2015년 2월 3일 화요일

各種の宗教と大統合

各種の宗教と大統合

本文:創1章、啓21章
 

 天地創造主は、唯一の神であられる神様である。地上には、数百種の宗教がある。宗教は各々唯一の神を基準にし信仰している。だが、宗教それぞれが互いに異なる教典や信念を持ち、振る舞いも違う。それだけでなく、互いに己の教理こそ真理だと言い争うことで宗教による紛争は絶えない。これらの宗教が仕える神が真ならば、教典も信念も同じであるはずだ。教典も信念も異なるのは、各宗教の神が異なることを意味し、それぞれに神様がいるということである。

 キリスト教の教典である聖書(旧約39冊、新約27冊で、合わせて66冊)の歴史と記録者たちの系図と流れについて調べて見よう。 
 この教典を時代ごとに見て聞いて記録した者は、数十人であり、聖書の歴史は、今まで6千年になった(聖書が最初に記録された時期は、今から約3500年前である)。この教典の内容には、歴史と教訓と預言(約束)とその成就がある。この教典には、アルファである旧約の創世記1章からオメガである新約のヨハネの啓示録があり、各時代の創造の働きと実物(実状)と、当時の人々が罪を犯した事が記録されている。

 創造主、神様が創造された人(牧者)の始祖とも言えるアダムがいて、その妻のエバがいた。彼らが神様に罪を犯す事によって、神様は、アダムの世界を洪水で審判されて、アダムの9代目の子孫、ノアを再び立てられた。
 このノアの世界もまた、罪を犯す事によってノアの10代目の子孫であるアブラハムに将来の事を約束され、モーセ(ヤコブの4代目の子孫)を立てて、その約束を成し遂げられた。そして、アブラハムの子孫であるイスラエルが罪を犯す事によって、神様の種で生まれたイエス様を(マタ1:20-21)立てられた。この時は、アダムから4千年になる時である。ところが、約束した新しい時代が来るたびに、以前の時代が信じず、異端だと言い、迫害した事を教典の歴史で見る事ができる。

 イエス様の時は、初臨と再臨に分けられる。初臨は、イエス様が天の福音の種を蒔かれて、罪の赦しのために十字架を負われる事であった。そして、再臨は、種を蒔いた畑から穀物の実を収穫して、2千年前、イエス様が流された血で人々の罪を赦して、神様の新しい国を創造されて、まことの神様に仕える事と、神様が世を統治される事であり、このために御使いたちと共に来られると言われた(啓1:5-6、5:9、啓7、14、21章、啓19:6)。

 現時代の237カ国で見た数百種の宗教ごとに神様を基準として仕えて信仰すると言うが、事実、彼らが信じる神は、各々異なっている。キリスト教の聖書で見たように、まことの神様がいて、偽物の神様がいると言われた(ヨハ17:3、8:41-44、Ⅱテサ2:4参考)。まことの神様と偽物の神様は、何によってわかる事ができるのか。
 イエス様は、まことと偽りについて木の比喩を通して教えられた(マタ7:15-20参考)。これだけではなく、各宗教の教典を比較して見てこそ、どのものが信用できる証拠があるのかわかる事ができるだろう。約束した預言とその成就がない教典は、信じる価値がない。のみならず、自分の教典に通達していない牧者の言葉も信じる価値がない。各宗教の教典に、昔に、自分の神様が約束されて、成し遂げられた事が何度あるのか。あるいは、ないのか。また、今の私たちが信ずべき約束があるのか。その約束は、どのようなものであり、信じる価値があるのかが問題である。

 「正しく、良くありなさい。」という言葉は、人として備えるべき基本であり、これは約束にならない。人の罪とその罪の遺伝子と、その罪の解決方法と、その罪による死と、人の寿命の低下と、長寿についての説明があるのか。アダムの時代の人々は、約千年近く生きた。しかし、創世記6章で見たように、神様の息子たちが地の娘たちを愛して、一つになる事によってアダムのように肉に戻るようになり、それによって神様が離れて行かれて、人の寿命を120年に定められた。今は、120年も生きられない。なぜ、そうなのか。人の寿命が減って、死があるようになったのは、罪による代価だと教典は話している。寿命が減ったのは、アダムの原罪に先祖たちの遺伝罪と自分の自犯罪が加重されて現れた結果であった。だから、初期のアダムの時の人々よりも今の人の寿命がさらに低下したのであった。

 イエス様がこの罪を赦すために義の血を流されてから2千年が経った。ところが、なぜ、それ以後の人がさらに長寿にならなかったのか。これは、イエス様の血が、約束した啓示録の時にその効力が発生するからである(啓1:5-6、5:9-10、7:9-14参考)。
 今の時は、啓示録の時であり、イエス様の初臨の時の後の教会時代は、先天時代であり、この先天時代は、主の再臨の啓示録の時以前までで終わると記録されている(啓6、13、17、18章参考)。この後には、後天、すなわち、再臨の時代で、その血が効力を発生する時である。啓示録の時になったと同時に、人の寿命が今、徐々に長くなった事も、このような理由だと思われる。
 今日の送旧迎新、啓示録21章の好時節は、四時長春と言うように、長寿する条件が一つ二つではない。この全てが天の努力と恵みでできるのであり、罪悪の一つの時代、すなわち、死の権威者の一つの時代が行って、新しい時代、すなわち、創造主、神様が統治される平和の時代が来るからである。

 この時、宗教がいろいろに存在できるだろうか。先天世界の終末には、全ての宗教が恣意的な判断で腐敗したので、まことの神様の教典ではなく、まことの神様の御心でもない、人間主義的、恣意的な宗教になって、数百の神(神様)、数百の教典と己の主張によって宗教紛争が起こって、殺人魔になった。
 この全ての宗教が神様の御名によってできたと主張している。それでは、神様のものなので、まこと神様の御心によって神様にすべて捧げて、一つの神様の中に宗教の大統合を成し遂げて、宗教紛争がない平和の世界で主、神様に仕えるべきであり、神様が統治されなければならない。これが万古のまことの真理である。
 
 本当に神様の御心通りにする正しい宗教だと主張するならば、もともと神様のものだったので、主人であられる神様にささげ、紛争をなくして、まことの神様の中で、唯一の神様の一つの宗教になろう。
 今の宗教は、神様の御心ではなく、まことの神様の宗教というよりは、悪魔の宗教というほど腐敗して、腐敗した。宗教の間で争って、戦って、殺して、悪口を言って、互いに呪う行為は、悪魔がする行為である。それゆえ、全ての宗教の指導者たちが、自分の宗教を神様にささげて、神様の中で一つにならなければならない。
 もし、自分の宗教は、一つにならないと言ったり、神様にささげないと言う宗教があるならば、それは神様の宗教ではない。自分が神様だという事であり、自分の、個人の宗教に過ぎない。

 初臨の時、選民であるイスラエルの牧者たちが旧約とイエス様の御言葉を信じなかった。そして、その弟子たちとイエス様の母まで他国に追放した。彼らのように、今日も、啓示録22:16の神様が遣わされた使者(牧者)を信じず、受け入れないならば、彼らと何が違うだろうか。
 私は、イエス様の代言の使者として来て、イエス様の御心を受け入れ、平和の使者として諸教会に遣わされた。そして、使徒パウロのように、啓示を受けた事を教えていて、見て聞いた事を知らせている。
 イエス様の御言葉を信じない事は、神様を信じない事であり、イエス様の使者の言葉を信じない事は、イエス様を信じない事である。何よりも、イエス様の預言と成就を信じないという事なので、どうして信仰人と言えるだろうか。

 今、聖書の約束を知っていて、宗教が腐敗したと思うならば、自分の宗教を宗教の主人であられる神様に捧げて、神様の中に戻って、宗教大統合によって生まれ変わって、宗教が神様の中で一つになって、はじめて紛争も、争いもなく、平和の世になるだろう。

 私は、主が諸教会のために遣わされた使者で、地球村の237カ国、約72億の人口のうち、唯一にも聖書と啓示に通達した。世を審判する権威(啓2:17の白い石、マタ21:42-44参考)も受けた。世の人々を死から命に移して、救う食物(啓2:17の隠れたマナ、ヨハ6章のいのちのパン参考)も受けた。天国と神様とイエス様が来られた所も知っている(啓3:12、啓21章参考)。ここに来てこそ、天国と神様に来る者になる。万国が来て礼拝する所も、ただ神様がおられるここ、天国である(啓15:4-5参考)。

 各宗教の牧者たちよ。神様と天国がどこにあるのかを知っていて、正しい道に導いているのか。自分に聞いて見よ。本当に天国と神様と永遠の命を信じるならば、ここ天国に、神様が来るだろう。来る事のできる資格者になるためには、今まで持っていた宝物を全部捨てて、生まれ変わらなければならない。できるだろうか。できない事を言っているのではない。神様と聖書を無視してはいけないし、主の使者を無視してはいけないし、耳を傾けて聞かなければならない。
 私は、このために遣わされた。アーメン。

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