2015년 6월 25일 목요일

背教者、滅亡者、救い主

背教者、滅亡者、救い主



本文:Ⅱテサ2:1-12(マタ24章、啓13章、ヨハ5:24-29)



 背教者は、どんな者であり、誰から、なぜ、背教したのか、滅亡者は、誰を滅亡させたのか、救い主は、誰をどこからどこに救い出すのか。



 聖書が語った聖句の中には、まことの神様(ヨハ17:3)がいて、にせものの神様(Ⅱテサ2:4、エゼ28章参考)がいる。まことの神様と偽り(にせもの)の神様について、聖書の知識(ホセ4:6)がある聖徒は、その行いを見て(マタ7:15-27参考)区分して、わかるようになる。

 問題の背教者は、ユダの手紙に言われたように、神様の中に属した聖徒がアダムのように、にせものの神様の牧者(蛇)の言葉に惑わされて、その言葉を信じて従う者である。そして、これを背教者という事は、背教〔背道:背中の背、教えの道〕という言葉の意味のように、初めの神様の御言葉に背を向けて去って行った者を言うのである。御言葉の意味を悟れなければ、自分が属している所が、どんな所なのか、わからない。教会だと言ってみんな同じ教会ではなく、牧者だと言ってみんな同じ牧者ではない。教会だけ行ったり来たりしたと言って、救われるのではない。聖書には、私たちを救いに至らせる、神様が約束された教会と牧者がいる。



 問題の滅亡者は、誰かを滅亡させたから滅亡者と言う。聖書が言う滅亡者は、神様の聖徒と国を、マタイの福音書24章と啓示録13章のように、滅亡させた者を指して言う言葉である。旧約と新約で見た神様の国と聖殿と聖徒は、ユダとエルサレムの聖殿と聖徒たちであり、これを滅亡させた者は、バビロンであったので、バビロンは、悪霊の国と住まいである(啓18章)。アダムを惑わした者が蛇であり(創3:1)、エルサレムの聖なる聖殿を主管する牧者が蛇であった(マタ23:33)。この蛇は、すなわち竜であり、サタンで、悪魔だと言った(啓12:9、20:2)。



 神様の神と悪魔の神がいて、この神が入った人がその神の家であり(Ⅰコリ3:9)、神の言葉を代言する牧者である。よって、その牧者の言葉が、すなわちその神であり、その神の言葉なのである。その神のことばを信じて、受け入れる事が、その神を受け入れる事である(ヨハ10:35参考)。



 マタイの福音書24章と啓示録13章に、神様の幕屋聖殿を滅亡させた者が蛇、すなわち竜と竜の牧者たち(七つの頭と十本の角)であった。野の獣のうちの一つである蛇(竜)も、神様が創造されたものであるが、エゼキエル28章のように、背教して、自分が神様になろうとした者である。万物を神様から自分のものとして服従させる働きが、まさに背教させる事であり、神様の所属の聖徒を滅亡させる事であった。

 事実が、こうなので、霊的にも、肉的にも対立的な戦争が起こるのであった。こうして、負けた者と勝利した者がいるようになって、負けた者は、全てのものを奪われて離れるようになり、勝利した者は、全てのものを持つようになると申命記28章に記録されている。こうして、神様の最後の働き、啓示録には、「勝利した、負けた。」と言う言葉があり(啓12章)、勝利しなさいと願われた御言葉が七度もあり、勝利すれば祝福を与えると言う約束がある(啓2、3章)。



 使徒パウロが第二テサロニケ2章に願われた御言葉は、まず背教が起こり、滅びの子が現れる前には、救い主であられる主が降臨されないので、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしてはならないと言われた。新約聖書のマタイの福音書24章や、啓示録全章の事件を見ても、まず惑わしの働きがあり、選民が主に背教する事によって敵に滅亡された後、主が来られて滅亡され、捕らわれた神様の民、すなわち民族をそこから救い出す事(啓17:14、啓18:4-5)があるようになり、これが、すなわち救いの働きである。



 前で言ったこの事件が、新約聖書の四福音書と啓示録に記録された背教、滅亡、救いの事件である。約束として記録されたこの預言の御言葉通り、必ず、成し遂げられるので(イザ14:24参考)、この御言葉を加減してはならない。また、この御言葉の意味を悟れなくても救われないし、かえって試みに落ちて、敵の側になって、救いの働きを妨害する者になる(マタ24:9-11参考)。



 人々がいわゆる自称正統教団(実は正統ではなく、伝統教団であるのみ)を信じるだろうが、聖書に語られた終末と世の終わりという言葉は、自称正統教団の終末を言ったのである。これは、啓示録13章と18章で見たように、万国がサタンの不品行のぶどう酒によって倒れたと言った。これが世の終わりであり、万国、すなわち、全ての宗教(キリスト教)の世界は、サタンの所有になったのである。

第二テサロニケ2章で、背教、滅亡の後に、救い主が来られると言った事も、初臨の時と同じなのである(マタ11:11-13、マタ23章、ルカ16:16、17:22-30参考)。滅亡されたという事は、先天のキリスト教が終わる事を言ったのである。背教者は、記録された背教の働きを全てするだろうし、滅亡者は、記録された滅亡の働きを全てするだろうし、救い主は、背教、滅亡の事件の後に来られて、記録された救いの働きを全てするだろう。こうして、新約に約束したその御言葉の意味を本当に知っている者は、そのする働きを見て、誰が背教した者なのかがわかるだろうし、誰が背教させて、滅亡させた働きをした者(滅亡者)なのか、わかるだろうし、このような事件があった後、救い主が来られて、どこに、どんな形に、捕らわれている者たちを、どんな形に(預言された通り)救うのかを見る事によって、彼が救い主である事がわかるようになる。



 初臨のイエス様がエルサレムに来られる時は、すでに滅亡者がエルサレムを占めている時であった。ヨハネの福音書5章24節から29節までのように、墓、すなわち死の場所であるエルサレム(マタ23:27)からイエス様のあかしの御言葉を聞いて、そこから出て来た者たちが、死から命に復活して出て来た者たちであった。このように、新約の啓示録17章、18章に、神様の選民たちが捕らわれている竜の国バビロンが死の場所であり、このバビロンから救い出された者たちが、死から命に出て来た者になって、死んだ霊が再び生きる、いのちの復活に出て来たのである。よって、これが救い主が来られてする働きである。それゆえ、盲人になって、約束の御言葉、聖書を見ても悟れないという事は、その霊が死んでいるからである。悟る者は、死から命に出て来るようになる。

 これが末世の事件であり、啓示録の約束である。



 末世に救われようとすれば、自分の牧者を信じて従うのではなく、約束の御言葉を信じて従わなければならない。



 論じ合って、本当の事を悟って、神様に感謝しよう。アーメン。

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