が蛇だったので、偽りをあかししたエルサレムの牧者たちをイエス様は蛇だと言われたのである。
今のこの時代の信仰人たちには、旧約の預言とその成就よりも、新約の預言とその成就の方がもっと重要である。神様の最後の働きである啓示録について、その御心と成就について知っている者がいるのか。天上天下にただの一人もいないと言われた(啓5:2-3)。それなのに、この啓示録をあかしする者がみな、偽りを伝えたので、蛇であることにほかならないだろう。
今日、神様とイエス様は、約束された啓示録を全て成し遂げられて、1章から22章まで、現場で見て聞いた者を選んで、イエス様の使者とされ、諸教会に遣わして、これを(啓示録の全章の成就)あかしさせられた(啓22:8、16)。初臨の時、ユダヤ人の牧者たちがイエス様を迫害したように、今日もイエス様の使者をまた迫害するのではないだろうか。
死のある所といのちのある所と第一の復活を知っているのか。答えよ。
私は知っている。アーメン。
光と光との出会いは勝利。
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