2014년 12월 31일 수요일

罪と義に対する審判者

罪と義に対する審判者
(本文:啓20:12)


罪と義に対する審判は、誰がするのか?
マタイの福音書19:27-30に、ペテロの質問にイエス様が答えられ、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と言われた。また、イエス様がヨハネの福音書12:48には、「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終りの日にその人をさばくのです。」と言われた。また、ヨハネの福音書16:8-11でイエス様は、「その方(イエス様の名で来られる真理の御霊、保恵師)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りをみとめさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」と言われた。
啓示録20:12-15には、「死んだ者たちが、大きい者も、小さい者も、書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」と言われ、20:4には、「多くの御座を見た。その上に座った彼らにさばきを行う権威が与えられた。」と言われた。そこに座った者たちは、もちろん、神様であられ、その息子イエス様であられ、その弟子12支派長である。

モーセは、法が記録された石を受け取って審判して、勝利されたイエス様も生ける石として審判された(マタ21:42-44、Ⅰペテ2:4)。啓示録2章の勝利者も、イエス様から白い石を受けたので、これは審判する権威を受けたのである。前で見たように、神様の御言葉で審判すると言われたので、石は審判する権威である。そして、審判者は、印を押された十二支派長である。さらには十二支派の印を押された144000人が祭司長であり、審判者である。それゆえ、印を押されない者は、支派長にも、祭司長にも、審判者にもなる事ができないという事である。
もちろん、イギンジャは、あかしする言葉とイエス様の血で勝利したので、霊的新しいイスラエルになって、十二支派を創設して、白い石をイエス様から受け取ったので、審判者であり、イギンジャを通してなった十二弟子、すなわち、十二支派長も殉教したイエス様とその弟子たちと一緒に審判者になる。
世でも六法全書に通達した者が判決する裁判官に任命される。まして、神様の国では、天の法である聖書全書に通達した者であってこそ、その御言葉で審判する事ができるのではないだろうか?その理由は、主が語られた御言葉(ヨハ12:48)と、この御言葉である本(聖書)で審判すると、啓示録20:12に明示されている。もし、審判者が聖書に通達できなければ、審判する資格があるだろうか?それゆえ、白い石を受けたイギンジャである霊的新しいイスラエルは、実力者を、審判する支派長に立てて審判を任せるようになる。

私たちは、新約に約束された審判者である。任された使命を果たそう。このために祈る。人類最高の真理、最高の聖君になろう。私たちは、天の裁判官である。肝に銘じよ。私たちは、イエス様のように、神様の種で生まれた御言葉体になろう。そして、主に仕え、永遠に共に生きよう。
父なる神様、助けて下さい。信じます。アーメン!

2014년 12월 30일 화요일

三種類の人

三種類の人


―神様の種で生まれた者、悪魔の種で生まれた者、未信者―

(本文:啓21:8(創6:1-3))




三種類の人は、各々どんな者であり、私は、この三つのうちのどこに属するのか?

世には、いろいろな宗教があり、未信者もいる。神様が天地を創造されて、生死禍福が神様からあるという事は、全ての宗教が一致して考えている。

しかし、彼らの経書と行動は、各々違う。それゆえ、死後の世界で祝福を受けるという内容と、現世で祝福を受けるという内容も互いに違っている。これは、いろいろな経書の神がみんな異なる神だという事になる。では、どんな宗教が一番完全な宗教なのか?これは、各宗教人たちの経書を照合して見なければならない。もう一つは、自分の宗教の経書に通達する宗教人は一人もいないという事である。知っている事と教える事は、自分の判断、恣意的な考えで世の中に従って、人の戒めで教えている。

経書の系図や流れを見る時、果たして、自分が信じる宗教の創始者が神様から何パーセントくらい聞いて見た事を記録したのか?

キリスト教の聖書を見ると、どの時代の、誰の息子で、どの時からどの時まで、何年間聞いて見た事を、何章何節に記録したと言い、このように聞いて見た預言者が数十名いて、神様は、各々に将来の事の一部を知らせて下さって、彼らの事を総合すると、預言した実体がいつ、どこで、誰によって、どんな事の後、現れるのかが出ている。しかし、このような内容(預言)は、聖書の一部であった。

キリスト教の聖書(旧・新約)といろいろな宗教の記録を見ると、約束した預言と成就に関する内容が見えず、結論もなく、一般的な内容に過ぎない。また、約束が成就された事があってこそ、信じる心があるのである。イスラム教の経書とヒンズー教の経書と仏教の経書も、預言とその成就に関するものは、一部に過ぎず、キリスト教のアダム・ノア・アブラハム・イエス様についてのあかしも一部に過ぎず、キリスト教の新約の啓示録に対しては、そのあかしした事が「あまりにもない」というほどである。宗教の結論は、啓示録に結論が出て来るようになっている。しかし、このような預言と成就がなければ、何を望んで経書を信じるのか?

人が善良で、善行を行うという事は、信仰の基本であって、預言にも、成就にもなれない。このような事が現れる時、すなわち、これを成し遂げる時、見て信じなさいという(ヨハ14:29)約束があってこそ、その約束を信じて、信仰する事ができる。何の約束も契約もなく、何を信じなさいというのか?

経書を通して神様の御心を本当にするならば、また、天の啓示があるならば、仏教もすでに昔、すなわち、2千年前に終わらなければならないし、キリスト教の先天であるカトリックも新約の啓示録が成就されたこの時は、終わらなければならない。終わらないと言って、終わらないのではない。神様の御心とされる事があるので、終わるのである。仏教のように(2千年前に終わらず)今まで延長させたと言って認められるものではない。

各宗教は、善良で良い行いをたくさんして、献金をたくさんして、奉仕をたくさんすれば、極楽・天国に行くという神の信仰をして来た。極楽と天国は、どこにあるのか?道は、天国を探して行く道である。そして、「創造主、神様がどこにおられるのか?」と聞くならば、どこにいると指摘できない。患難の時の避難所がどこにあるのかも見えない。そうしながら極楽・天国に行くと言い、忠誠、奉仕しなさいという言葉自体が合わない。生きて目が覚めていても行かれない天国を死んだ者が、どのように探して行く事ができると言うのか?宗教を立てて、人々をだまして、私欲を満たす事は、地獄を自ら招く行為である。

キリスト教の経書は、神様と天国がどこにあるという事を、詳しく知らせていて、避難所も、死んだたましいたちが行く所も、目で見る事ができるように詳細に伝えている。それだけではなく、この世に誰が来て、どんな事をするのかと、天国に導く人が、いつ、どこに来るのかも、詳細に知らせている。

自分が信じて、参考にしている宗教と経書が、本当に信じるくらいなのか、自分の宗教の経書と違う宗教の経書と照合して見なければならない。盲従になって、無条件、人の言葉だけ信じて従うおろかな信仰は、地獄に行くしかない。宗教と言って、みんな宗教ではなく、牧者と言って、みんなまことの牧者ではなく、経書と言って、同じ経書ではなかった。無知、無識な者が、どうして天国に導けるだろうか、自分もわからないのに。

宗教と宗教人(信仰人)は、二種類がある。まことと偽りの二種類である。これは、神が二種類だからである。悪魔の神による宗教と、まことの神様による宗教がある。そして、まことの神様による宗教の信仰人(神様の種で生まれた者)と、悪魔による宗教の信仰人(悪魔の種で生まれた者)がある。もう一つは、肉体にあって宗教をしない不信者である。不信者は、天国に入る事ができないが、偽りの宗教人よりは善良だと思う。その理由は、偽りを教えて、お金をもらう事がないからである。これが三種類の人である。

二つの教団が争う事は、同じ神と道ではなく、同じ宗教の信仰ではないからである。これは、神様と悪魔との戦争と見なければならない。しかし、宗教人は、不信者とは、戦わない。その理由は、不信者は、神を持っていないからである。

天国は、まことの神様の同を完全に悟って、信じて、その御心通りした者だけが行く事ができる。神様の実心もわからないのに、形式的な信仰をする者は、無駄骨を折ることになる。昔も今も、まことの信仰をする人は、悪魔の信仰人に迫害されるようになる。これによってまことの信仰人と偽りの信仰人をわかるようになる。審判の時は、迫害される人は天国に、迫害する者は地獄に行くようになる(啓21:8参考)。これは自分の行いによって聖書に記録された言葉で審判されるのである(啓20:12)。

誰でも神様の種と聖霊で再び生まれてこそ、天国に入る事ができる。アーメン!

2014년 12월 29일 월요일

God’s World of Peace

God’s World of Peace


 Main Reference: Isa 52:7 (Lk 2:14; Lk 19:38-42; Rv 19:6)

What is the difference between the world of peace that God created in the beginning, the world after Adam’s transgression, and the world of the New Testament at the Second Coming that God purposed to recreate?

The world that God created was heaven, a world of peace and paradise.  Through the light of heaven (sun), rain (healing), and air (breath of life), the creation of the heavens and earth blossomed with laughter.  It was a world abundant with grace and songs of praise.  All things in the universe were beautiful and splendid, and the entire earth was a nation of love and peace.

There was someone among the creation that God had made who, one day, betrayed God out of his greed to become God.  Such event is explained well in Ezekiel 28.  This being deceived Eve and Adam and caused them to betray, thereby making all creation his possession.  As a result, all creation in heaven and earth was cursed—heaven changed into a world of wickedness.  The world that we know of today is that same world of wickedness since the time of Adam.  As a matter of fact, this world has been reigned not by God, but by Satan, the cherub that betrayed.

God lost everything.  He left the world and remained afar (Gn 6).  He sent messengers in every generation to make Himself known, the true God, and to reveal Satan’s identity, but to prevent this from happening, Satan killed every messenger whom God sent.  Such wickedness took place repeatedly in this world the past 6,000 years.  Heaven, the world of peace, turned into a world of tribulation, suffering, and death; the earth and all creation changed for the worse.  Instead of the rightful Owner, Satan has been ruling over all as the king.

Therefore, this world must be restored.  It must be restored to its original form.  It must be restored to a world of paradise with no grief, suffering, groaning, or death—a world of peace and a world of love.  “For the creation was subjected to frustration, not by its own choice […] in hope that the creation itself will be liberated from its bondage to decay and brought into the glorious freedom of the children of God.”  If the world of 6,000 years of evil ends, and our Father God who created us finally reigns, and if we are found within His love, then what more can we ask for?  Because there is now victory in both heaven and earth, Satan lost his place.  He is captured and will be locked up in the fires of hell, and with him will be his false prophets and pastors. This takes place in the era of the New Testament fulfillment.

It is written in Isaiah 29:9-13 that the pastors taught only men’s commandments, because they did not understand the word of God of the Old Testament that was sealed.  Likewise, it is also written that no one in heaven or on earth or under it can understand the sealed scroll of the New Testament.  Thus, the pastors of the world today have added and taken away from God’s word (Rv 22:18-19).

Like the time of Jesus’ First Coming, when those who were ignorant of the Bible called Jesus a heretic, those who are ignorant of the Bible today in the era of the New Testament ruled out Shincheonji as a heretic and declared a war.  Just as one can recognize a tree by its fruit, one can recognize the army of Satan by its actions.  However, Shincheonji is not affected in the slightest. We are circumnavigating the world many times declaring world peace and the cessation of war.

There is love and peace when Satan, the one had been controlling the hearts of men the past 6,000 years, finally leaves and God the Creator comes into their hearts and cleanses from all filth.  There is love and peace when He plants His own heart and rules over their hearts.  People are like buildings and fields.  When Satan leaves, God plants His seed which grows into a tree for His spirit to come and perch like a bird, singing songs of peace and songs of love.

Regardless how much the previous era stubbornly resists, it comes to an end, and the new era dawns as promised in the New Testament.  This is the era of Shincheonji.  Calling Shincheonji a heretic is calling Jesus a heretic.  The reason people insist on the old and obsolete era is that Satan’s spirit is in them.  It is recorded that God and heaven will come to Shincheonji, and when such era comes, the previous era will pass away (Rv 21). This is why the pastors of the previous era are showing signs of jealousy and envy, for they received the spirits of the devil.  Their actions of hatred and curses prove that the evil spirit is in them.

Because God of peace comes and reigns this world as He promised, this world becomes the world of peace.  This is the restoration of God’s kingdom to its original form, as it was at the time of Creation.  It is the new kingdom of heaven that God comes to for the first time in 6,000 years (Rv 3:12).  This is the promise and the coming of heaven that had been prophesied for all to believe.  The new kingdom that fulfilled according to this prophecy bears 12 crops of fruit and the leaves are for the healing of the nations (Rv 22:1-2).  The birds come and sing.

Amen!


 
SHINCHEONJI: Healing All Nations

http://cafe.daum.net/scjschool/E3qZ/619

2014년 12월 28일 일요일

神様の平和の世界

神様の平和の世界



(本文:イザ52:7(ルカ2:14、ルカ19:38-42、啓19:6))



神様が初めに創造された平和の世界と、アダムが罪を犯した後の世界と、神様が目的とされる再臨の新約の世界は、どのように違うのか?

神様が創造された世界は、平和と楽園の世界、天国であった。天の光(太陽)と雨(蘇醒)と空気(生気、命の息)で天地万物が笑顔の花を咲かせ、歌を歌う恵みの世であった。天地万象が美しく、華麗であり、愛と平和の国、地球村であった。

ある日、神様が創造された被造物のうちの一つが、欲によって、自分が神になろうと、神様に背教した。これは、エゼキエル28章を見ると、わかるだろう。この者がエバとアダムを惑わして、背教させる事によって、万物まで自分の所有にして、これによって、天地が呪われて、天国が悪の世に変わった。悪の世が今までのこの世である。そして、この世は、事実上、神様ではなく、背教したケルブ、サタンが統治して来た。

神様は、全てのものを失って、世を離れておられ(創6章)、神様は、時代ごとに使者を送られ、まことの神様を知らせ、サタンの正体を明らかにする事で、サタンは、これをさせないために神様が遣わされた使者を殺して来た。このような世が繰り返し、繰り返し、6千年間流れて来た。天国の平和の世が患難と苦痛と死の世界に変わり、地と万物も変わり、主人ではないサタンが王となって来た。

それゆえ、再び回復しなければならない。昔の姿通りにという事である。悲しみも、苦しみも、嘆きも、死もない楽園の世界、平和の世界、愛の世界に回復しなければならない。万物が嘆くという事は、虚無に屈服したからであり、その願う事は、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる事である。

6千年の世が終わって、私たちを創造された父なる神様が統治されるならば、その愛の中にいるならば、何をもっと望むだろうか?今は、天と地で勝利したので、サタンは足を着く所がなくなった。サタンを捕らえて閉じ込めて、偽りの預言者、すなわち、悪魔の牧者もサタンと共に地獄の火の池に閉じ込められるようになる。この時が新約の成就の時である。

旧約の神様の封じられた本の御言葉をわからず、当時の牧者たちが人の戒めでだけ教えて、イザヤ29:9-13に記録されたように、新約の神様の封じられた本の御言葉も、天上天下に知る者がないと言った。今日、世の牧者たちが全てを加減したのである(啓22:18-19)。

イエス様の初臨の時も、聖書に無知な彼らがイエス様を異端だと言ったように、新約時代である今日も、聖書に無知な者たちが新天地を異端だと決め付けて、戦争を仕掛けた。その実でその木をわかると言われたように、サタンの兵士たちの行動をわかるだろう。しかし、新天地は、動じず、戦争終息と世界平和を叫び、世界一周を何度もしている。

人の心を6千年間、主管したサタンが離れて、創造主、神様が心に来られて、きれいに掃除して、神様の心に蒔いて、主管される事によって、愛と平和があるようになる。人は、家のように、畑のように、サタンが離れて、神様の種を蒔いて、その種が育って、木になると、神様の霊が来られて、鳥のように巣を作られる。平和の歌、愛の歌が出て来る。

いくら固執しても終わって、新しい時代が新約の約束通り到来した。すなわち、新天地時代である。新天地を異端だという事は、またイエス様を異端だと言うことだろう。古い旧時代に固執して、新天地を嫌うそれ自体が、その霊がサタンの霊だからである。記録されたように、神様と天国が新天地に来られると言われ、この時は、以前の時代が終わると言ったので(啓21章)、これ以前の牧者たちが悪魔の霊を受けて、うらやみ、嫉妬する行動をするのである。憎んで、悪口を言うそれ自体が自分たちの中に悪霊がいる事を見せる行動である。

平和の神様が約束通り来られて、統治される事によって、統治されるこの世が平和の世界になる。これが創造本来の神様の国の回復であり、神様が6千年ぶりに臨まれる新しい国、天国である(啓3:12)。これが約束であり、信じなさいと預言した天国が到来したのである。預言が成就された新しい国は、12種の実を結んで、その葉は万国を蘇醒するようになるので(啓22:1-2)、鳥たちが来て、歌を歌う。アーメン!

2014년 12월 27일 토요일

新しく生まれた天民

新しく生まれた天民



(本文:ヨハ3:1-6)


イエス様は、ご自身の血で私たちを罪から解放され、国と祭司長にされた(啓1:5-6、5:9-10)。

神様が共におられる子イエス様が「人が水と御霊によって新しく生まれなければ神様の国に入る事はできない(ヨハ3:5)。」と言われた。なぜ、水と御霊によって新しく生まれなければ、神様の国、天国に入れないのか?

水と御霊で新しく生まれるという事は、何を言ったのだろうか?

創世記6章の神様の子どもたちも、創世記3章のアダムとエバも、神様の生気(命の息)を受けて生霊(生きもの)となった神様の神の子孫であった。神様であられる初めの御言葉が神であり、神の生気によって、御言葉を受けた人を神と言われたのである(ヨハ10:35)。神(神の子孫)である人にサタン(蛇)が蛇の毒であり、まむしの悪い毒である実を食べさせる事によって人が本来の姿であるちりに戻った(死、申32:33)。

毎月、12種の実を結ぶ命の木は、神様とイエス様であり(ヨハ15:1-5)、死の毒が出て来る善悪の木は、蛇、すなわち、竜とバビロンのサタンの牧者であった(ダニ4章)。

もし、神の子孫である神様の子ども、アダムが善悪の実を食べなかったならば、再び、ちりに帰らなかっただろう。アダムが罪を犯した後、地上の人々は、死の毒を食べたアダムの遺伝子で生まれた者たちなので、全てがアダムのように土に帰った(創3:17-19参考)。天地万物もアダムによって、結局は、土に戻った。

仏教の釈迦も、故イビョンチョル氏も知りたかった生老病死の理由も、これであった。死と苦痛の罪から解放させる事のできる薬は、ただ、イエス様の血であった。それゆえ、釈迦が聞いて悟った事は、救い主イエス様であり、500年後、イエス様が来られるならば、自分が教えた事は、油のないともしびに過ぎないと言ったのである。

2千年前、イエス様が血を流されたが、人類世界は、今まで死と苦痛がなかった事はなかった。なぜ、血の効力が現れなかったのか?血を流されたイエス様と、その弟子たちが伝えた福音は、再臨の時、血の効力があるようになる事を啓示録と四福音書に約束しているが、今まで隠されていた。この全ての事は、真理の聖霊保恵師が来て、知らせて下さることを約束された(ヨハ16:25)。

約束のその日、啓示録の時には、すでに啓示によって知らせて下さったように(啓6、13章参考)、カトリック教の一人の預言家も、「彼が生きた12世紀初半以後、112番目の教皇の時までに先天世界、カトリック教の福音時代が終わって、新しい時代が開かれる」という事を預言したと言った。釈迦の仏教のように1) 、カトリック教をさらに延長させないで、天の啓示の御言葉を守って、聖徒が祝福を受けるようにしなければならない。そして、教皇自身も時に従って新しく生まれて、天民になる事に力を尽くしてこそ、救いがある。事実を話そうとすれば、教皇は神様とイエス様である。そして、カトリック教で聖職者に神父と言い、父、すなわち、お父さんという呼び名を使うが、事実、父は神様であられる。

ひよこを見て、遺伝子の形と行動を知ろう。孵化したひよこは、雄鶏と雌鳥の姿に似ていた。孵化してから3日もたたないのに、その両親である鶏の行動をする。水を飲む姿も、足で地面を掻いて餌を探して食べる事も、親鳥の行動をする。互いに戦う練習など、親の遺伝子で生まれたので、同じ行動をする。

犯罪者、蛇とアダム・エバの遺伝子で生まれた人も、その姿、その形の行動をするのであり、その遺伝の血によって犯罪を犯させるのである。背教と不法でできた人が口では信じると言って神様の御心通りにするだろうか?6千年の罪悪の歴史が証明している。それゆえ、再び生まれなければならない。神様の種と神様の霊で再び生まれなければならない。肉で生まれたものは肉であり、霊で生まれたものは霊である(ヨハ3:1-6)。

サタンの霊が肉体の中で人を動かすと言っても、神様の種、霊で再び生まれてこそ、天民になって、神様の家族として天国に入る事ができる。

神様の種と霊で生まれた者の行動(実)と、悪魔の種で生まれた者の行動(実)によって、その木、すなわち、牧者をわかると、マタイの福音書7:15-20に記録した。この牧者が木であるならば、自分自身は、どの木の実なのか、わからなければならないだろう。わかる事のできる方法は、新約の約束された御言葉でわかるようになる。

罪の種と罪の霊で生まれたので、再び神様の種と霊で生まれてこそ、天国に入る事ができる。神様の種と霊で生まれた者は、神様の御言葉の意味を知って、サタンの種で生まれた夜の子どもたちは、神様の御心も、約束もわからず、信じもしない。

私たちは、神様の統治と平和を約束して成し遂げていて、敵対する者たちは、戦争を宣布して、不法を犯している事を見る、その通りである。戦争と患難を遺産として残すのだろうか?戦争を終息させて、平和を遺産として残すのだろうか?

後天の新しい時代を開く我が新天地は、神様の御心に従って平和の世界を成し遂げ、私たちの神様、父が統治される事を感謝している。地上の全ての人々が私たちのように新しく生まれて、神様の御心と国に共におられる事を祈っている。

1)仏経に、「イエス様が来られるならば、釈迦の道(仏教)は、油のないともしびのように使い道がなくなる。」と言ったというが、2千年が過ぎた今でも、仏教は続いている。

2014년 12월 26일 금요일

教会の終末、世の終りと収穫と平和

教会の終末、世の終りと収穫と平和


(本文:マタ13章(イザ52:7、ルカ2:14、19:38-44))



教会の終末である世の終りと収穫と平和は、各々何を意味するのか?

神様は、旧約聖書に平和を約束されて、初臨のイエス様が来られて平和の働きを知らせたが(イザ52:7、ルカ2:14、19:42)、肉的イスラエルの牧者たちは受け入れず、迫害に迫害を加えた。これにイエス様は、彼らに「(再臨の時)あなたがたの家、すなわち、教会が石が一つもなく倒れて、捕虜になって、滅亡するという事」を知らせた。マタイの福音書24章と啓示録13章と18章にこの事実を詳しく知らせた。

この時、神様の種で生まれた者たちを収穫して、印を押して、神様が統治される事を啓示録19章に知らせて、この時をノアの時のようだと言った(マタ24:37-39、ルカ17:26-30)。選民アダムの世界が極度に腐敗した時、ノアを立てて、アダムの世界を掃き捨てた(創7章)。このように、イエス様の再臨の時も、霊的イスラエルが蛇のぶどう酒であり、善悪の実の酒である不品行のぶどう酒を飲んで、 極度に腐敗して、万国が倒れて、蛇の毒である不品行のぶどう酒で商売をして、金持ちになって、サタンと結婚する光景が啓示録13章、17章、18章に詳しく記録されている。ルカの福音書19章のイエス様の平和の働きを受け入れなかった彼らの刑罰についての預言が、今日、応じたのである。

イエス様は、初臨の時、旧約のイザヤ52章7節の預言通り成し遂げられなかった平和の世界を、再臨で再び成し遂げられる事を約束されて、再臨の時、来られて、それ以前の世界をまず審判されて、初臨以後、種を蒔いて来た畑から穀物を収穫して、創造した国を父なる神様が統治するようにされるのである(啓6,7,14章、啓19:6)。この働きを誰が阻むだろうか?

主が約束通り平和の使者、代言者を探して立て、これを諸教会に伝えさせられた(啓22:16)。韓基総は、また戦争を宣布したが、主が遣わされた代言の使者は、主の御心を受け入れて、全世界に平和を伝えている。この働きが、イエス様がエルサレムで語られた平和の働きである(ルカ19:38-44参考)。

今日、諸教会が終末になった事は、ノアの時のように腐敗する事によるのであり、神様の種を探して、印を押す事は、神様の新しい国、天民を探して印を押す事である。

聖書で天国と永遠の命を得るために信仰をして、神様に行くためにするのが信仰の目的であるが、死んだ者であれ、生きている者であれ、ただの一人も天国と神様に行った者がなく、主の中で死んだ者は、神様が再び来られる時、連れて来られるようになり(Ⅰテサ4:14)、この地で神様の種で生まれた者は、収穫して、連れて来られるようになる。死んだ者も、生きている者も、自ら来るのではなく、連れて来られるのである。

偽りの牧者の「天国に行く、天国に行った。」という言葉は、自分の言葉であり、偽りの言葉で、だます悪魔の言葉である。聖書は廃す事ができない(ヨハ10:35)。

神様と天国はどこであり、死んだ者と生きている者が行く所はどこなのか?そこは、啓示録3:12の通り成し遂げられた所である。

新約聖書が約束した主の再臨は、ノアの時のアダムの世界のように、イエス様の初臨の時の肉的イスラエルのように、先天の世界が背教によって滅亡された後、あるようになる。教会の牧者たちが聖徒たちをだまし、自分たちが滅亡されて、終末になる事を、世の人々の終末だとだましているが、聖書が言った世の終りは、教会の終末を言ったのである。

アダムの世界が神様の御言葉を信じず、蛇の言葉を信じて、神様に背教する事によって神様が創造した世は、蛇の世になって、悪魔が6千年間、世を統治して来た。しかし、今日、啓示録の時、すなわち、主の再臨の時を迎えて、サタンが捕らわれて、縛られて、底知れぬ穴に閉じ込められるので(啓20:1-3)、この時から創造主、神様が統治される世界が到来するのである。

今日、新天地の平和の世界に来ない者は、苦痛の中で生きて終わるだろうし、平和の世界を味わえない者たちになる。偽りの牧者の言葉をアダムのように信じたので、偽りの牧者に従って共に底知れぬ穴に入るだろう。ここが地獄である。

神様の約束の御言葉を信じる者は、約束の新しい国、新天地、天国に来るだろう。牧者と聖徒に聖霊が共におられるならば、天の深みにまで至るだろう(Ⅰコリ2:10)。これをわからない者は、自分から聖霊が離れて、肉体だけである事を知って、自ら悔い改めて、聖霊を再び探さなければならない。

聖霊がない者たちが知っているものが何なのか?悪口をして、のろって、迫害する事以外に何があるのか?どうして、自分を見ないのか?聖書の鏡に照らしてみよ。見えるだろう。

神様の種で新しく生まれず、収穫されず、印を押されず、啓示録を加減して、約束の国、12支派に属さず、命の本に名が記録されないので、どうして天国に行けるだろうか?

教会の滅亡、すなわち、死から、また善悪の実である不品行のぶどう酒から命、すなわち、命の木に移ってこそ、救いがある。ここで復活があるようになる。アーメン!

2014년 12월 25일 목요일

韓国教会と腐敗

韓国教会と腐敗


(本文:マタ24章(啓2,3章、6章、13章、18章))



新約聖書の神様の預言は、いつ、どこで、どのように成就されるのか?新約の預言は、2千年が過ぎた今日、大韓民国で成し遂げられた。

旧約は、預言してから約600年が過ぎて、イエス様の初臨の時、肉的イスラエルで成し遂げられた。神様とアブラハムとの約束は、約束通り異邦のエジプトから4代目を経て、モーセの時、成し遂げられた。

このように、新約も成し遂げられて、再臨の時がノアの時、ロトの時のようだという(ルカ17:26-30)御言葉通り成し遂げられたのである。聖書(旧約)のノアの時、ロトの時を見てわかる者は今日の働きも推察するだろう。しかし、盲人の信仰人は、見てもわからない。霊的盲人と死んだ者が、どうしてこの働きをわかるだろうか?

創世記3章のアダムとエバも、6章の神様の息子たちも地のものを愛する事によって肉体になって、土に戻った。ノアの時もロトの時も今日も、肉、すなわち、地に属した者たちが、どうして天の預言の成就をわかるだろうか?神様は、天に属さない者たちには天、すなわち、天国の秘密を隠されて、天に属した者たちには、はっきりと知らせてくださった(マタ13:10-17)。今日もそうである。

今日も、その昔のように、宗教的な一つの時代が終わる時であり、新しい時代が創造される時である。これは、ノアの時も、モーセの時も、イエス様の初臨の時もそうであり、今日もそうである。しかし、聖書の外で信仰する者が、どうしてこれをわかるだろうか?聖書の歴史の中で見たように、アダムの時も、ノアの時も、モーセの時も、イエス様の初臨の時も、彼らは、自分たちの腐敗をわからず、自分たちが聖であるとだけ思っている(ヨハ8:31-51)。今も、地球上の牧者たちも信仰人たちも、聖書に通達していないのに、天の啓示を受けてもいないのに、自分たちが聖であると思っていて、自分たちの所属でなければ、異端として罪に定めて、孤立させる。

このような事がアダムの時から今日に至るまで繰り返して来て、先天と後天があり、後天は先天が腐敗する事によってあるようになったのであった。これを第二コリント6章14-18を通して調べてみる。

(Ⅱコリ6:14-18)不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

旧約も成し遂げられる時があり(ヨハ19:30)、新約も成し遂げられる時がある(啓21:6)。初臨の時もモーセの律法の時代が終わって、天の福音の種を蒔かれて、再臨の新約の時代は、種を蒔いた畑(教会)に行って収穫して、印を押して、神様の新しい国を創造する時である(啓14:14-16、7:1-8、21:1-7)。このように、後天があるようになるのは、先天の腐敗によるものであった。

新約は、再臨の時の教会時代が終わる事を啓示録6章と21章で知らせて下さっている。しかし、腐敗によって啓示も聖書も通達できない信仰人が、どうして新しい時代をわかるだろうか?腐敗によって盲人になって、耳しいになって、天の門が閉じられたので、どうして啓示があって、これをわかるだろうか?

新天地イエス教と韓基総のその信仰を診断してみる。

韓国キリスト教言論協会フォーラム(第7回 キリスト言論フォーラム、2008.4.24)で明らかになったように、韓基総の根は、長老教であり、長老教の根は、殺人者カルヴァン教である。カルヴァン教は、イエス教と見る事はできない。

韓基総長老教は、ソロモンのように(Ⅰ列11章参考)、日帝時代に日本の天皇の神に拝んで、賛美した。啓示録13章のようにという事である。これに対するあかしは、高神派である。[*高神派は、日帝の時、神社参拝に反対して、大韓イエス教長老会から分かれ出た教派である。]

韓基総は、神様が語られた愛と赦しと祝福を行なわず、呪って、悪口を言って、迫害して、戦争を宣布した。新天地は、愛と祝福と赦しを行なって、戦争終息と平和を宣布している。どれが救いであり、平和なのか?

韓基総は、金権選挙をして、会長の席をお金で売り買いして、牧師按手も、お金を渡せば受ける事ができる。これが天がくれた真理なのか、悪魔の行動なのか?これによって韓基総が二つの金基総(お金を好む韓基総がお金で分かれた)になって、新しい金基総になり、今や、互いに異端だと言うので、これが正統であり、光なのか?本当に、どれが異端なのか?

チェサムキョン、チョンドンソプ牧師の共同会見(国民日報2014年5月26日付)によると、救援派のユビョンオンのお金を受けた教会の人士がいるという。教界新聞K社の発行人K牧師とH団体代表会長(K長老)、某中小教団の総務L牧師、教界新聞C社のL局長など、4名が、2004年からユ氏から定期的に金品を受けて来たと暴露した。L牧師は、「私を含む四人がユ氏から金品を受けた事は事実」だと言った。これが韓基総のお金の風である。第一テモテ6:10を見たか?

韓基総は、イエス様を否認する者とイエス様を悪魔だと言う者の教会をやり取りしている。彼らは、いつ、また韓基総から分かれ出るだろうか?

この事で韓基総は、教徒数が激減していて、一方、韓基総にも、政治家たちにもへつらうお金を渡さない新天地イエス教が争いと迫害を受けているが、急成長を遂げているという事は、神様と神様の祝福があるからである。神様と神様の御言葉が新天地におられ、お金よりも神様と神様の御言葉がもっと大きくてすばらしいからである。牧者と教界に御言葉がないという事は、神様が共におられないという証拠であり、天の門が閉じられ、啓示が通じないという事である。韓基総の所属になる事よりも、迫害されるという事が祝福である事をわかる(マタ5:11-12)。

お金を好み、迫害をする事を好むので、いずれにせよ昔も今もそのありさまが片腹痛くてしかたがない。韓基総は、なぜ、私たちがなくなる先天世界(啓21:2参考)の不法者たちと一つにならないと、私たちの首を絞めるのか?

あなたたちは世に属して、私たちは世に属さず、天に属したので、あなたがたがまるで初臨の時のユダヤ人たちが昔の預言の使徒たちにしたように、戦争を宣布して、迫害に迫害を加えるのではないのか?

神様が私たちにあなたたちと共にしてはならないと言われた。そして、あなたたちの中にいる神様の聖徒を、啓示録17:14、18:4のように、選び出しなさいと言われた。私たちが誰の言葉を聞くだろうか?

神様は、世界を統治されて(啓19:6)、平和の国を創造される。地から生まれた者は、地に行って、天から生まれた者は、天に行くのが聖書通り成し遂げられたのであり、万古の道理(真理)である。

あなたたちも私たちのように天の神様の種で再び生まれて、収穫されて、印を押されるならば、天民になって、永遠の新しい命を受けて、楽園の天国で生きるようになるだろう。アーメン!

2014년 12월 24일 수요일

印を押された144,000と白い群れ

印を押された144,000と白い群れ


(本文:啓7章(ヨハ3:31-34))


本文の啓7章の印を押された144,000人と白い群れは、何を言っているのか?

これは、2千年前、イエス様が弟子使徒ヨハネに知らせて下さった啓示録7章の約束であり、印を押された144,000人は、創造された神様の新しい国、天国の12支派、祭司長たちであり、白い群れは、イエス様の血で罪を洗った12支派の民、すなわち、聖徒たちである(啓5:9-10、7:9-14)。

印を押されたという事は、どんな意味なのか?

印、すなわち、はんこは、自分の名前が刻まれているものなので、神様の印は、神様の名前が刻まれているのである。初めの御言葉が神様であり(ヨハ1:1)、神様である御言葉が刻まれているものが聖書なので、神様の名前が刻まれた神様の印は、聖書を言うのである。それゆえ、本文の御使いが持って来た神様の印は、聖書の御言葉であり、啓示録であり、啓示の御言葉である(啓10章参考)。

従って、神様の印を押されたという事は、啓示録10章の開かれた本、啓示の御言葉を受けて、信仰によってその御言葉が心に刻まれた事を言うのである(ヨハ3:31-34)。

(ヨハ3:31-34) 上から來る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から來る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

啓示録7章に印を押された144000人が、すなわち、12支派であり、これを啓示録14章には、シオン山の144000人の額に神様の名前と小羊の名前が書かれていると言ったので、これは、神様とイエス様の名前、すなわち、御言葉で印を押されたという意味である。印を押された彼らは、啓示録22:4に、「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」と言った神様のしもべたちであり、彼らが永遠に神様と共に王となると言った(啓22:5)。神様も御言葉であり(ヨハ1:1)、イエス様も御言葉なので(Ⅰヨハ1:1-2)、この御言葉で印を押されて、その名前がその額に書かれていると言ったのである。

これと反対に、啓示録13章で見たように、天の幕屋に竜の群れ、獣が入って来て、聖徒たちと戦って、聖徒たちが獣に負けて、獣が自分の名前で聖徒たちの額と手に刻印を押して、刻印を押された聖徒が獣に拝んだと言った。そして、地から上って来た六百六十六(666)と言う名前の獣が海から上って来た獣に受けた権威で、彼のために偶像を作って、偶像(偽りの牧者)に獣の息を与えて、偶像がものを言うようにさせて、幕屋の聖徒たちに獣の刻印を受けさせた。獣の名前と獣の言葉で刻印を受けるようになったので、獣の教理、すなわち、偽りの牧者の偽りの教理で刻印を受けさせたのである。それゆえ、幕屋の聖徒たちの額には、獣の名前が書かれている。

一つには、神様と小羊の名前がその額に書かれていて、一つは獣の名前がその額に書かれているという事である。ところが、誰の言葉、誰の名前で印を押されたかという事が問題である。これは、啓示録13章と、啓示録7章の現場で見た者が良くわかるだろう。また、どんなふうに印を押して、どんなふうに刻印を押したのか、その事実をよく知っている。

獣(悪魔の牧者)の名前と獣の教理を正当として認めて、手を上げて誓う事が手に刻印を受けるという事であり、獣である牧者に額に按手を受ける事は、獣を認めるという刻印を受ける事であった。彼と彼の言葉を信じる事によって刻印を受けるようになり、心と考えに刻んで、刻印を受けるようになったのであり、印を押されるようになったのである。

天から来たものは見て聞いた事を神様の御言葉であかしする事によって、これを見て聞いてあかしを受ける、これは、神様をまことであられると言い、印を押したという事である。聞いて見もしないで、どうやって信じて、信じない者が、どうして認めて、印を押されるだろうか?神様の御言葉を聞いて認める事が、すなわち、印を押される事である。神様が啓示録22:16に、自分の使者を諸教会に遣わして、見て聞いた啓示録をあかしさせられた。このあかしを受ける彼ら(諸教会)が印を押されたのである。このあかしを聞いても信じない者は、印を押されていない者である。

主の再臨の時は、竜の使者、獣がいて(啓13章)、イエス様の代言の使者がいる。この二つのうち、誰のあかしを信じるかに従って、各々獣の刻印を受けたり、神様の印を押されるようになる。

啓示録の時は、神様の6千年の働きを締めくくる時であり、2千年前に蒔いた種の実を刈り取る時なので、神様の種で生まれた者は、イエス様の代言の使者の言葉を信じて、印を押されるようになり、悪魔の種で生まれた者は、悪魔の言葉を信じて、悪魔の刻印を受けるようになる。これを見せて下さったものが、啓示録の事件である。神様の印を押された者は、神様の御言葉がその中にあり、獣(竜)の刻印を受けた者は、獣の言葉がその中にある。

啓示録14章に、シオン山の印を押された12支派144,000人は、初穂であり、彼らは真理の御言葉で生まれた者であり(ヤコ1:18)、啓示録22章の、毎月、十二種に結ばれた命の木の実である。彼らが天国であり、天国の家族である。アーメン!

2014년 12월 23일 화요일

信じない世に属した信仰

信じない世に属した信仰
(本文:ダニ7章(啓13章、17-18章))


  信じない世に属した信仰は、どんなものなのか?

  ダニエル7章で見た海は、世であり(ダニ7:3、17参考)、海から出て来た獣は、啓示録13章と17章で見たように、サタンの霊が入った偽りの牧者であった。マタイの福音書24章では、この偽りの牧者を滅亡者だと言っている。誰を滅亡させたのか?神様の聖殿、エルサレムの選民を滅亡させた。これは、選民がアダムのように腐敗して、背教したからであった。

  信仰、すなわち、宗教は、天から来たのであり、天の神様が下さったものである。信仰人は、あの天の太陽・月・星のように、天に属した者である(創37:9-11参考)。天のものを受けて、天に属した者が落ちるならば、地になる。地は、世である。イエス様も、イエス様の弟子たちも、地、すなわち、世に属さないので迫害されると言われた(ヨハ17:14-19)。
このような信仰人が天に属さず、世に属したという事は、信じない不信者なので世の人になったという事である。天に属せば、太陽・月・星のように輝いて、落ちて世に属せば、光がない夜である。この夜は、御言葉がない心霊である。
  神様は、光であり、御言葉である。背教して、神様を離れるので、光がない夜になる。ヨハネの福音書1:1-5で見たように、御言葉で天地を創造された神様は、御言葉であり、光であり、命である。御言葉がない者は、神様も、光も、命もない深い夜である。天から落ちたので、光ではなく夜である。

  韓国の韓基総は、神様を捨てて、世に属して、世の権威でまことの信仰人たちを圧制している。災害に災害を加えても、分裂して、避けてもわからない。これは死んだ者ではないのか?彼らは、警告を聞いても、感覚がない。世に属したものを信じて従う事を信仰と思っていて、偽りを真理にしていて、悪行を善に思っている。神様の御言葉よりお金を好んで、真理より権威を好むので、誰が彼らに耐えられるのか?天国より世を好んで、神様より海の竜が(イザ27:1)好きなので、彼らの権威は竜が与えた権威であり、彼らの生きる所は海、すなわち、世である
  神様の啓示の御言葉を悪口に思うので(エレ6:10)、自分たちが作った本、注釈の言葉を聖書にして権威を振るう。彼らは、聖徒たちが新天地に収穫されて行く事を邪魔して、収穫によって自分たちが被害を受けると言いながら、新天地を異端と罵倒している。「聖徒たちが新天地に行くのは、啓示の御言葉があるからだ、私たちも啓示録を教えよう。」と啓示録を解釈した注釈を作ったが、でたらめなうその本になった。
  腐敗して、天から落ちて、追い出された教会が、行く所が世であり、地である。彼らに誰が共にいるだろうか?マタイの福音書12:43-45のように、悪霊が入る事によって7倍も悪くなる。現実がそうではないのか?

  まことの信仰人ならば、「私は、聖書が言う誰なのか?」と聖書に聞いて見なければならないだろう。創造は御言葉でしたと言われたので(ヨハ1:1-3)、約束した御言葉通り私が創造されたのか、聖書である鏡の前で照らして見るべきだろう。もし、私が聖書通り創造されなかったならば、外人であり、罪人であり、神様と敵ではないだろうか?聖書の約束通り神様の種で生まれたのか?(神様の倉であるシオン山に)収穫されて来たのか?(神様の御言葉で)印を押されたのか?約束の国12支派に所属したのか?啓示録の成就の時、イエス様の血であがなわれた神様の国と祭司長なのか?啓示録の時、イエス様の血で罪を洗った白い群れなのか?啓示録を加減しなかったのか?命の書に私の名が記録されたのか?毎月、十二種の実を結んだ命の木の初穂なのか?真理の御言葉で新しく生まれた新しい被造物なのか?(ヨハ3:1-5、Ⅰペテ1:23、Ⅱコリ5:17参考)このように、命の御言葉で創造された神様の創作物になってこそ、新約を信じて、救われた者と言えるだろう。この御言葉と関連がなければ、どうして、神様を信じる信仰人と言えるのか?

  我が新天地は、前で言ったもので創造された。このように創造された者と、このように創造されなかった者との差は、天国と地獄である。聖徒が信仰をする価値は、まさに、天国に行く時にある。

  聖徒が自分の牧者を通して神様とその約束の御言葉を学んで、また、世の言葉も聞く。ところが、聖徒が自分の牧者から学んだ神様とその約束の御言葉を信じないで、自分の牧者と彼の世の言葉だけ信じるならば、これは神様に対する正しい信仰ではない。

  審判の時には、自分の行いに応じて記録された聖書によって審判されて、天国と地獄に行くようになる(啓20:12)。
  聖徒は、誰でも聖書通り信じて、聖書の御言葉を加減してはならず、約束の御言葉を信じて、守らなければならない。アーメン!

2014년 12월 22일 월요일

真信与使命

真信与使命


主要经文:路加福音14章

何为真信与使命?这是指遵照神的旨意而行。神的旨意记载在圣经里。
耶稣对律法师和法利赛人说:“安息日治病,可以不可以?”他们却不言语。耶稣在治好了患水臌的人并叫他走后,又说:“你们中间谁有驴或有牛,在安息日掉在井里,不立时拉他上来呢(路14:1-6)?”
在约翰福音5章里,耶稣因为在安息日医好了病人而遭到逼迫。那时他说“我父作事到如今,我也作事”,“父所作的事,子也照样作”。听到这些话的犹太人越发想要杀耶稣,因耶稣不但犯了安息日,并且称神为他(耶稣)的父。那时耶稣又说神赐给他行审判的权柄,所以这句话就晓谕了耶稣有行审判的权柄。耶稣说:“那听我话,又信差我来者(神)的,就有永生,不至于定罪,是已经出死入生了。”

用以上事实为基础来对比一下犹太人、法利赛人与耶稣之间的区别。
因为父神在耶稣里面,所以耶稣知道从亚当起到当时(所处时代)为止的历史事件;而犹太人和法利赛人却无法认识到过去(罪)和当时的自己。他们认为唯有他们自己才是这世上的正统、义人和选民,是神的眷属。但他们却不知道从他们祖宗起就是罪的奴仆,在罪人即魔鬼里面。对于过去的历史和记载着四千年历史的圣经,他们实在是太无知了。他们所知道的只不过是摩西律法下的安息日,认为在安息日献上礼拜就是信仰的全部。
以色列从所罗门的时候开始因侍奉外邦神而沦为了外邦,不知道神离开了他们。因为他们只相信摩西律法,却不相信旧约先知们的话,所以他们无法知晓预言也不认识耶稣。查看约翰福音8章就一目了然了。因为他们固执于律法,所以经上才说(他们)无旧约圣经的知识(何4:6)。

因选民犯罪导致神未能安息,(一直)在作再次复兴之役事和再创造之事。虽然耶稣说“我父作事到如今,我也作事”,但是他们只知道自己所信的摩西律法里的安息,除此之外一概不知,因此他们与耶稣发生了争吵。
如果亚当没有犯罪,迦南的父亲--含没有犯罪,所罗门也没有犯罪的话,那么耶稣就没有理由来(到这地上),不需要再创造,也没有理由再限定一日为安息日,更不会有耶稣背负十字架这一事了。

耶稣不仅成就了神应许给旧约众先知的预言(约19:30),而且还对新约做了预言。现在距耶稣立下新约已过了两千年。因为在今日那福音已传到地极--我们国家(韩国),因此按照应许新约得到成就。就像初临时即便是旧约全都成就了却未能领悟的犹太人和法利赛人一样,今日就算是成就了新约,因为不明白新约圣经旨意,韩国基督教总联合会能领悟到吗?
(韩国基督教总联合会)喜好钱财、使人升高的权势,傲慢,主张只有(自己)才是正统;在日本殖民统治时期敬拜赞美外邦神(日本天皇),这与所罗门敬拜外邦神有什么区别?难道不一样吗?即便是这样也能算是“正统”吗?这与耶稣初临时(犹太人和法利赛人)害怕自己的黑暗之罪被揭穿,不来就耶稣之光即真理,只主张权威,称耶稣为异端且由此排挤耶稣有何不同?自己里面的恶灵使自己的内心发生动摇,引发内心的纷争,使得自己的心被迫追随恶的想法,进而挑起是非,否认神所差来的主,一心想把神的工搞砸。这些事情导致耶稣背负十字架。也就是说,神知晓这事,(所以)才把耶稣当作了代赎万民之罪的祭物。

真信,是从听道(原文为“听见”)、看道(原文为“看见”)及领悟中来的;使命,就是尽心竭力地把所肩负的事情做好。比起报答(神的)恩惠,有负使命,凡自高即为狂傲,(这)就成了对抗主的事情。因此,耶稣在本篇核心章节中说若被人请去赴婚姻的筵席,不要坐在首位上,而应坐在末位上去(路14:7-14)。这是耶稣叫人应当谦卑的话语。而且还说摆设筵席,不要请富足的,倒要请那贫穷的。对于那些富足的人耶稣还说就算是去请他们,他们也会一口同音地推辞,一个说买了一块地所以不能去;一个说买了五对牛所以不能去;又一个说才娶了妻所以不能去。因此经上说出去到城里大街小巷,领那贫穷的、残废的、瞎眼的、瘸腿的来坐满筵席屋子(路14:15-24)。
那么,那贫穷的是怎样的人,那富足的又是怎样的人?(本人)相信即便不多说(大家)也都能理解,因此不再赘述。

下面再查考一下(具备怎么的)资格才能作耶稣门徒这一问题。
耶稣与极多的人同行时说:“人到我这里来,若不爱我胜过爱自己的父母、妻子、儿女、弟兄、姐妹,和自己的性命,就不能作我的门徒;凡不背着自己十字架跟从我的,也不能作我的门徒(路14:25-27)。”这才是真正有信心的人,才是尽心竭力完成自己使命的人。
耶稣打比喻说要盖一座楼,恐怕安了地基,不能成功,看见的人都笑话他;接着又打比喻说盐本是好的,盐若失了味,只好丢在外面(路14:28-35) 。地基(根基)就是十二支派。虽然安了十二支派的地基,但若未能在这上面盖起楼的话,只会成为笑话,还像失去了味道的盐,被丢在外边,任人践踏。对照这一事实,在新约中所应许的神的新国十二支派的根基已被安好,剩下的就是建筑(圣殿)。应该完成,不是吗?难道只是应该坐着观望吗?正如上文所说,作为耶稣的门徒应拼命完成这楼(新耶稣撒冷圣殿)才行。难道要成为笑话或被丢弃的盐吗?

难道不应该回顾一下自己的信仰价值观吗?也不为此而努力奋斗,还没事儿找事儿无事生非,这都是与神的旨意没有丝毫关系的行为。应该团结一致为实现这一目标而竭尽全力奋斗才行。真正信的与形式上信的,为了不负使命而作工的与无视使命随心所欲的,神怎会不知道呢?因此,为了成为具备真正信心之使命者,应该竭尽全力努力才行。务必要时时想着殉教者们。耶稣即便是在殉教后,仍藉这灵,曾去传道给那些在监狱里的灵听,行救恩之工(参考彼前3、4章)。
让我们一起作工吧!阿们!

2014년 12월 21일 일요일

启示录(1-22章)的预言与成就(概要)

启示录(1-22章)的预言与成就(概要)

 《启示录》是耶稣在升天后所指示给门徒约翰的将来要成就的预言。本篇文章是对在过了两千年后的今日应验(这预言)而显现的成就所进行的归纳说明。

启示录1章就是阿拉法和俄梅戛,即启示录事件的开始(预言)与结束(成就);1章1节到8节是全卷事件的结论;1章9节到20节则是晓谕全卷事件的开始。
“七星”,作为启示录三大奥秘之一,其的登场意味着全卷事件的开始。

在启示录2、3章中所应许的内容为:在撒但尼哥拉党侵入到作为奥秘的七星(使者)的帐幕后,耶稣拣选约翰,让他写信给七位使者,叫他们悔改并与撒但的组织争战且得胜;以及还要把在启示录2、3章里所应许的全都赐给得胜的。

启示录4章的内容为:约翰在给2、3章的七星写信后,得蒙天上的召唤而上到灵界,不仅看见神的宝座构成和以后必成的事,而且还听见神国将要临到这世上。

启示录5章的内容为:上到天上的约翰,又看见坐在宝座上的神右手中有用七印封严了的书卷。因为在天上、地上、地底下,没有能展开、能观看那书卷的,约翰就大哭。他听见由于耶稣已得胜,能揭开那七印;还听见用血买了人来,叫他们成为国民、作祭司。

在启示录的6章里,羔羊揭开了七印中的6个。那时,在四活物号令之下,出现四种颜色的马和骑在马上的。由于被记载下来的预言得到应验,所以在这世上出现(相对应的)种种事件。他们只留下了一升麦子和三升大麦这相对较少的“信之种”,用野兽杀害了背道的选民(日、月、星的家族)的四分之一。背道的选民从天上被赶了出去,由神的所属沦为仅为肉身的外邦所属(天、地被挪移的事件)。这就是对背道的选民(所进行的)审判。这与在挪亚时用洪水对亚当世界进行审判如出同辙。

启示录7章的内容为:在对6章中背道的选民进行完审判后,为了创造属神的十二支派新国民和祭司而开始印(神)印之工。在给十四万四千人(祭司)印上(神)印后,又开始刮风(审判),用耶稣的血把衣裳洗白净了的穿白衣的人(百姓们)将从各国中出来。

启示录8章的内容为揭开最后一印--第七印之时的事件。封严的书卷完全被展开,进而出现应验这被记载下来的预言而显现的实体。在第七印被揭开后七枝号被吹响,在8章里吹响了4枝号(第一枝~第四枝)。(本章的内容)是(在这四枝号)各自被吹响时而出现的应验所听见、所看见而成的事件,以及在6章里被摔下去之人所遭到的侵害和被仇敌灭亡的样子。

启示录9章紧接着发生在8章之后,又有两枝号(第五枝~第六枝)被吹响。本章晓谕的是背道的选民被预备好了的撒但的组织杀害,那马和骑马的是用什么杀人的。经上还说虽然遭到与此这般的(审判),但背道的七星帐幕的人们仍不悔改。

8-9章是在六枝号被吹响时所看见的事件。

启示录10章的内容为:天使拿着被展开的小书卷来,将用这小书卷对海和地进行审判一事指示给约翰看;又让(约翰)把这小书卷拿着吃尽,并命令(约翰)要将记载在这小书卷里的内容传讲给世上所有教会(参考启10:11)。经上还晓谕说在吹响所剩的最后一枝--第七枝号时,神的奥秘就成全了,正如神所传给他仆人众先知的佳音。

启示录11章的内容为:从天使那里接过被展开的小书卷的约翰,又得到了一根像杖一样的苇子(属灵的配偶),量一量(用话语养育)将要成为神圣殿之人的心灵。约翰与像杖一样苇子即两个见证人,用从主那里所领受的小书卷的内容为所看见的作见证,在这过程中被兽杀(灵意上的)了。这意味着由神所赐的权柄及使命全都被剥夺了。过了三天半,有生气从神那里进入两个见证人里面,他们又站了起来。那时,第七位天使把见证人当作号,并吹响第七枝号。前六枝号的声音是晓谕背了道的选民之灭亡。然而从吹响第七枝号开始,胜利之事到来,即,曾使选民灭亡的撒但的国度即世上的国,成了神国。约翰听见并看见当时神天上的殿开了,在神殿中有闪电、声音、雷轰、地震、大雹。

启示录13章的内容为:龙的组织--七头(牧者)及从属于这头的十名掌权者(长老)进入到天上帐幕,与圣徒们争战得胜。由此他们使得圣徒们的手上、额上被印上(兽的)印记,并拜那兽。这就是本章晓谕的背道和灭亡之事。

在启示录12章中有争战,是进入到帐幕里的龙的组织与帐幕的妇人在龙面前所生的孩子(男子)及其弟兄们之间的争战。因为属于神的孩子及其弟兄们得胜,所以进入到帐幕里的龙及其所属的牧者一同被摔下去了。从那时起,神的国度、权柄、能力和救恩全都来到了。

启示录14章与13章不同,在本章里所晓谕的是在7章被印上(神)印的十二支派与羔羊一同站在锡安山上;这里有神的宝座;在宝座前学唱新歌的初熟的果子聚集在一起,永远的福音从这里传出。与此同时,经上还说被收割而来且受了(神)印的(麦子们)站在锡安山上;而那些受了(兽)之印记并拜(兽)的野葡萄在城外受审判。

启示录15章的内容为:在12章里得胜的聚在14章宝座前的玻璃海上,学唱摩西的歌(旧约)和羔羊的歌(新约),并说主的道途义哉、诚哉。因为主公义的作为已经显出来了,所以万民都要聚集在证据帐幕圣殿敬拜神。神的大怒被盛在证据帐幕圣殿的得胜者心灵之碗里,在16章里审判背道者和灭亡者。

启示录16章的内容为:天使把在15章拿到的盛满大怒的七碗倒在背道者、灭亡者--兽及其座位上,对他们进行审判;污秽的灵从龙口、兽口并假先知的口中出来,叫普天下众王即假牧者们聚集,与得胜者们争战。那时,最后一只碗被倒在(舆论报道)空中(风闻),晓谕给万民。由此,鬼魔的国度--巴比伦倾倒。

启示录17章的内容为:就像以西结书28章中背道的基路伯(cherub),曾在伊甸神的园中,佩戴各样宝石一样,大淫妇(撒但牧者的头目)也用各种金子宝石珍珠为妆饰。本章不仅晓谕了这大淫妇将遭受的审判和撒但牧者们的奥秘,而且还晓谕说这大淫妇就是“生下”撒但牧者之母,其遭到了第八位王--地兽和十角的审判而结束。同时,这第八位王把这大淫妇的国--巴比伦占为己有。

他们就是侵入启示录13章的天上帐幕的属龙的七头和十角兽。

启示录18章的现场与17章一样,也是巴比伦。18章的内容为:巴比伦的假牧者们不仅用邪淫的葡萄酒使列国全都倾倒了;而且他们还是让圣徒们与撒但的灵“结婚”的人。这“邪淫的葡萄酒”就是申命记32章和马太福音23章中所说的“大蛇的毒气”,即善恶果,也就是魔鬼之书--加尔文(圣经)注释话语。在本章不仅晓谕了(假牧者们)让圣徒们喝下这邪淫的葡萄酒,杀死他们,使他们被掳;而且还晓谕了“圣徒们务必要从那里出来”这一事。就像但以理书2章(34-45节)的内容一样,神对他们行了审判。

启示录19章的内容为:神对18章的撒但组织行完审判后,在锡安山上招聚天上的众灵与地上的客人,摆设娶亲的筵席。在这筵席上所吃的食物就是在启示录16、17、18章里已经被宰了的牛和肥畜(参考22:4)。

启示录20章的内容为:在19章中所聚集的众灵与众人,即被斩者(殉教者们)的灵魂与今日争战的诚信之人合而为一,与基督一同作王一千年。因此,他们就是头一次复活的人。同时,那一千年完了,撒但从监牢里被释放,要迷惑地上四方的列国,就是歌革和玛各,叫他们围住神国--千年城并争战。但是撒但的组织遭到火审判,并被烧灭。从那时起永永远远的神之天国世界到来。

启示录21章的内容为:就像6章和13章一样,先前的天(众教会)和先前的地(众圣徒)因背道而沦为世上的国并落幕(属世的);还像7章和14章一样,因着新时代、新国度和新民族的诞生而出现新天国的天民。天上的灵界从天而降,临于此处合而为一。

启示录22章的内容为:从神的宝座流出来的一道生命水的河,明亮如水晶,在河这边与那边有生命树,每月都结十二样果子。因为这初熟的果子就是被受(神)印的人,所以他们与神同在,直到永永远远。同时,本章还晓谕了洗净心灵之衣的能进城,关于城外之人的内容,为众教会所差遣的耶稣的使者,愿意的都可以白白取生命的水喝,若加删启示录不能进天国等内容。

至此,(本人)对启示录的所有内容进行简单的归纳总结,而且还对一个世代结束且有死亡的地方和再次被造且有生命的地方进行了查考。那么,在启示录6章和7章、13章和14章、18章和19章中,应何去何从?请回答!约翰所看见、所听见的启示录预言,在这两千年间已经传遍了全世界,神今日按照(预言)成就了。

立约的牧者把这一切晓谕全世界。让我们敬拜神、耶稣,并把感谢与荣耀全都献给(神与耶稣)。阿们!


2014년 12월 20일 토요일

末世的预兆与背道、灭亡、救恩

末世的预兆与背道、灭亡、救恩


主要经文:太24:3 (帖后2:1-12、启13章)

主要经文中所说的末世的预兆与背道、灭亡、救恩,是指什么?这是指耶稣在成就了旧约后所晓谕的将来要实现的新约之道。末世是指教会的末了;预兆就是预先晓谕出来的关于主再临时将要出现的背道者、灭亡者和救恩者的话语。

换句话说,也就是在耶稣之后,万国众教会都像挪亚的日子和罗得的日子一样,因背道而将全都倾倒。那时,会出现背道者(启13章、18章),也就是像亚当一样背了道的人们;而且还会出现像亚当时的蛇(魔鬼)一样,侵入并吞灭选民天上帐幕(启2、3章,13章)的属龙的牧者即灭亡者。因为灭亡者占领了选民帐幕进而站在圣殿上,由此(这圣殿)沦为撒但魔鬼的世界。这就是教会的末了即末世。此时,启示录12章中的由天上帐幕的妇人而生的孩子(男子)得到天上启示(启1章、10章),并与龙的组织争战且得胜,由此神的国度、救恩才来到了。这就是新约的预言,得以成就的实状。只有发生这样的事情,主才会再临。所以经上才说,这事就像挪亚的日子和罗得的日子一样(路17:26-30)。在这样的事情发生之前,凡是说“已得到了救恩,就是正统”之人,都是传讲迷惑话语之人。

通过马太福音24章、启示录全卷和帖撒罗尼亚后书2章的话语,来查考一下关于末世的预兆。

马太福音23章和约翰福音5章的话语,既是耶稣初临的事件,而且还是应验以西结书37章预言而成之事;马太福音24章的话语,因为是耶稣再临时将要成就的话语,所以是预言。
根据马太福音24章可知,当时门徒们在听耶稣说这殿宇全将被拆毁后,便问:“什么时候有这些事?你降临和世界的末了,有什么预兆呢?”从第4节开始耶稣就门徒们的问题做了解答。
首先是耶稣的警告,让门徒们要谨慎,免得被人迷惑。因为耶稣说“将来有好些人冒我(耶稣)的名来,并且要迷惑许多人” ,所以行迷惑之人并非是不信者,乃是为耶稣作见证的牧者们。还说那时“国要攻打国,民要攻打民”。也就是说,一面是神的国度及百姓,即神的圣殿、牧者及众圣徒;而另一面是魔鬼的教会、牧者及众信徒。(耶稣)还说那时,因为必有许多人跌倒,也要彼此陷害,所以不法的事增多,灭亡者站在圣地“指点江山”。这句话是说,在这场战争中,神这一面的牧者及众圣徒们败阵,而魔鬼的牧者及信徒们获胜。由此神的牧者及众圣徒沦为俘虏。对于这一事经上描述说“从属于天上的日、月、星(曾从属于天上的属灵的以色列)天上坠落”(太24:29,启6:12-13)。所以这也就意味着(他们)就像亚当一样归于尘土,归回肉身,由属天的人变为属地的人。以上就是耶稣所晓谕的关于教会末了将出现之预兆的话语。这是初临耶稣之后再临时的预兆,是晓谕腐朽败坏的先天世界之灭亡的话语。相信吗?

此后,耶稣及天使们来到此处,开始从东、西、南、北--四方招聚藉着神的种子而生的神的儿子们。这就是收割麦子一事。收割的地方,就是撒下了神种子的教会。因为众教会都沦为了撒但权势下的“阶下囚”,所以(耶稣)在没有光的黑夜(日、月、星遭到侵害变黑坠落后),像贼一样悄悄地(把麦子)收割走。就像启示录7章一样,(耶稣)用展开的书卷的启示之道,给被收割而来的人们印上(神)印,并创造神的国度十二支派。

此时,背道者、灭亡者及救恩者,各是何人?

背道者是指各教会的牧者及从属于其的众信徒。为什么是教会的牧者及众信徒?在灭亡者出现之前,原本是属于天上的,但却因着灭亡者(撒但及其牧者)遭到了灭亡。所以(他们)就像亚当一样从天上坠落到地上,归于尘土。

那灭亡者又是何等之辈?就像马太福音23章、24章,启示录2、3章,以及启示录13章、17-18章一样,(他们)是从属于魔鬼的牧者。他们标榜(自己的)教权与教法,使(人们)顺从于自己。
此时,神的选民们就像马太福音24章和启示录13章一样,遭到迷惑,领受了仇敌的牧者及仇敌的教理,悖逆了神。因此(他们)遭到了仇敌即灭亡者的灭亡。也就是在末世,神的教会遭到撒但组织的迷惑,像亚当、夏娃一样顺从并敬拜迷惑者,所以因背道而遭到灭亡。换句话说,由于选民顺从并敬拜属撒但的牧者,所以神所赐的使命不复存在,沦为了撒但的所属。从神里面坠落(下来)就相当于选民的灭亡。
就好比由于一人杀了人,于是那人就变成了杀人犯一样,因为侵害了选民并使其灭亡,所以(那人)就是灭亡者。

由于末世的教会因背道而被灭亡,所以无论是神的国度、牧者还是圣徒,全都沦为了撒但的所有。那时,就像启示录1、2、3章及10章一样,由主所差来的(立约的牧者、救恩者)来到这世上,开展敦促悔改的运动,进行收割,用启示之道印上印,由此创造新国度。这就是启示录21章中的已经过去了的先前的天地与重新被造的新天新地。一个因背道而终结,而另一个则藉着从神的种子而生的人们建立起新国度。

此时未被收割、也未被印上(神)印的,又是怎样的存在,结局如何?他们就是所撒下的两种种子(太13:24-30)中的魔鬼之种--稗子,所以(他们)是被留下的,遭到灭亡,被地狱之火焚烧。
此时,由神所差遣的将开口说神道,得到启示,并传讲已得到成就的启示录。领受启示之道的,用真理战胜撒但,得到永生的粮食和审判的权柄,还得到辖管万国的铁杖,神、天国及耶稣临于其之上共同治理(万国)。由此,终止战争、实现和平,由神作王的世界来到(参考启2、 3章, 启19:6)。这就是末世与再创造,是背道、灭亡、救恩的实现。

本人作为耶稣的代言使者来到这世上,正在向众教会传讲着这一切。信者,将得到救恩。阿们!


2014년 12월 19일 금요일

应许的话语及其真意与圣经知识

应许的话语及其真意与圣经知识


主要经文:何4:6 (赛29:9-13)


● 应许的话语及其真意

凡是信仰之人,人人都有一本《圣经》,而且去教会的时候还会拿着《圣经》和《赞美诗》。

圣经的内容大体上可以分为四部分,即历史、教训、预言、成就。由于预言是天上的奥秘,所以大体上是用“比喻”记载的。经上说不明白这比喻的,就是外人,而且罪不得赦(可4:11-12)。

根据以赛亚所说的内容可知,先知和先见都成了瞎眼的,他们这《圣经》看如封住的书卷。由于所讲授的和所领受的都是人的吩咐,所以(这百姓们)用嘴唇亲近主,心却远离主(赛29:9-13)。
耶稣在马可福音12章中说:“你们所以错了,岂不是因为不明白圣经,不晓得神的大能吗(可12:18-27,太22:23-30)?”不仅如此,根据启示录5章也可知,在神的右手中有书卷,里外都写着字,用七印封严了。经上还说在天上、地上、地底下没有能展开能观看(读)这书卷的;除了得胜者--耶稣,再无他人。耶稣展开这书卷,并将其赐给了今日在这世上的得胜者,并让他对此作见证。因此,念这书卷的,就是领受这书卷的得胜者。也就是说,只有藉着这得胜者即领受这书卷的,才能听到这启示之道。

而且根据在启示录22:18-19节中所记载的可知,若加删启示录的话,不但无法进天国,而且将得到更多的诅咒(灾祸)。因此,(我们)务必要成为不加删(启示录)的人!

圣徒只有明白预言即应许之道及其真意,才能在预言成就的时候相信且遵守,由此才能得到救恩。

● 圣经知识

经上说太初有道(参考约1:1),所以这“道”就是通往天国的路。
就像在这世上有法(国家法、国际法等)一样,在天国也有法,即《圣经全书》(参考约12:48,启20:12)。就像在这世上既有文化人也有文盲一样,在信仰世界中也有文化人和文盲。神在经上说:“我的民因无知识而灭亡(何4:6)。”神所说的这“知识”,是指圣经话语。也就意味着若因为没有圣经知识而加删启示录的话,那么是无法进天国的。若不知道(圣经),就应该学。

■ “圣经”的含义与改译韩文版
∙ “圣经”的含义:“圣经”,是指“圣洁的书”。《圣经全书》是由圣经66卷组成。
∙  改译韩文版:由韩语改译而成。此版是由韩国圣书公会编著的。旧约目录在前,新约目录在后。旧约共有39卷,新约共有27卷;有记录者和所记录的章数。

为什么把《圣经》称为“圣洁的书”?虽然记录者是人,但因为这些话语不仅是神所说的,还是神所展示给他们看的,所以这书是记有神道的书,即“圣经”。

■ 读圣经的姿态
(我们)应该用怎样的姿态来读《圣经》?《圣经》不是世上某位王或国家元首等人(所说)的话。因此,从开始就应一字一句谨慎接受并牢记在心。不仅如此,还应像见到神一样,用祈祷之心与信心来读。

■ 读《圣经》的方法
读《圣经》的时候,在看完《圣经》封皮和目录后,应从旧约圣经第一卷--创世记1章1节开始仔细阅读。在读《圣经》的始与终,务必都要祈祷。务必要把所读的话语放在心上,就像呼吸一样思考话语。圣经话语就是神的教训,是“我”精神(心)的真粮。
经上记载着记载(《圣经》)的人是哪个时代的、谁的儿子(族谱),从神那里看见、听见了怎样的内容。所以(每一卷)从第一章读到最后的话,都可以了解这些内容。
务必要立足于六何原则(5W1H)来读或听道。即,务必要一边思考“何人、何人、何处、何事、如何、为何”,一边读。
在《圣经》中所登场人物(存在)中,“地”大部分是指选民,“天”是指神,而且这看见、听见的人就是记录的人(先知等)。“我”(读圣经的人),就是看这由记录者(按照)所听见、所看见的而记载下来的文字的人。
之所以读(《圣经》),就是为了明白神及先知们所记载的话语(内容)是什么。当(我们)读圣经时,若出现不太理解或不明白的内容,这些圣经章节要另外做好笔记。

■ 圣经的内容
(圣经的内容中)有过去的历史中曾发生过的事情,有神的教训之道,又有将来要成就的预言,还有成就这预言的立约的牧者及应验预言而成的(实状),也有还为得到成就的(事)。
各个时代既有过去的(历史),也有新的;既有已经成就了的旧的应许,也有将来要成就的应许。挪亚时代、摩西时代和耶稣初临时代的事情都已成就;在新约中所应许的启示录,是将要成就的预言。在新旧约圣经中,除启示录之外,全已成就。

■ 为了明白圣经全书的真意,务必要知晓的顺理
1. 首先是读圣经的事情。
2. 务必要知晓有关圣经的常识(圣经学习过程中幼儿园的水平)。
3. 初级课程学习:学习有关比喻的实体。
4. 中级课程学习:按章学习有关预言与成就的内容。
5. 高级课程学习:学习有关新约启示录的预言及其成就。各时代既有选民;也有选民的背道,敌对者和灭亡者;还有救恩者。
举个所记载的例子,选民的背道、外邦灭亡者、立约的牧者--救恩者的出现,成就在《圣经》中所记载的各自的“使命”。根据这三种存在的行为,(我们)可以知道谁是背道者,谁是灭亡者,谁是救恩者。之所以能明白这三种存在,正是因为有所应许的话语即预言书。如果不明白这三种存在的话,那么只会把救恩者误认为是灭亡者或背道者。

在从创世记亚当时代开始的六千年漫漫历史,通过在此期间所发生的事情可知,当一个世代腐朽落败的时候,就会出现一个新时代,创造新的。(对于)那时所发生的事件,首先只有我具备圣经的知识,才能(对此)领悟并加以区分。

(我们)读神书--《圣经》,是为了明白神的心思,也是为了明白时候与应许。领悟、相信并走信仰之路的人,若为了属世的居高,或为了权势、富贵,或为了属世的虚荣、名誉而信仰的话,那么只会给自己带来祸害(原文为“害”)!(我们)务必要成为这样的信仰人:越领悟就会越谦卑,怀着一颗出死入生的发奋之心,否认自我,成为新造的人,蒙重生。

(我们)查看一下《圣经》中的经文(耶稣的话语)。

(路14:25-27)有极多的人和耶稣同行。他转过来对他们说:26“人到我这里来,若不爱我胜过爱自己的父母、妻子、儿女、弟兄、姐妹,和自己的性命,就不能作我的门徒(“爱我胜过爱”原文作“恨”);27凡不背着自己十字架跟从我的,也不能作我的门徒。”

如果(我们)领悟了圣经真意,就会明白耶稣话语的真意。

我们信仰的目的是从永远之刑罚的地狱进入永生之天国的“道”之信仰!阿们!


2014년 12월 18일 목요일

哪种宗教经书中的应许才值得相信

哪种宗教经书中的应许才值得相信


主要经文:约壹4:1-8

 在这世上有数百种宗教。这些宗教全都是以神为基准,而且均以自己的宗教为最。那么,究竟哪种宗教经书里才有值得信的内容呢?首先(我们)先了解一下信徒数最多的宗教团体--基督教(基督教可分为天主教、新教、圣公会、正教会、反犹太教等)吧。

基督教有六千年的历史:亚当世代、挪亚时代、摩西时代、士师时代、耶稣时代和启示录时代。基督教的经书--《圣经》是从神那里听见、看见并记录下来的,共66卷,有数十位记录者。所有记录者无一例外,所记录下来的全都是从神那里听见、看见的。所以这经书被称为神道。所记载的这话语,根据内容,大致可分为历史、教训、预言和成就。

神与亚伯拉罕所应许的,在摩西时代得到了成就;与旧约先知们所应许的,在耶稣初临时全都成了(约19:30)。新约启示录是耶稣所做的预言(应许),在再临时得到成就(启21:6)。
根据所做(原文为“应许”)的预言及其成就(可知),当先前的败坏时,就会被拆毁,从而再造新的(参考来8:7-13)。比方说,亚当世界因败坏而结束,又造了挪亚世界;挪亚世界因败坏而结束,又造了亚伯拉罕的摩西世界(属肉体的以色列);摩西世界因败坏而被结束,又造了耶稣初临世界(属灵以色列);今日耶稣初临世界因败坏而结束,重新造了耶稣再临世界(属灵新以色列)。这就是六千年间基督教《圣经》所说的预言及其成就。然而摩西与耶稣是在出现之前,已应许好的人物。

佛教及释迦牟尼的历史约有2600年,佛教也被分为几种(宗派)。但(佛教)经书内容(与其他的)大概一致,释迦牟尼是王的儿子即王子。释迦牟尼并不是宗教中所应许的人物。释迦牟尼之所以走上宗教这条路,是因为想弄明白生老病死的缘由。这就是他走上找寻创造主的契机。释迦牟尼听见天上的声音而记录下来的就是《佛经》。在我们国家(韩国)高宗时曾印刷了《佛经》的综合版《大藏经》。因雕刻在8万块木板上,所以还被称为《八万大藏经》。这些内容,无论是释迦牟尼还是其弟子,即便是看了也都不晓其真意。像这样的事情,不但是释迦牟尼,就算是记录下基督教《圣经》预言的先知使徒们,同样都未领悟对所记载下来的内容。所以说在众佛教信徒中,也无人知晓所记录下来的《八万大藏经》的意思。

神使想弄清楚生老病死奥秘的释迦牟尼明白:约五百年后到来的耶稣,将对将来的事情作预言。当神想让释迦牟尼明白将来事情的时候,神已经把(将来的事情)应许给了此前的先知们,所以(神)没有再次重复的必要。我们国家(韩国)三星财团创始人--李秉喆先生,曾就人生、宗教等问题向天主教朴某神父提出了24点疑问,当然关于生老病死的问题也包括在内。然而朴某神父当时并未能给出答案。24年后天主教大学的一位教授--车某神父虽对此进行了回答(已成书出版发行),但那些答案全都是一派胡言罢了。

释迦牟尼的弟子们曾说在释迦牟尼后约过500年耶稣到来的时候,应该聆听耶稣的启示之道。然而,佛门弟子们凭借着他们自己的学识和权势使佛教延续至今。基督教即天主教也是如此。神在两千年前已经做了预言(参考太24章、启示录);十二世纪的天主教的一位预言家也曾预言说,在自己死后的第112位教皇将成为最后的教皇1)。我认为(他们)害怕信徒们因此而发动骚乱,所以(对此)才闭口不言。

伊斯兰教是在耶稣后约过了600年而被创立的(AD 610年创立),距今约有1400年的历史。经书的内容包含亚当、挪亚、摩西世界等部分内容,虽也有预言及启示等话语,但那不是天上的内容,而是地上即属世的道理;没有关于预言及其成就的应许。大部分的内容是应心善,行善的内容。然而,这是做人基本的道理。内容中关于行善事的表述还不及《明心宝鉴》2)。虽然他们说要“求道”,但却频频引发纷争,也有因纷争而使国家分裂的地方。现在在24个国家及地区正在引发众多纷争。
信奉伊斯兰教的阿拉伯人们的祖先,原本是以色列的后裔即亚伯拉罕儿子的后裔,也就是撒拉的使女--夏甲的子孙(夏甲的儿子--以实玛利的后裔);而非应许的儿子、原配(撒拉)的儿子、以撒的后裔。在《可兰经》(Koran : 伊斯兰教的经书)中所记录的历史,是从亚当开始到耶稣为止的历史中截取出来的;找不到任何何时将要成就的预言,以及所应许的预言得到了成就的相关内容;而且也没有耶稣以后所作的预言。
(在《可兰经》里)不但没有关于神与亚伯拉罕所应许的成就、摩西出埃及的过程,而且也没有旧约先知们的预言及其成就,以及耶稣的预言及其成就。在《可兰经》上找不到任何值得相信的内容。《可兰经》的(内容)只不过是记录该书之人的想法3)罢了。唯有存在过去、现在以及将来要成就的应许,才会产生因看见、相信并遵守那一内容的信心。

印度教的内容与伊斯兰教的经书一样,用一句话概括总结的话,除了要善良并行善的内容外找不到任何应许。此外,虽然还有众多经书,但没有陈述的价值。

我们之所以信神和神道,是因为在《圣经》中不仅有关于生老病死的缘由及复兴这一问题(因罪而生的痛苦与死亡的问题)的内容,而且还有在子孙后代要成就的将来之事等内容。
对于过去所应许的内容,在已得到成就了的内容基础上,并运用六何分析法解释说明,所以用新约言所说的预言也是可以信的。对于将来之事的预言及其成就,(我)也是按照六何分析法即“何时、何地、何人、何事、如何、为何”这样的顺理传讲,并做着见证。

在圣经中就以下内容作了说明:神所造之人的样子、因罪而死亡、创造主离开后的罪赦免及回到原来样子的复兴、为了(实现)复兴的材料、为了得到复兴而需要人们遵守的应许、创造主--神与自己人(神的家族)同活、那时的人生价值等。

那么要通过怎样的方式,并借着什么才能复兴至原来的样子呢?现在的人们,是借着谁的种子而生,又是被怎样的灵掌管着?现在我与谁的灵同在,又是谁的样子?若要成为神的儿子,是否要善良并行善,是否要藉着神的种子而生?神所要成就的旨意和事情是怎样的?为什么要那样成就?

宗教分裂成数百种,这是神的旨意还是人的意思?无论谁,都说自己的信仰是以神为基准。但是经书的内容不同,行为及教理也都不同。怎能说这就是神的旨意?这是在漫长岁月里宗教已变质、败坏的确实证据。就在这个时候,所有宗教都要交给宗教的主人即创造主--神,在神里面合而为一才是“硬道理”。

初临耶稣作为和平的使者来到(这世上),如果选民以色列明白了这和平之事不知道会有多好。然而当时的以色列牧者们,不但没有接受这和平(参考赛52:7,路2:14、 19:38-44),反倒是指责耶稣为异端并将其迫害至死。今日也是如此,耶稣为众教会所差遣的使者正在高喊和平,致力于和平之事。但韩国基督教总联合会却在发布战争。为了和平,务必要超越国境、人种、宗教以及思想。而且还要爱仇敌。

概括一下基督教《圣经》所说的关于末世的预言。在此之所以要说一下基督教经书中关于末世论(的内容),是因为在其他宗教的经书中并没有关于末世的预言。耶稣所说的“末世”,是指宗教(基督教)的末了,并非不信社会的末了。经上说在宗教的末期,宗教变得败坏,因背道(导致)神把属于天上的、像日月星一样的宗教人(选民)摔在地上(肉身)。经上还说这个时候就像挪亚的日子和罗得的日子(太24:37-39,路17:26-30),这是指宗教世界的灭亡。
经上说在这样的事情发生后,主和天使一起来收割、印(神)印,并创造神的新国(太24:29-31)。由此晓谕(谁才是)此时的背道者、灭亡者和救恩者(预言),而且晓谕这一切的,正是基督教的经书。即,晓谕这末世事件的是新约,也就是启示录的事件。(启示录)不仅介绍了此时将得救恩的事情和避难所,而且还对以后的新国进行了说明。

圣徒们渴望的是怎样的经书?之所以信仰人需要基督教经书--《圣经》,是因为需要记录在《圣经》里的内容。
人,无论谁,都是有罪的,因为是藉着罪的遗传因子而生。务必要解决这罪,也务必要知道背道者和灭亡者,而且还务必要从属于救恩者及再创造。只有这样才能得到救恩,才能进入天国享受永生。

若经书不包含记录有关这一预言及应验这预言而成就的内容,(那这经书)就不是神所赐的道即启示,只不过是被人盗用装订成册的书罢了。
若没有赦免罪的能力的话,那就不是救恩者;若没有赦免罪的材料的话,那就不是晓谕救恩的经书。若经书上没有有关新时代创造的蓝图(原文为“设计”)的话,那么信仰人只能墨守成规地在这世上活着。只有(包含)既能使人和世界全都更新的应许之材料,以及已被造好了的设计,那么(这样的)经书才能称得上是“真经书”。无论是佛教、伊斯兰教、印度教,还是其他宗教,他们(各自)的经书都没有这样的内容。因此,在各宗教的经书中,基督教经书的内容才是最值得信的,像(前面所述的)内容被完完全全地记录了下来。
应该把各宗教的经书汇聚于一处,查考是否有上文所提及的内容。不是说在错误的道上奋力奔跑就能到目的地。只有走上正道,才能到达目的地。
虽然在释迦牟尼后约过了500年耶稣到来血流十字架,但从那时起过了两千年后的今日,那所立的新约言的生命(原文为“生活”)才得以成就。

那么,在何处成就了这一生命(原文为“生活”)?这个地方正如启示录3:12所说的神、耶稣及天国临在的地方,就是新天新地即新天地(启21章)。在这里(有)送旧迎新好时节4),还带来了三丰之谷5)(启2:17“隐藏的吗哪”)即永生的粮食。与此同时,这里有“太古以后初乐道”6),也就是成就启示录的地方;还是死末生初新天地7)。阿们!


1) 爱尔兰大主教马拉奇(1094-1148)预言在自己死后所有未来教宗总有112人, 第112位教皇即为最后的教皇。现任教皇是弗朗西斯,也就是马拉奇所预言的其死后第112位教皇。
2) 荟萃明代之前中国先圣前贤有关个人品德修养、修身养性、安身立命的论述精华,被用作青少年启蒙教育、道德教育重要读本和个人修身励志经典。
3) 《可兰经》被广泛认为其著者是伊斯兰教的创始人及预言家穆罕默德(Muhammad),他得到唯一的真主(安拉Allāh)的启示并记录下来的。
4) 辞旧迎新好时节
5) 作为三种丰富的粮食火·雨·雨露,即神道
6) 太古以来(史无前例)首次出现的道(话语)
7) 死亡结束迎来生命的新天地

2014년 12월 17일 수요일

初めの御言葉と自由と平和

初めの御言葉と自由と平和

(本文:ヨハ1:1-5(ヨハ8,17章))



初めの御言葉と自由と平和は、どんな事だろうか?

罪悪に捕虜となった人が、真理の御言葉を悟って、罪悪から抜け出る事が自由であり、平和である。



(ヨハ1:1-5)初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(しかし、やみはこれを悟らなかった。)



初めの御言葉が神様であられ、万物がすべて初めの言葉で造られた。初めの言葉の中にいのちがあった。このいのちが人々に光を照らした。このいのちの御言葉が、すなわち、神様の種である(ルカ8:11)。私たちが新しく生まれなければならない事も、神様のいのちの御言葉でである(Ⅰペテ1:23)。神様の種で生まれた神様の息子イエス様も、初めの御言葉であった(Ⅰヨハ1:1)。

肉で生まれたものは肉であり、霊で生まれたものは霊である(ヨハ3:8)。地から生まれた者は地に行って、天から生まれた者は天に行く。私たちが聞いて、学んだ世の知識と教訓ではなく、天のものを聞いて、見て、学ぶのであり、これが宗教である。

本文の光(いのち)が暗やみ(御言葉がない者)に輝いたが、暗やみが悟れなかったと言われた。

人々が教会に熱心に行く。牧師の言葉を聞いて、「アーメン」と言う。忠誠して、献金もたくさん出す。彼らは長老、歓士、伝道師、執事などの使命を受けた。そして、信じる。何を信じるのか?牧師の言葉である。イエス様は、当時の牧師たちとその教徒たちに天の福音、すなわち、御言葉をあかしした。しかし、彼らは信じず、かえって、イエス様に悪霊がついていると言って、イエス様のあかしを異端だと言った。これが当時の暗やみの人が言った言葉である。

もし、彼らが記録された旧約の御言葉を信じたならば、その御心を悟ったならば、約束の御言葉を待っていたならば、旧約の預言とその成就についてのあかしを確認して、信じただろう。信じなかった暗やみの人々は、神様の御言葉について関心もなく、わかりもしないので、信じず、自分の牧者から世の言葉、世の事、人の戒めだけを学んだので、学んだ事と異なるので、信じず、かえって、異端だと言ったのである。

神様の使者は、神様から見て、聞いた事と約束した預言が成就された事を指示に従って伝えるのである。しかし、聖書も、約束も信じず、また、わかりもしないのに、どうして約束の牧者の御言葉を信じるだろうか?

天地を創造した創造主神様がおられて、代言の使者(旧・新約の預言者たち)を通して、歴史と教訓と預言と成就を知らせて、記録させたので、その記録されたものが旧・新約聖書である。記録された御言葉は、神様の御心であり、約束である。それゆえ、約束の御言葉の意味をわからなければ、その御心通りできない。聖書にどんな御言葉があるのか、何を私たちに約束されたのか、わからないので、牧師の言葉だけ信じて従うのが、今日の信仰人の現実である。

神学校に聖霊がないので、御言葉がなく、御言葉がないので、人の戒めだけを教えて、人の戒めだけ学んだ牧師が、自分の教徒に人の戒めを教えたので、これは神様のまことの御心と関係がないのである。地から生まれて、地のものを学んだので、これは宗教ではなく、世の人で、世に属したので、どうして天のものをわかる事ができるだろうか?地から生まれたので、地に行くのであり、神様の御心通り天のもので再び生まれるならば(Ⅰペテ1:23)、天に行くだろう。天のもの、すなわち、宗教についてわからないので、光、すなわち、いのちの御言葉(啓示)を伝える時、光がない夜である人が、どうしてこれを悟れるだろうか?

約束の牧者が伝える御言葉(新約の啓示の御言葉)が自分たちと合わないので、異端だと言ったのである。自分たちのものは世のものであり、イエス様が下さるものは天のものであった。どうして天と地が同じだろうか?

使徒パウロの言葉を聞いて見る。使徒パウロは、律法に傷がなく、知識においては誰にも劣らない大学者であった(ピリ3:6)。彼が自分が知っている律法によってステパノを石で打って殺した(使7:58-59、*使13:9 パウロ=サウロ)。このパウロがイエス様の光を受けた後、話す言葉を聞いて見る。



(ガラ1:11-12)兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

このパウロは、自分が信じたもの(律法)も、自分が人から学んだ知識も、ちりあくたのようにみんな捨てて、天から来る啓示の御言葉を伝えたので(ピリ3:8-9)、この御言葉が、すなわち、本文の初めの御言葉であった。

人は、自分よりも優れたものがある時は、自分のものに対する信仰がなくなる。さらに優れたものを持つようになる。

イエス様の初臨の働きの後、2千年が過ぎた今日、地球上の信仰は、どうだろうか?お金さえ払えば牧師にもなって、会長にもなる。御言葉よりも世をさらに好む。神様の御心よりもお金を好んで、お金と権威と名誉のために牧者になろうとする。それゆえ、真理よりも名誉と権威を信じる。諸教会は、まるで牧者たちの職業のための会社になっている。聖徒たちは、神様と御言葉より牧者の言葉をもっと好む。これによって教会は、人間による、人間の一つの組織体になったのである。

地球上には、数多くの教会と牧者と教徒たちがいる。しかし、ただの一人も天国に入る資格者はいない。みんな腐敗したので、末世になった。記録されたように、聖書の御言葉を神様だと言われた(ヨハ1:1)。「目に見える」神様であられる。この偉大な神様を本当に好んで、愛するならば、貴重に思って従うだろう。まことの神様を信じる人は、御言葉を信じて、この御言葉の意味通りするだろう。これが信じる者である。

第一ヨハネ1:1に、初めの御言葉がイエス様であった。本当にイエス様を愛して、信じる者であるならば、イエス様の御言葉を信じるであろう。なぜ、信じないのか?なぜ、その御心をわからないのか?イエス様の御言葉を信じず、その御心をわからないという事は、聖霊が共にいないという証拠である。

聖徒は、誰に学ぶ事を望むのか?イエス様の聖書である。イエス様の生前には、私の目の外におられる(私の目に見える)イエス様を見て信じた。しかし、亡くなられた後には、イエス様が私の中に入っておられるので、私の中におられるイエス様を信じて共に生きる(ガラ2:20)。イエス様は、これによって十字架にかかられて亡くなられた。神様とイエス様が私の中におられるならば、その約束の御言葉と御心を知って、その御心通りするだろう。

啓示録は、神様とイエス様の御心であり、成し遂げられる事である。これを成し遂げて、伝える時、信じない理由は何なのか?悪魔の子、毒麦だからである。それゆえ、神様の真理の種で再び生まれなければならない。

私(筆者)は、私が見て、聞いた啓示録を世の全ての諸教会に知らせてあげたい。これは、神様の最後の働きである。これをわからなければ、救いがなく、わかるならば、救いを得るようになる。アーメン。

2014년 12월 16일 화요일

啓示録の加減について

啓示録の加減について

(本文:啓22:18-19)



神様が新約にされた約束を総合したものが啓示録である。これを成し遂げる事を約束されて、その約束が成し遂げられるならば、信じなさいと言われた(ヨハ14:29)。

イエス様の初臨の時旧約を全て成し遂げた(ヨハ19:30)ように、再臨の時新約も全て成し遂げられる(啓21:6)。

イエス様の初臨当時、旧約を全て成し遂げた事を当時の人々(ユダヤ人たち)がわからないので、神様が共におられるイエス様を迫害して殺した。このように、再臨の時、新約を全て成し遂げてもわからないならば、初臨の時のようにまた、迫害するようになる。

七つの印で封じられた神様の本、啓示録は、天上天下にその誰も開く者も、見る者も、わかる者もないと言われた(啓5章)。これは、神様(イエス様)が成し遂げられる秘密であった。これを成し遂げる時、見てもわからなければ、どうして信じるだろうか?

イエス様は、これを成し遂げられて、これを見て聞いた使者(イギンジャ)を通して諸教会に知らせさせられた(啓22:16)。

初臨の時、旧約を成し遂げられて、その成し遂げたものをイエス様を通して伝えさせられたように、再臨の時、新約を成し遂げたイエス様は、啓示録2-3章の約束通り、イギンジャを通して、その成し遂げられたものを伝えさせられたので、地球上の聖徒と牧者は、遣わされたイエス様の使者に出会って、その成就されたものを聞いてこそ、わかるようになる。約束の使者を拒絶すれば、啓示録の成就もわからず、信じもしないので、初臨の時の肉的イスラエルのように、救われない。

啓示録の中には、背教者の働きと滅亡者の働きと救い主の働きが記録されている。この三人の人が本に記録された通り現れて、自分の働きをするようになる。これを見てもわからなければ、どうして救われるだろうか?

教徒たちは、自分の牧者を信じると言うが、自分の牧者が啓示録についてわからないでいる。また、末世、すなわち、啓示録の時は、地上の牧者たちが全て腐敗した時である。新約聖書をわかる人であるならば、誰でも、このように言うだろう。

アダムの世界がノアの時終わったように、ノアの世界がモーセの時に終わったように、モーセの世界、肉的イスラエルがイエス様の初臨の時に終わったように、啓示録の時であるイエス様の再臨の時も、肉的イスラエルが終わると、啓示録6章と21章に記録されている。

しかし、今日、腐敗した肉的イスラエルが教会を牧者の事業体にしていながらも、まるで牧者自身が救われたように、また、聖徒たちを救うように、自分の聖徒たちを惑わしている。

今日の牧者たちは、新約の神様の御言葉は考える事さえもせず、わかりもしないので、あきらめて、自分の考えと自分の知識で教徒たちを導いている。教徒たちは、その言葉を良く思って、牧者の言葉が神様の御言葉よりも上で働いているので、神様はこの腐敗した宗教世界を終わらせて、新しい時代を開く事を、預言された通り成し遂げている。

今日の信仰人たちは、主の再臨の時がノアの時、ロトの時のようだと言われた御言葉(ルカ17:26-30)までも認めていない。啓示録を加減すれば、天国に行かれず、のろい(災害)を受けると言ったが(啓22:18-19)、これを心に置かない。牧者たちも教徒たちもみんな啓示録を加減したが、その御言葉を心に置かずにいる。また、収穫されて行ってこそ、救いがあると言ったが、収穫されるどころか、逆に収穫されて行ったらどうしようと恐れていて、啓示の御言葉で印を押されたらどうしようとおびえているので、これがどうして悪魔の兵士ではないと言えるだろうか?

また、約束の国、十二支派の所属になったらどうしようとおびえているので、彼らは、神様を信じる者ではなく、反対する者であり、不法の子どもであり、神様に反論して、敵対する敵になったのである。これもまた、初臨の時の牧者たちと教徒たちと違いがない。

この時に、啓示録を加減せず、信じる者は、神様の種で生まれた者であり、約束の民族であり、永遠の神様の子どもたちである。彼らが新しい時代を開いて、天民になって、永遠に父なる神様と共に天国で永遠に生きるようになる。

2014년 12월 15일 월요일

認められる信仰と認められない信仰

認められる信仰と認められない信仰

(本文:マタ7:21-27(ヨハ12:48、啓20:12-15))



天地創造主の神様は、アダムが罪を犯した後、罪に落ちた人生を回復しようと、6千年の長い歳月の間働いて来られた。その証拠は、聖書66巻に記録されている。ノアの時とモーセの時の働きも、イエス様の初臨と再臨の働きも、まさにそれ(回復の働き)である。このうち、イエス様以前の世界の回復の働きとイエス様以後の世界の回復の働きとは異なっている。

旧約のエレミヤ31章とヨハネの福音書1:9-13の御言葉によれば、イエス様以前の教育では創造主を完全に知る事も、信じる事もできなかった。イエス様以後は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたので、彼らは、創造主を迎え入れる者、すなわち、その名前を信じる者だと言った。信じる者たちに神様の子どもとなる特権を与えたという事は、彼らが神様から生まれた者たちだからであった。イエス様以後、神様から生まれた者たちは、創造主を完全に知って、信じたのであった。

神様から生まれたという事は、神様の種(ルカ8:11)で生まれたのであり、この種を初臨のイエス様が旧約の約束通り蒔かれて(エレ31:27、マタ13:24-25)、この種が天国の秘密であり(マタ13:10-11参考)、この種で生まれた者が天国の子どもたちである(マタ13:37-39)。すなわち、神様から生まれた神様の子どもである。

イエス様以前には、罪を犯したアダムの遺伝子で生まれた罪人であり、肉の種で生まれたが、イエス様の時からは神様の種で新しく生まれるので、神様の子どもだという事が明らかである。人の種(肉の欲と血統)で生まれた者と神様の種で生まれた者の差は、大きいと言えるだろう。

新約の時から神様を父だと呼ぶ事のできる資格は、ただ、神様の種で生まれなければならないという事である。ヨハネの福音書8章に、アブラハムの子孫たち(ユダヤ人たち)が神様を自分たちの父と言った時、イエス様は、彼らに「あなたがたの父は神様ではなく、悪魔」だと言われた(ヨハ8:37-44)。人の種で生まれた者と神様の種で生まれた者の差がこれ、すなわち、神様を父として呼ぶ事ができるのか、できないのかという事である。

イエス様が「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」と言われた(マタ7:21)。また、イエス様は、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と言われた(ヨハ3:1-7)。水と御霊で新しく生まれなさいと言われた事は、水と御霊で生まれなかったので言われた御言葉である。水は神様の種、すなわち、御言葉であり、聖霊は神様の霊であられる。

マタイの福音書13:24-30に、イエス様の畑(教会)に二種類の種が蒔かれて、収穫の時に良い種の実を収穫して行って、この時、収穫されなかった者は、火で焼かれると言われた。誰が救われるだろうか?神様の種で生まれて、収穫された者である。

啓示録7章に、印を押された者たちで神様の新しい国、十二支派が創造されると言われた。印を押されず、十二支派に属さなくても救いがあるだろうか?

啓示録22:18-19に、啓示録を加減すれば、天国に行かれず、のろい(災害)を受けると言われたのに、啓示録を加減しても救われるだろうか?

神様の国、天国に入る者は、命の書に自分の名前が記録されなければならないと言われた(啓21:27)。命の書に自分の名前がなくても救われるだろうか?

啓示録2-3章には、イギンジャに十二の祝福を与えると約束された。勝利できなくても2-3章に約束された祝福を受けると言えるだろうか?この十二がなくても救いがあるのか?

上に言った事柄を加減した者たちが他の人の信仰について、「異端、あれ端」と言う資格があるだろうか?彼らがイエス様の初臨の時の偽りの牧者たちと何が違うと言えるだろうか?

イエス様が「その日に(再臨の時)、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』、しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と言われた(マタ7:21-23)。この御言葉を信じるだろうか?

人々が神様の御心を悟って、その御心通り信仰しなければならないという考えより、聖書の意味をわからないで、自分の考え、自分の判断、または、牧師という権威とその言葉を信じる。これは本当の信仰とは言えない。

前で見たように、偽りの預言者(牧者)たちが主の名前で奇蹟を行って、悪霊を追い出して、主の名前で預言者の働きまでしたが、イエス様は、彼らに不法を行う者だとして離れて行けと言われた。その理由は、彼らが行なった行為は、神様の御心ではないからである。しかし、彼らに従う教徒たちは、自分の牧者を素晴らしい存在だと思うだろう。彼ら、すなわち、教徒たちは、どこに行くだろうか?もちろん、地獄である。不法を行なったから(マタ7:23、ヨハ12:48、啓20:12-15参考)。

人々が「牧会をした、奇蹟を行い、悪霊を追い出した、忠誠した、奉仕をした、献金をたくさんした、教会に欠席しないで出た、伝道をたくさんした、たくさんの人々に良い事をたくさんした。」と言って、救われたり、神様の子どもになるのではない。

神様のまことの御心は、神様の種で生まれなければならないし、神様の霊で一つにならなければならないし、収穫されて来なければならないし、(神様の御言葉で)印を押されなければならないし、約束の国、十二支派に属さなければならないし、啓示録を加減してはならないし、命の書に名前が記録されなければならないのである。この御言葉通り自分に成し遂げられて創造されなければならない。

上に言った事実がない者に、「あなたは天国に行かれない、救われない。」と言うならば、悪口を言う事になるだろう。しかし、彼らが救われないという事は事実である。どんな教団と宗教であっても、また、どんな地位と権威であっても救われない。ただ、神様の種と霊で再び生まれてこそ、救われる(ヨハ3:5)。ただ、新約の約束通り自分に成し遂げられて創造された者だけが、新しく生まれた被造物である天民となるのである。

聖書は、認められる信仰と認められない信仰について知らせて下さった。それゆえ、「私は新約聖書が言う誰なのか?約束通り新しく生まれたのか?約束通り創造されたのか?」聖書の前で自分に聞いて見なければならない。自らわかるだろう。アーメン!

2014년 12월 14일 일요일

生と死

生と死

(本文:ヨハ8章)


人は、誰もが生と死の戦争をしている。働く事も、食べる事も生きるためである。しかし、望んでいない苦痛と死がやって来る。

その昔、インドの王子、釈迦は、生老病死の理由を知るために造物主を探して旅に出た。しかし、会えず、その声を聞いて教えたものが仏教であり、高麗時代に八萬大蔵経を刊行した。1)この八萬大蔵経の意味を知る人は、今まで一人もいない。

大韓民国の三星財団の創立者、イビョンチョル氏は、生老病死の理由など、質問24をカトリック教のパク某神父に質問して、24年ぶりに、チャ某神父(教授)がその答を出したが、それは正当ではなく、でたらめな答であった。

神様は、約2500年前、釈迦に生老病死の苦痛を解決する事のできる答を「イエス」だと言われた。イエス様は、釈迦の後、約500年が過ぎて、神様が遣わされて、この世に来られた。イエス様が「生」について、ヨハネの福音書6章で、ご自身の血と肉を食べる者だけが永遠の命があると言われた。ユダヤ人たちは、イエス様を捕らえて、十字架にかけて殺したが、イエス様は、3日目に(第3日に)復活、昇天された。この後、イエス様が異邦の使徒に選んだパウロは、第一コリント15章で、一人の人(アダム)によって死が入って来て、一人の人(イエス様)によって命が入って来たと言った。アダムは、死んで土に返って、イエス様は、死なれたが、再び生きて、天に上って行った(創3:17-19、ルカ24:46、Ⅰコリ15:4、使1:9-11)。

私たち信仰人は、聖書の御言葉を神様の御言葉と信じる(ヨハ10:35)。初臨当時、この地に自分の肢体がないエリヤとモーセとイエス様は、変化の山の上に現れた(マタ17:1-8)。記録されたように、アダム(創3章)と、神様の息子たち(創6章)が善悪の実を食べず、罪を犯さなくても、土に返っただろうか?イエス様は、弟子3人を連れて高い山に上って行き、再び来られる時の姿を、この日、前もって見せて下さったのである。彼らの姿は、肉体は別に、霊体は別にではなく、肉体と霊体が一つに変化された姿である。

パウロは、終り(第七)のラッパに、突然、変化されると言った。肉体が死んだ者たちの、その肉体は、再び生きられず、その霊は、変化されて、天の心霊なる霊のようになって生きて、肉体を持っている私たちも変化されるので、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちない時には、死が命(勝利)に飲まれると言ったその御言葉が応じると言った(Ⅰコリ15:51-54)。

このような御言葉がヨハネの福音書11章(25-26節)にイエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は死んでも生き、生きてわたしを信じる者は、永遠に死なない。」と言われた。そして、弟子たちに、「これ(この言葉)を信じるか?」と言われ、弟子たちは、「主よ、信じます。主はキリストであられ、世に来られる神様の息子であられることを信じます。」と言った。そして、イエス様は、死んだラザロを再び生かした(ヨハ11:43-44)。この事は、イエス様の御言葉を信じさせた。

また、イエス様は、ヨハネの福音書8章で、「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。」と言われ、これにユダヤ人たちが、「私たちの祖先アブラハムも、ヤコブも死んだのに、あなたはアブラハムとヤコブよりも偉大なのか?」と言った。イエス様は、「わたしの中に父(神様)がおられ、父の中にわたしがいる。」と言われた。この言葉は、神様が永遠に生きられるように、イエス様も神様と共に永遠に生きられるという意味になる。イエス様の御言葉と使徒パウロのあかしを見る時、同じ意味の命を言っている。

啓示録20章で見たように、主の御言葉をあかしして首をはねられたたましいたちと、私たち生きている者がキリスト共に第一の復活にあずかると言った。第一コリント15章のパウロのあかしもこのように、肉体が死んだ者たちの霊が変化されて心霊なる霊で生きて、私たち肉体たちも変化されて、朽ちず、死なないと言い、この言葉は、死んだ殉教者と私たち生きている者が第一の復活にあずかると言った、その言葉が一致する。

(性質が気難しい)パウロは、私たちにキリストのような復活がなければ、この世で私たちが一番哀れな者になるだろうが、復活の初穂として見せて下さったイエス様のように、主の再臨の時、主に属した者が順番に復活すると言った(Ⅰコリ15:19-24)。

アダムが罪を犯した後、地球上には数多くの人々が死んで来た。数多くの人物たちも生まれては死に、罪を赦されるためのいけにえもして来た。なぜ、神様は、釈迦の問にイエス様をその答として下さったのか?イエス様は、私たちの罪の赦しのため、代わりに十字架にかかられ、血を流された。死が罪の価であるならば、イエス様が十字架によって私たちの罪の価を代わって負って下さったので、この地に死が終わってなければならない。ところが、なぜ、2千年間、死が相変わらずあるのか?

ヨハネの福音書6章で言ったイエス様の血と肉は、いつ、食べるようになるのか?ルカの福音書22章の血で立てた新しい契約は、「まことのぶどうの木(イエス様)からできたものを神様の国が臨む時まで食べない。」と言われたので、イエス様の血と肉は、啓示録の成就の時に食べるようになる(啓5:9-10、啓7:14、啓12章参考)。

このゆえに、パウロも、終り(第七)のラッパの秘密だと言い、この時、死ぬものが死なず、朽ちるものが朽ちないと言った。7つのラッパのうち、6つは、啓示録8章からラッパの音が出て(啓8.9章)、この終りの第七のラッパは、啓示録11:15から吹かれるようになる。このラッパの音で世の国が神様の国になると言ったので、神様の勝利であり、救いであり、回復される事を知らせたのである。使徒パウロも、この啓示録の時の終りの第七のラッパの音を言ったのであり、救いの秘密を言ったのである。

それゆえ、イエス様が2千年前に流された血は、啓示録の時、その効力が現れるようになり、「父の国で新しいもので食べる時までは、食べない。」と言った、「父の国」は、啓示録5章で、ご自身(イエス様の)血であがなった国と祭司長たちである。白い群れも、啓示録7章で、イエス様の血で衣を白く洗った人々なので、これもまた、啓示録の時の事であり、血でできたものである。

アダムが罪を犯す事によって死が入って来て、イエス様の血で命が来るようになったのである。前で言ったように、釈迦に言った「生老病死の苦痛」に対する答えは、イエス様であられ、イエス様の血であった。

主を信じる聖徒は、イエス様が言われた御言葉の時と血の効力があるようになる時に、啓示録2-3章に約束された祝福と約束の牧者を知る事が救いの道であり、永遠の命に対する答えだと言えるだろう。アーメン!



1)釈迦の教えを記録したものが仏教である。「大蔵経」は、釈迦の教えとその他に仏弟子たちが叙述したもの、または、仏教の歴史、釈迦の伝記、その他の仏教に関する文献などを総合したものである。高麗の高宗の時、版数、約8万あまりの大蔵経を作ったので、これを「八萬大蔵経」と言う。

2014년 12월 13일 토요일

神様の愛のまことの意味

神様の愛のまことの意味

(本文:Ⅰヨハ4:8)



愛とは、何を言っているのか?愛は、命と平和を意味する。

天地万物は、愛によって保存されている。恐ろしい動物も、傷づくいばらも、毒のある草も、愛があるので、子どもがいて、また、愛によって保存されて生きている。

万物を創造された神様は、愛であられ、愛であられる神様が創造されたので、神様から生まれた者は、みんな互いに愛し合う。

(Ⅰヨハ4:7-11)愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神をわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

神様は、神様の愛を知っている者の中におられる。これは、神様が愛であられるからです。

(ヨハ15:9-12)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

(Ⅰコリ13:12-13)今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

神様も、イエス様も、ヨハネも、パウロも愛について同じような御言葉を言われた。愛の世界、平和の世界、自由の世界は、神様の世界であった。この世界が神様の国、天国であった。この愛の世界を壊したものが悪魔であった。地を混沌とさせ、空虚にさせ、天を暗やみにしたのであった。これはまるでぶどう酒に水を混ぜた事と同じである。二種類の思想が一つの心の中で互いに争う事になったので、すなわち、善と悪である。

この混沌とした世の中が6千年間続いて来て、神様は、人の中にいる悪を除去するため、羊の血を注ぎもされた(レビ16:14-16、ヘブ9:13)。イエス様は、混沌とした世の中が6千年間続いて来たこの時(再臨の時)を指して、ノアの時、ロトの時のようだと預言された(ルカ17:26-30)。ノアの時も、ロトの時も滅亡の時であり、ほんのわずかの何人かだけが救われた。再臨の時は、教会の終末であり、滅亡であり、少ない種で(イザ1:9、6:13参考)再び新しい国を創造する新しい時代である。キリスト教徒たちは、この時を待って来た。

神様は、時代ごとに一人の預言者を立てて、その預言者に啓示を与えて、彼によって全ての事を知らせられた。イエス様が「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われた(ヨハ8:32)。真理は、神様の御言葉である(ヨハ17:17)。新約に約束した御言葉を悟って知る事によって滅亡を逃れるだろうし、敵に捕虜になった所から抜け出る事ができるようになる。光である真理の御言葉がなければ、真っ暗な夜であり、夜は見えない暗やみであり、眠る時である。真理で救われる事によって平和になる。

初めの御言葉がいのちであり、光だと言ったので、神様のように、イエス様のように、初めの御言葉で再び生まれるならば、その人も御言葉になる。御言葉がまず、あってこそ、神様が共におられて、神様の導きを受けるようになる。神様に導かれる者は、本当に祝福され、死に陥らず、永遠の命に至るようになる。

愛の神様が人の心から離れたので、どうして人の中に神様の愛があるだろうか?離れて行かれた神様と愛を心に再び迎えようとすれば、何がなければならないのか?神様の御言葉が心になければならない。

ヨハネの福音書1:1-5で見たように、神様は、初めの御言葉と共におられた。御言葉があるところに神様がおられるからであり、神様がおられるので、神様の御言葉がそこから出て来るのである。この御言葉が、すなわち、神様であり、いのちであり、光であり、愛であり、真理であり、平和である。

今日、神様を信じる聖徒は、まことの神様を(ヨハ17:3)知らなければならないし、6千年の神様の系図と歴史をわからなければならないし、あった事どもをわかってこそ、認められて、信じられて、愛するようになる。神様が私たちを愛されたので、私たちも神様を愛する事が当然である。

長い歳月の間、罪悪によって互いに敵のようになっていたが、イエス様の血で罪を赦されて、神様のまことの種で再び生まれたので、神様の息子(子ども)になって、家族になった。家族として、父と息子として信仰して、愛して、往来して、互いに顔を合わせて見るのが当然な道理である。

罪の赦しもなく、再び生まれる前には、捨てられた孤児のようであったが、今からは、父にあった喜びと愛があふれて、啓示録22:1-5のように、父の顔を見るだろうし、永遠に共に王となる、王子として。アーメン!

2014년 12월 12일 금요일

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

各宗教のうち、約束を信じる事のできる経書

(本文:Ⅰヨハ4:1-8)



地上には、数百種類の宗教がある。これらは、同じように神様を基準としている。そして、自分の宗教が一番だと言っている。果たして、宗教の経書が信じられるくらいの内容があるだろうか?まず、信徒数が多い宗教団体であるキリスト教から調べてみよう(キリスト教は、カトリック、プロテスタント、聖公会、正教会、反ユダヤ教などがある。)

キリスト教の歴史は、6千年であり、アダムの時、ノアの時、モーセの時、士師の時、イエス様の時があり、啓示録の時がある。キリスト教の経書である聖書は、神様から聞いて、見て、記録したもので、旧・新約66巻であり、記録者は、数十名である。キリスト教徒たちが同じように神様から聞いて、見た事を記録したので、これ(聖書)を神様の御言葉だと言う。この御言葉は、内容で見ると大きく歴史、教訓、預言、成就が記録されている。

神様がアブラハムと約束された事は、モーセの時、成し遂げられて、旧約の預言者たちと約束された事は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。新約の啓示録は、イエス様が預言(約束)されて、これは、再臨の時、成し遂げられる(啓21:6)。

約束した預言とその成就を見る時、初めのものが腐敗する時、壊して、再び新しいものを創造された(ヘブ8:7-13参考)。例を挙げれば、アダムの世界が腐敗する事によって終わって、再びノアの世界を創造され、ノアの世界が腐敗する事によって終わって、再びアブラハムのモーセの世界(肉的イスラエル)を創造され、モーセの世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の初臨の世界(霊的イスラエル)を創造され、今日、イエス様の初臨の世界が腐敗する事によって終わって、再びイエス様の再臨の世界(霊的新しいイスラエル)を創造された。これが6千年間のキリスト教の聖書が語った預言とその成就である。しかし、モーセとイエス様は、出現前に約束された人物であった。

仏教と釈迦の歴史は、約2,600年としてみて、仏教も幾つか(宗派)に分かれている。しかし、経書は、だいたい同じで、釈迦は、王の息子、すなわち、王子でである。この釈迦は、宗教に預言された人物ではない。釈迦が宗教の道を歩くようになったのは、生老病死の理由を知るため創造主を探しに出て行ったのが、その契機であった。釈迦が天の声を聞いて、記録したものが仏教である。韓国では、高麗の高宗の時、仏教を総合した大蔵経を刊行したが、その版数が8万編だとして、八万大蔵経と言い、これは釈迦も、その弟子たちも、見ても悟れない内容である。このような事は、単に釈迦だけではなく、キリスト教の聖書に記録された預言に対して、それを記録した預言の使徒たちも悟れないのは同じであった。それゆえ、仏教の信徒たちのうち、記録された八万大蔵経の意味をわかる者は一人もいない。

神様は、生老病死の秘密を知ろうとした釈迦に、約500年後、イエス様が来れば、将来の事を、預言してくれるという事を教えられた。釈迦に将来の事をわからせようとする時、神様は、それを以前の預言者たちに約束したので、改めて言う必要がなかった。韓国のサムソン財団の創立者、イビョンチョル氏も、カトリック教のパク某神父に人生、宗教などについての24の質問をして、この質問には、生老病死に該当する内容も含まれている。しかし、パク某神父は、その当時、答えられず、24年後、カトリック大の教授であるチャ某神父が答えたが(本にして出刊)、それはでたらめな答に過ぎなかった。

釈迦の弟子たちは、釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られた時、イエス様に啓示の御言葉を聞かなければならなかった。この仏弟子たちは、自分たちの知っている知識だけで仏教を彼らの権威と一緒に今まで延長させて来た。これは、キリスト教、すなわち、カトリック教も同じである。神様は、2千年前にすでに預言されて(マタ24章、ヨハネの啓示録参考)、12世紀のカトリック教の一人の預言家も、自身の死後、112番目の教皇が最後の教皇になるだろうと預言したが1)、この事で教徒たちの騒動が起こるかと恐れて、口を閉ざしていると見られる。

イスラム教は、イエス様の後、約600年が過ぎて創立されて(AD 610年創立)、今日、その歴史が約1,400年になり、経書の内容は、アダム、ノア、モーセの世界などの一部を語り、預言・啓示などの言葉はあるが、天の内容ではなく、地、すなわち、世の道理であり、預言とその成就に対する約束はなかった。良い、善良な行いをしなければならないという内容が、その大多数であった。しかし、これは、人の基本、道理である。彼らが善良で良い事について説明したものは、明心宝鑑2)よりもひどく、これらは求道だと言いながら紛争に専念していて、紛争によって国が分かれた所もあり、現在24ヶ国で多くの紛争を起こしている。

イスラム教を信じるアラブ人たちの先祖は、本来イスラエルの子孫、すなわち、アブラハムの息子の子孫であり、サラの女しもべハガルの子孫(ハガルの息子イシュマエルの子孫)で、約束の息子、本妻(サラ)の息子、イサクの子孫ではない。コーラン(Koran:イスラム教の経典)に記録された歴史は、アダムの時からイエス様の時までの歴史から取得してものであり、いつか成し遂げられる預言であり、その約束の預言が成就されたという内容は探す事もできず、また、イエス様以後に約束した預言がない。

神様がアブラハムと約束された事に対する成就、モーセの出エジプトの路程もなく、旧約の預言者たちの預言も、その成就も、イエス様の預言とその成就もない。コーランの経書を通して信じるほどの内容は探す事ができない。コーランを記録した一人の人3)の議論のみである。過去と現在、そして、未来に成し遂げられる約束があってこそ、その内容を見て、これを信じて守らなければならないという信仰が生じるだろう。

ヒンドゥー教の内容も、イスラム教の経書のように、一言で要約すれば、良い善良な行いをしなければならないという内容以外に、どんな約束をも探す事ができない。これ以外にもたくさんの経書があるが、話す価値がないものばかりである。

私たちが神様とその御言葉を信じるのは、聖書に生老病死の理由とこれ(罪による苦痛と死の問題)を回復する内容と、また、後世の人々に成し遂げられる将来の事などの内容があるからである。

過去に約束した事が六何原則に基づいて成し遂げられた事をパターンにして、新しい契約として話された預言も、信じる事ができるのである。将来の事に対する預言も、その成就も、六何原則に基づいて、すなわち、「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、なぜしたのか」という順理に従って語ってあかししている。

そして、聖書には、神様から創造された人の姿を始めとして、罪によって死と、創造主が離れて行かれた後の罪の赦しと、本来の姿に回復される事と、回復するための材料と、回復されるために人が守るべき約束と、創造主神様がご自分の人(神様の家族)と共に住まわれる事と、その時の人生の価値などが説明されている。

何によって、どのように本来のように回復されるのか?現在の人は、誰の種で生まれ、どんな神(霊)が主管するのか?今、私は誰の神(霊)が共にいて、誰の姿なのか?そして、神様の息子になろうとすれば、良い、善良でなければならないのか、神様の種で生まれなければならないのか?神様がなさろうとする御心と働きは、どんなものなのか?なぜ、そうしなければならないのか?

宗教が数百に分かれたのは、神(霊)の御心なのか、人の考えなのか?誰でもみんな神様を基準に信仰していると言う。しかし、経書の内容も異なり、その行動と教法も異なる。これでどうして一人の神様の御心だと言えるのか?これは長い歳月の中で宗教が変質されて、腐敗されたという確実なあかしである。この時、全ての宗教が宗教の主人であられる創造主神様に返して、神様の中で一つになることが原則だと言えるだろう。

初臨のイエス様は、平和の使者として来て、平和の働きを選民イスラエルがわかったならば良かったかもしれないが、平和を受け入れず(イザ52:7、ルカ2:14、19:38-44参考)、かえって、イエス様を異端だとし、殺した、当時のイスラエルの牧者たちが。今日も、その時のように、イエス様が教会のために遣わされた使者は、平和を叫び、平和の働きをしているが、韓基総は、戦争を宣布している。平和のためには、国境も、人種も、宗教も、思想も超越しなければならない。そして、敵をも愛さなければならない。

キリスト教の聖書が言っている末世に対する預言を要約してみる。キリスト教の経書に対する末世論を話そうとするのは、他の宗教の経書には末世に対する預言がないからである。イエス様が語られた末世は、宗教(キリスト教)の終末を言ったのであり、不信社会の終末を言ったのではなかった。宗教の末年には、宗教が腐敗するようになり、神様が背教する事によって天に属した太陽・月・星のような宗教人(選民)が地(肉)に落ちると言った。この時をノアの時、ロトの時のようだと言われたので(マタ24:37-39、ルカ17:26-30)、これは宗教世界の滅亡を言ったのである。

このような事があった後、主が御使いと共に来られて、収穫して印を押す働きがあり、神様の新しい国を創造すると言われたのである(マタ24:29-31)。この事は、この時の背教者たちと滅亡者たちと救い主を知らせていて(預言)、これを知らせたのがキリスト教の経書である。すなわち、この末世の事件を知らせたものが新約であり、啓示録の事件である。この時の救われる働きと避難所を知らせて下さって、この後の新しい国について説明されたのである。

聖徒たちは、どんな経書を望むのか?キリスト教の経書である聖書が信仰人に必要なのは、聖書の中に記録された内容である。

人は、誰でも罪があり、罪の遺伝子で生まれた。この罪が解決できなければならないし、背教者・滅亡者をわからなければならないし、救い主と再創造に所属されてこそ、救われて、天国に入り、永遠の命を味わう事ができる。

これを話した預言と、この預言が成就された内容がない経書は、神様が下さった御言葉、すなわち、啓示ではなく、人が盗用して作った本に過ぎない。

罪を赦す力がなければ、救い主でもなく、罪を赦す材料がなければ、救いを知らせてくれる経書にもならない。新しい時代の創造に関して、設計された経書がなければ、信仰人たちは、世のその通りに生きるしかないだろう。人も、世も、新しくできる約束の材料と創造された設計があってこそ、まことの経書と言えるだろう。仏教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、その他の宗教も、その経書にはこのような内容がない。それゆえ、各種の宗教の経書の中には、キリスト教の聖書が一番信じるだけの内容があり、このような内容が手落ちなく記録されている。

これは、各宗教の経書を一ヶ所に集めて置いて、上の内容に対して、その可否を調べて見なければならないだろう。間違った道を走っていると言って、目的地に行くのではない。正道を行ってこそ、目的地に行く事ができる。

釈迦の後、約500年が過ぎてイエス様が来られて、十字架で血を流されたとしても、その時から2千年が過ぎた今日に初めて、その約束である新しい契約の人生が成し遂げられるのである。

そのような人生が成し遂げられる所はどこなのか?ここは、啓示録3:12のように、神様とイエス様と天国が来た所であり、新しい天、新しい地、すなわち、心天地である(啓21章)。ここは、送旧迎新好時節4)であり、三豊之穀(啓2:17、「隠されたマナ」)、すなわち、永遠の命の食物を持って来たのであり、太古以後初楽道6)、すなわち、啓示録が成し遂げられた所であり、死末生初新天地7)である。アーメン!

 1)アイルランドの

2014년 12월 11일 목요일

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

約束の御言葉とその意味と聖書の知識

(本文:ホセ4:6(イザ29:9-13))




●約束の御言葉とその意味

信仰人は誰でも聖書を持っていて、教会に行く時も聖書と賛美歌(本)を持って行く。

聖書の内容は、大きく四つに区分できる。歴史と教訓と預言と成就である。預言は天の秘密なので、ほとんど比喩で記録されている。この比喩を悟れなければ、外人になり、罪を赦されないと記録されている(マコ4:11-12)。

イザヤが言った内容を見ると、預言者と先見者たちが盲人になって、聖書はまるで封じられた本のようで、教えて学ぶ事は、人の戒めなので、口では主に近づくが、その心は、神様から遠く離れたと言った(イザ29:9-13)。

イエス様も、マルコの福音書12章に、「あなたがたは聖書の御心をわからず、思い違いをしている。」と言われた(マコ12:18-27、マタ22:23-30)。それだけではなく、啓示録5章に見ると、神様の右の手に本があるが、内側にも外側にも記録されていて、七つの印で封じられていると言う。天上天下に、この本を開いて、七つの印を解く者も、読む(見る)者もなく、この本を開いて、七つの印を解く者は、イギンジャ、イエス様以外にはないと言った。イエス様は、この本を開いて、成し遂げられて、今日、この地のイギンジャに与えて、あかしさせられたので、読む者は、本を受けたイギンジャであり、このイギンジャ、すなわち、本を受けた者を通して啓示の御言葉を聞く事ができるのである。

また、記録されたように、啓示録22:18-19には、啓示録を加減すれば、天国に入れず、のろい(災害)をさらに受けると言われたので、加減する者にならないようにしなければならない。

聖徒は、預言、すなわち、約束の御言葉とその御心を知っていてこそ、預言が成就された時、信じて守る事で、救いを得る事ができる。

●聖書の知識

初めの御言葉を道だと言ったので、すなわち、天国に行く道である。

この世の中にも法(国法、国際法など)があるように、天の国にも法があるので、すなわち、聖書全書である(ヨハ12:48、啓20:12参考)。この世にも知識人と無知な者がいるように、信仰世界にも知識人と無知な者がいる。神様が「わたしの民が知識がないので滅ぼされる(ホセ4:6)。」と言われたので、この知識は、聖書の御言葉を指して言われた御言葉である。それゆえ、聖書の知識がなく、啓示録を加減すれば、天国に行かれないと言ったのである。わからなければ、学ばなければならない。

・「聖書」の意味と改訳ハングル版

  ・「聖書」の意味:「聖書」とは、「聖なる本」という言葉である。聖書全書という事は、66巻を集めて一つ

にまとめたという意味である。

  ・改訳ハングル版:韓国語でできた改訳版という意味である。これは大韓聖書公会で作った本である。旧約の目録があり、旧約が終わった後、新約の目録が出て来る。旧約が39巻であり、新約が27巻である。記録者と記録した章数が出ている。

なぜ、聖なる本と言ったのか?記録者は人で、記録者に語れて、見せて下さった方は、天地創造主、神様であられるので、神様の御言葉を聖なる本、すなわち、聖書だと言ったのである。

・聖書を読む姿勢

どんな姿勢で読まなければならないのか?聖書は、世の王や大統領の言葉など、人の言葉ではない。それゆえ、始まりから一言、一言、用心に用心を重ねて、心の板に刻まなければならない。それだけではなく、本の御言葉を見る時、神様を見るようにして、祈る心と信仰で読まなければならない。

・聖書を読む方法

聖書を読む時は、聖書の本の表紙と記録された目次を見た後、旧約聖書の最初である創世記の1章1節から詳しく読まなければならないし、読み始める時と終わる時ごとに祈らなければならない。読んだ御言葉が心になければならないし、その御言葉を呼吸のように考えなければならない。聖書の御言葉は、神様の教訓であり、自分の精神(心)のまことも食物である。

記録者はいつの誰の子どもで(系図)、内容は、何について神様から見て聞いた事だと記録されている。そして、1章から終りの章まで読む事によって内容をわかる事ができる。

読む時も、聞く時も、六何原則に基づいてしなければならない。すなわち、「誰が、いつ、どこで、何を、どのように、なぜしたのか?」を考えて、読まなければならない。

聖書の内容に出て来る人々(存在)は、「地」ではだいたい選民たちであり、「天」では、神様であった。そして、見て聞く者は、記録した人(預言者など)である。聞いて、見て、記録した人の文章を見る「私」(聖書を読む者)である。

読んで見る理由は、神様と預言者が記録した御言葉(内容)が何を語られたのかを知るためである。読む時、理解できなかったり、わからない内容が出て来る時には、その聖句を別途記録しておかなければならない。

・聖書の内容

過去の歴史の中にあった事柄があり、神様の教訓の御言葉があり、将来にあるようになる預言があり、この預言を成し遂げる約束の牧者と預言が成就されたものがあり、未だに成し遂げられないものがある。

時代的には、昔のもの(過去の事)があり、新しいものがあり、昔の約束を成し遂げた事があり、成し遂げられる事を約束したものがある。ノアの時、モーセの時、イエス様の初臨の時の働きは成し遂げられたのであり、新約で約束した啓示録は、成し遂げられる事を預言したものである。旧・新約聖書のうち、啓示録以外は、全て成し遂げられたのである。

・聖書全書のまことの意味を知るためにわからなければならない順理

1.  まず、聖書を読む事である。

2.  聖書についての常識(聖書の勉強過程の幼稚園の水準)をわからなければならない。

3.  初等過程の勉強:比喩についての実体を勉強する。

4.  中等過程の勉強:各章に入って、預言とその成就について勉強する。

5.  高等過程の勉強:新約の啓示録の預言とその成就について勉強する。時代ごとに選民がいて、この選民が背教して、敵対者、滅亡者がいて、救い主がいた。

記録された例を見ると、選民の背教と異邦の滅亡者と約束の牧者、救い主が出現して、聖書に記録された自分の働きを成し遂げる。この三つの存在の行動を見て、背教者と滅亡者をわかる事ができ、救い主をわかる事ができる。この三つの存在を知らせたものが、約束の御言葉である預言書である。この三つの存在をわからなければ、救い主を滅亡者、または、背教者として誤解するようになる。

創世記のアダムの時から6千年間の歴史の中にあった事件を見ると、一つの時代が腐敗した時、新しい時代があるようになり、新しいもので創造されるようになる。この時の事件は、まず、自分に聖書の知識があってこそ、悟るようになり、区分する事ができる。

神書である聖書を読む事は、神様の心をわかる事であり、時と約束をわかるためである。悟って、信じて、信仰をするという者が、世的に高くなろうとするため、また、権威や富貴や世の誇りや名誉のため信仰するのは、かえって、自分に害になる。悟れば悟るほど低くなって、死から命に走って行く心情で自分を否認して、新しい人に創造されて、新しい被造物として新しく生まれるために信仰人にならなければならない。

聖書の一つの聖句(イエス様の御言葉)を見てみよう。

(ルカ14:25-27)さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

聖書のまことの意味を悟るならば、イエス様の御言葉のまことの意味をわかるようになるだろう。

私たちの信仰の目的は、永遠の刑罰の地獄から永遠の命の天国に入る道の信仰である。アーメン!



2014년 12월 10일 수요일

天地创造

天地创造



创造主神就像创造了天上灵界一样,在这地上也创造了天和地。这就是天地创造(创1:1,启21:1)
* 神吩咐给摩西的道
 (出25:9 ) 制造帐幕和其中的一切器皿,都要照我所知是你的样式。
 * 耶稣吩咐给犹太人的道
( 约 5:19 ) …… 我实实在在地告诉你们,子凭自己不能做什么,惟有看见父所作的,子才能作;父所作的事,子也照样作。
 * 耶稣在主祈祷中所讲的道
( 太 6:10 ) 愿你的国降临,愿你的旨意行在地上,如同行在天上。
  * 神在启示录中所讲的道
( 启 21:6) 他又对我说,都成了。我是阿拉法,我是俄梅戛,我是初,我是终。我要将生命泉的 水白白赐给那口渴的人喝。
   * 耶稣在四大福音中所说的话
( 约 19:30) 耶稣尝了醋,就说:“成了!”便低下头,将灵魂交付神了。
就像上面所记载的一样,在新约中所立的约,神将这些事情晓喻给蒙其拣选的牧者,并借着他来成就神的旨意。怀着天上所望而查考圣经的所有圣徒们,当由神所约定的预言成就了的时候,就要看到并相信应验的实像(约14:29 )。正如启示录第二十一章的内容一样,神把天上已经成就了的事情先展示给这位约定的牧者(摩3:7),而且还指示其在这地上也创造出与天上一样的天国。这就是天地创造。
当遵照神的旨意在这地上创建起属神的天国的时候,在天上的灵界神国和圣灵将从天而降在其上合为一体(启21:1--7)。新天地耶稣教正在这地上创建着由神所约定的国度,就像在天上所成就的一样。
新天地耶稣教的使者(牧者)顺从耶稣的指示,把自己所看到的和听到的事情以书信的形式写了下来,并寄给了启示录第二,三章中的使者们。就像启示录第四章的灵界天国一样,在新天地里也设立了二十四位长老;七个灯台使者;作为四活物的部长,同时这四个基路伯各有六只翅膀(部门人员);还有众多作为数不清的眼睛的圣徒们。新天地耶稣教正在用神的道受印给圣徒们,使他们成为启示录第七章中所说的十二支派十四万四千,而且还有数不清的人,他们所穿着的白衣都是借着作为耶稣血的道而洗净的。
如今,先知和先见们都处在沉睡的状态(赛29:9--14),就在这样的一个晚上)上(太24:29),降临的耶稣和天使们像贼一样悄悄而来(太24:29—33,39--44),他们手里拿着镰刀(启14:14--16),到撒下了天国福音种子的麦地(教会)里来收割作为成熟麦子的圣徒们,把他们领到在这地上的天国。此时(太24:45--47),听  信神道的人会被收割走到天国去,反之则被捆成捆(太13:30)被丢进地狱之火里烧尽。为什么这些人即便是听见了神道也不相信呢?这就是他们本身就是稗子的原因。
新约中的预言书就相当于设计图,之所以预先晓喻给众人,就是为了让人们在事情成就的时候可以相信。今天要成就的事情,神已经约在两千六百年前通过耶利米先知做下了预言,而且在两千年起前耶稣对同样的事情做了预言(太13:24--43)。所以如今新天地耶稣教正应验着启示录第十四章,进行着收割。
如今,新天地耶稣教把这些应验了预言的实像传扬给众人,但是却有许多人不相信这些话。这些人仅是重蹈前人的覆辙而已。比如说:挪亚时代发洪水当时不信从挪亚话的亚当世界的人们,还有耶稣初临时不相信已成就了的事实的肉体以色列。这些人不相信神所赐的约定(预言),只是用嘴称呼“主呀,主呀”罢了。现在是天上灵界神的国度和圣灵临于在地上接受创造的人们合为一体,这也就是神人合一体,即圣灵与肉体的结婚,就是天地创造(启第二十一章)。
综上就是关于应验了新约预言而在这地上所成就的事情。现在我们正是遵照神的旨意把所见所闻毫无保留地传给所有的基督教人(启10:8—11),即便是我们承受着巨大的压力。愿我们每个人都能确信并坚信神的道,得到神所赐予的救恩。我们新天地耶稣教会为此而坚持不懈地祈祷的。
(待续…… 关于天新约预言国比喻的祥解)

出处:真正且直接面对面地了解圣经和新天地
SOHU新天地BLOG  http://scjinchina.blog.sohu.com/

2014년 12월 9일 화요일

新天地耶稣教 证据帐幕圣殿

新天地耶稣教 证据帐幕圣殿




新天地耶稣教证据帐幕圣殿教会为什么会以这个名字命名呢?

所谓 “新天地”,说的是启示录第二十一章中的新天新地;所谓耶稣教,意思是新天地的教主为耶稣;所谓证据帐幕,指的就是此处为应验了新约预言而出现的实相做见证的地方;所谓圣殿,指的是圣神之殿宇的意思(启15:2--5)。
现在所有的教会基本上都是以个人喜好来给教会取名字。但恰恰与此相反,新天地耶稣教证据帐幕圣殿这个名字是在新约圣经中所约定好了的(启1:6,5:9—10,7:14),是属神的新国度和选民。从亚当时代到属肉体的以色列亚伯拉罕为止历经了约两千年的时间;从亚伯拉罕时代到初临也经历了约两千年的时间;从耶稣初临到现在也已有了两千多年的时间。如果从圣经各时代的历史和变化来看的话,亚当时代落幕,挪亚时代登场;挪亚的迦南时代下了场,随后属肉体的以色列律法时代又上了场;在属肉体的以色列律法时代告别历史舞台之后,又开启了耶稣撒下属灵的天国福音种子的教会时代(属灵以色列)。就在教会时代画上句号的同时,紧接着迎来了收割时代,也就是新天地耶稣教千年时代(属灵新以色列)。
属肉体的以色列人,无论是讲道的还是听道的,他们仅是领受了人的吩咐和诫命,所以即便是听到了耶稣启示的道(赛29:9—14,哈2:2—3,结第一、二、三章),他们不但不能会晤耶稣的旨意,而且还诬陷耶稣以及耶稣的门徒们为异端。如今作为属灵的以色列,他们所领悟的仅是由耶稣已成就了的旧约和用比喻而撒下的天国福音。曾被七个印封严了的神的书卷已被展开了(启第五、六、八、十章),成为了启示的话语。属灵的以色列的圣徒们,与前人一样,当他们听到了这启示的话语的时候,不但没有领会这启示话语的真谛,而且还指责这传扬启示话语的人为异端,现在也是如此。无论是初临还是再临,之所以会出现这些事情正是因为“作见证的启示话语”和“人的诫命”,这两者有着本质的区别。但是使徒保罗在得到了天上启示的话语之后,便把世上的万物当作有损的(腓3:7--9)。所以今天的信徒们也要像保罗一样,废弃人的吩咐和诫命,选择、相信并领悟启示的话语,只有这样的话,选民们才能得到救恩。

现在的宗教界早已变成了黑夜,因为属灵的天上日头、月亮和星星(太24:29—44,启6:12--13)都变黑坠落到了天上。不晓得这一事实并觉得安逸无恙的人们主张什么“我以为得到救恩了”,“我已经得到圣灵了”。可这些仅是陷入了自己美丽的幻想中罢了。在新约中所说的启示录时代,指的是在此前的时代落下帷幕后被新创造的时代(启第二十一章)。此时按照约定(启5:9--10),凡是用耶稣的血买来的(启5:9--10),并且自己的名字登记在十二支派的人们(启第七章),才能成为神国的新国民。只有通晓了这些事情的人才能坐上作为这个时代方舟的十二支派,得到救恩。

神的旨意行在地上如同行在天上一样,新天地耶稣教证据帐幕圣殿就是按照圣经而在这地上被创造出来的,是神的杰品(太第六章,启21:1--6)。 新天地耶稣教证据帐幕圣殿由十二支派构成。在新天地里,若有任何人或任何事没有应验圣经的话,那么就请用圣经来对此加以反证。在圣经中记载着义人们将为了义而遭到逼迫,甚至连这一点我们新天地也在成就着。与旧约中的先知们、耶稣及其门徒们一样,新天地的代言人,他既不是神也不是耶稣,仅是在末世蒙耶稣所拣选的作为代言的使者(启1:2,22:16)。正如在启示录中所记载的,这位代言的使者接过了被展开的书卷(启第十章),并用自己所见证的道战胜了对抗主的恶势力(启12:11)。同时他不仅通晓了在这世上无人知晓(赛29:9—14,启5:1--3)的启示话语,而且还担当起了传扬讲授此道的使命。也正是因为这世上的神学博士、牧师和各教团的掌权者们均不知晓这启示的道,所以这些人妒嫉这传授真理之道的人,于是他们便捏造谎言批判这通晓了圣经的人。但是与其心怀不满、妒嫉逼迫,还不如相信这所有的事情都是靠着神的能力而得到了实现的,并把所有的荣光和赞美都归于神。只有这样做的人才能算是个真正信仰人。这位通晓了天上启示话语的人对圣经的了解,远远地超过一般牧者的知识和想象范围。迄今为止已经有数万名的查考圣经的人既亲耳听到、亲眼看到了这些道已成为了肉身,而且还在为此做着见证。

对于“默示”,在神所预定的应验时限到来之前,是被严严地封住了的。所以人们不得不领受人的吩咐,这也是情非得已的事情。但是若有人仅是为了得到一个张神学博士学位而强解圣经的话,那么这个人便是违反了神道,而且他的主张也不可能成为真理。神与耶稣有且仅有一位,圣经书卷也是有且仅有一本。同样展开这书卷的有且仅有一位,而且接过吃掉这被展开的书卷并为此作见证的也是有且仅有一位(启第五章,第十章)。这些来到这位传扬启示真道之人的面前学习真神学的人才是遵行神旨意的真信仰人(各国、各族、各方、各民)。在这世上,除了这位蒙拣选的约定的牧者之外,还有谁(哪一位牧师)有大智慧能为这启示录全卷的预言和应验了这预言的实像作见证呢?

接过了这被开启了书卷的这位约定的牧者,他的学历和经历等可概括如下:在农村出生并长大;在6.25战争(中国称之为抗美援朝战争)时曾入伍参了军。他虽然没有加入过任何的教会团契,但无论早晚他都从未停止过祷告。而且还保持着每星期天都到山上做礼拜祈祷,而且晚上奉读一章经文后再睡觉的习惯。平时,即便是在白天,他也看到了天上的星星。在连续祈祷的第三天,他感觉到天上的星星离他很近。从那时起便开始出现了大乱,但是这大乱成为了其去教会的契机。就在当天,他跑到山上与神用血立了约。此后,他见到了乘云而来的主,而且还得到了耶稣按手。在耶稣的指示下,他将自己所看见的,和现在的事,并将来必成的事都以书信的形式写了下来,且晓喻给了七个教会的七位使者。此后,他从天使那里接过了被展开了的书卷,同时还在指示下把这启示的道传给各国、各方、各民和各王。因为那时的人们都已经成为了异邦的俘虏。也就在得到了指示之后,他选择离开了农村的家,到由主所指示的地方去传扬神的道。并且他在与对抗者争战的过程中得了胜后,得到了创造十二支派的命令,创造出来了十二支派。这些都应验了在启示录中预言。虽然对于这些事情,就像初临时一样,不了解圣经的人并不相信所发生的一切,但是真正了解话语的人都会在确认之后相信并顺从此道。

在两千多年的历史当中,对于通晓了被封严了的书卷这件事情的重要性,没有任何一件事能与其相提并论。但事实并非如此,这何等可贵的事情却遭到了来自于属魔鬼的无知之人的唾弃。我们不要以自己的意志为转移,也不要以貌取人,愿我们每个人都能领悟到这位牧者接过并吃下的启示的话语对我们来讲是何等的重要。因为这话语就是能赐予我们永生的必不可少的粮食。就像“太古以后初乐道”一样,对于通晓了这句话真谛的人,这启示的话语就相当于他们永生的饮料(生命水)。这位约定的牧者不仅领受了启示的真道,而且还得到了在启示录第二、三章中所约定的福分。我们不要重蹈仅行迫害的祭司和魔鬼的覆辙,就让我们怀着一颗善良的心祈祷祈求,能够得到神所赐予的圣洁的福分吧。就让我们一起跪下来向神悔改祈祷吧。

新天地耶稣教,正在为普天下的圣徒祈祷,就像挪亚、摩西和耶稣一样,求神保守所有的选民们,愿所有的人都能得到真正的救恩。

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2014년 12월 8일 월요일

宗教与宗教界的现实

宗教与宗教界的现实



在这个世界里有基督教、佛教、印度教、伊斯兰教、犹太教等各种形式的宗教,并且各宗教均都拥有各自的经书。然而,无论是哪一种宗教,都没有任何一处真正通晓了并传授自己教派经书的地方。因为不理解经书,所以就不能会意其中的真谛;因为不能会意,也就无从谈及对其中旨意的真正信心了。虽然道教人士们所等待且盼望的是东洋先知书里所记载的正道灵和宗教的主人天神,但我们基督徒们所企盼的是真理之圣灵保惠师(约 15:26,约 16:13)。正道灵所指的也就是真理之圣灵,即正道之灵。可惜, 正如耶稣所说的(启 2章,3章),即便是真理之灵已经来了,但若没有能听懂圣灵话语的耳朵的话,又怎能领悟其真谛呢?

在圣经里耶稣约定将差遣真理之圣灵保惠师(约 14:25-26,约第十六章),所以我们所有信仰人都在企盼着他的来临。在应许了的真理之圣灵保惠师来作见证之前,没有人能够传讲真正的正道。

我们新天地耶稣教自创建以来从未说过仅有马太福音第二十四章是末世论类等似于这样的话。反倒是某些教团硬是无中生有地说我们新天地主张唯有马太福音第二十四章是末世论。并以此为由,更是把异端的罪名强加在我们新天地的头上。在旧约圣经以赛亚书第二十九章 9-13节里记载着,圣经在先知和先见们看来如同封住了的书卷,没有人能会意其中的真意。因此,众牧者都变成了瞎眼领路(参照:赛 42:18-19,太 15:14)。在这种情况下,耶稣来到这些人的中间,展开了被封严了的书,传讲以展开了的启示之道。就在这个时候,仅领受了人诫命的人们,视耶稣为异端,是被鬼附了身(约第八章)。小巫见大巫,如今也是同样,真理的圣灵保惠师来到这个世上,展开了在启示录第五章中所被严住了的书卷,并拣选了一位合其心意的使者为此做见证。因此从未见过且听过记载在书卷上话语(启示)的人,视这传扬真道的人为异端。但实际上,神与耶稣所应许的就是真理的圣灵保惠师及神的书卷启示之道(约 14:16,26,太 11:27,启 10章)。

应许的真理之灵保惠师临到新天地耶稣教并且正传讲着正道。无论何人与其行逼迫,倒不如首先尊听启示之道,以圣经为基准来确认其道是否与圣经相符,最终必得醒悟。凡通晓的人必蒙福中之福(参照:约 14:29,启 1:1-3)。

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2014년 12월 7일 일요일

约定的牧者

约定的牧者




● 旧约圣经中的约定的牧者
神赐一个兆头说,必有童女怀孕生子,而且神还要与这孩子同在(诗2:7,赛7:14)。同时,神打开了默示书卷,虽然这书卷无人知晓。而且神还将这打开了的书卷赐给了人子让他吃尽。就在人子吃尽了此书卷之后,神便命令人子把这些话语传给败坏了的以色列人那里去(赛29:9--14,哈2:2—3,结第一、二、三章)。遵照约定,耶稣来到了这世上,并且成就了这些预言(太1章,太11:27,太15:24,约1:32,约10:30,约19:30)。旧约时代无论是先知还是先见们,他们都不知晓这默示的话语,但是神却把这由其展开了的启示话语只告诉给了耶稣,并且临在耶稣身上。所以耶稣在约翰福音第五章37—39节中说,给耶稣做见证的就是旧约圣经。旧约的预言就是为了要向众人晓谕耶稣,并且还借此来为这一位做见证。同时,施洗约翰是以利亚的名字而来,耶稣则是奉父神的名字而来(太11:10—14,太17:10—13,约5:43)。凡是相信旧约圣经的,仰望天国和约定的牧者的圣徒们,唯有迎接并相信了以弥赛亚(救恩者)的名义而来的耶稣的,才能成为真的信仰人(约6:40)。

● 新约圣经中的约定的牧者
初临时来到这世上的耶稣约定还将再来(约14:1--3) 在马太福音第二十三章39节中记载着说“从今以后,你们不得再见我,直等到你们说:‘奉主名来的,是应当称颂的’”。那么,这位奉主的名字而来的到底是什么样的角色呢?他就是真理的圣灵保惠师(约14:16-17,26)。奉主的名字而来的圣灵会住在人的心里。

那么,这位与圣灵同在的人又是谁呢?

施洗约翰是借着以利亚的名字而来(太11:10—14,太17:10—13,路1:13--17) ,耶稣则是奉神的名字而来(约5:43)。同样,这真理的圣灵保惠师也是奉耶稣的名字而来(约14:26)。就像神的灵住在(约14:9--11)战胜了世界的耶稣心里面一样(约16:33),真理的圣灵也会住在蒙拣选的人(得胜者)的心里面的。这个人要得到耶稣在启示录第二、三章中所约定的福分的人,具体说他就是在启示录第十二章中由那个妇人所生的男孩儿;是用铁杖辖管列国的人(启2:26--27);是那个要坐在神宝座上的人(启3:21,启第四章);是战胜了七头十角兽的人(启第十二章)。与在启示录第二十一章7节中所记载的一样,这得胜的成为了神的儿子,并得到神所有的基业。就像神的圣灵住在耶稣里面与其共同做工一样,这在约翰福音第十四章中所说的“奉主的名字而来的保惠师圣灵”也必将与这得胜的在一起且共同做工。相信这约定话语的人,是真正相信耶稣话语的人。若不相信这约定话语的人,就是不相信耶稣和耶稣话语的人。正如前文所述,在约翰福音5:37—39节中耶稣为自己做见证说:这圣经(旧约圣经)就是为自己作见证的而存在的,因为神通过圣经为耶稣做见证,所以这圣经曾是为了证明耶稣的证据。与此相同,耶稣在新约圣经中对保惠师做了见证,所以这新约圣经便成为了证明保惠师的证据。

神应许说在旧约圣经以赛亚29:9—14中的默示必有应验的时候(哈2:2--3)。而且与以西结第一、二、三章的内容一样,神把书卷展开赐给了耶稣(太11:27,约17:8),耶稣按照神的旨意(太11:27),把从神那里得到的启示话语传到了败坏了的以色列人那里去(太15:24)。就在那个时候,应验了以赛亚先知所说的话(赛29:9--13),牧者不但只是按照人的诫命讲授所谓的神学,并且还诬陷传扬神启示话语的耶稣为异端(约第八章)。与此相同,如今在新约中的启示录第五章中也有一本书卷,被严封住了。天上地上以及地底下,没有任何一个人能展开或观看。得胜了的耶稣从神手中接过了这书卷,并揭开了封住书的七个印,然后再把这启示话语晓谕给合其心意的牧者(启第十章)。这启示的话语要传到由神所指定的地方,即多国、多方、多言、多民(启13:7,启17:15)。此时,按照人的诫命讲授所谓神学的人既领悟不了启示话语的真谛,还编造谎言说讲授天上启示的地方为异端。但是,如果是聪明的信仰人,就要对所听到的话语,以圣经为基准,对此加以判断。我们所学的和所信的都要有依有据,而不可狂信或盲信。

遵照圣经,新天地耶稣教正从东西南北四面八方收割聚集灵意上的的麦子圣徒(路13:27—30,太8:11-12,太8:11-12,太24:31,启14:1—4、14--16), 而且在这里还有应验了新约预言的实像。收割时不肯来到此处的人,在接受审判的时候(约12:48,启20:12--15),他不可能说他没有听过此道。此时,就像启示录21:8和22:15中所记载的预言一样,惟有胆怯的,不信的,可憎的,杀人的,淫乱的,行邪术的,拜偶像的,城外有那些犬类,并一切喜好说谎言编造虚谎的,他们都不得进城,他们的分就在烧着硫磺的火湖里,这是第二次的死。同时在马太福音7:2中还说了这样的话,即:因为你们怎样论断人,也必怎样被论断;你们用什么量器量给人,也必用什么量器量给你们。

现在就是我们在圣经面前作自我信仰检验的时候(启22:18—19,参照 申30:1—20)。新天地耶稣教的所有圣徒们都在坚持不懈地做祈祷,祈祷所有的人都能相信新约的预言和应验了这预言的实像,并且得到神所要赐予的救恩。

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2014년 12월 6일 토요일

耶稣基督的永生论

耶稣基督的永生论




由创造主神所创造的天地是永恒存在的。但是在地上生活的一切生物的寿命却是有限的,虽然天上的太阳、月亮、星星、云彩和风都是不变的。圣经记载说“神按照找自己的形象和样式造了人”(创1:26—27)。这“人”被称为神,因为其具有属神的灵性(神性)(诗82:6,行17:29)。但这个“人”(亚当和夏娃)因在蛇的诱惑下吃掉了善恶果,结果导致这“人”从有灵性的人归为了肉身。由此,神对人的寿命加以了限定,这人指的就是那些过去曾为神的儿子但现在归于了肉身的人们(创3:19,6:1--3)。所以使徒保罗说了此话,即:在首先的人亚当里众人都死了;照样,在基督里众人也都要复活(哥前15:21--22)。人,是死还是是活,结果取决于其是吃了什么样的果子,是神所赐的生命树的生命果,还是魔鬼所种下的善恶树之善恶果(创2:9、17,3:22,约14:6)。就像使徒保罗所作的见证一样(哥前15:26,51--54),在亚当犯下罪后,神差遣了众多的同工来到这片地上,就是为了消灭死亡,使得这世界恢复到被创造时的最初状态,直到永生(启20:12—15,21:3—4 )。

众多的神学院和牧师们并未能知晓神的旨意,就是因为神没有把真道告诉给他们(赛29:9—13,启5:1—3 )。不理解圣经的真谛并不是神学院和牧师们的罪过。但如果有人强解经书(彼后3:16),这种所作所为就说明强解圣经的人既不了解圣经,还是一个非常傲慢的人。在神的书卷被展开之前,人不得不讲授或领受人的诫命。但是若这书卷已被展开了的话,那么至此,人们就不能再讲授或领受人的诫命了。假设亚当当时没有吃下善恶果,没有犯下罪的话,那么他死后还会归于土吗(创3:19)?

关于耶稣基督的永生论,请参照下文。

有人不但不理解圣经的旨意而且行逼迫。我们为了避免遭到类似不必要的逼迫,就按照耶稣在新约圣经中的原话,一五一十地论证有关耶稣基督永生论这个主题。

( 约 8:47-55 ) 出于神的,必听神的话。你们不听,因为你们不是出于神。* 犹太人回答说,我们说,你是撒玛利亚人,并且是鬼附着的,这话岂不正对吗? * 耶稣说,我不是鬼附着的。我尊敬我的父,你们倒轻慢我。 * 我不求自己的荣耀。有一位为我求荣耀定是非的。 * 我实实在在地告诉你们,人若遵守我的道,就永远不见死。 * 犹太人对他说,现在我们知道你是鬼附着的。亚伯拉罕死了,众先知也死了。你还说,人若遵守我的道,就永远不尝死味。* 难道你比我们的祖宗亚伯拉罕还大吗?他死了,众先知也死了。你将自己当作什么人呢?* 耶稣回答说,我若荣耀自己,我的荣耀就算不得什么。荣耀我的乃是我的父,就是你们所说是你们的神。* 你们未曾认识他。我却认识他。我若说不认识他,我就是说谎的,象你们一样,但我认识他,也遵守他的道。

( 约 11:25-27 ) 耶稣对他说,复活在我,生命也在我。信我的人,虽然死了,也必复活。 * 凡活着信我的人,必永远不死。你信这话吗? * 马大说,主阿,是的,我信你是基督,是神的儿子,就是那要临到世界的。

( 罗 8:9-11 ) 如果神的灵住在你们心里,你们就不属肉体,乃属圣灵了。人若没有基督的灵,就不是属基督的。 * 基督若在你们心里,身体就因罪而死,心灵却因义而活。 * 然而叫耶稣从死里复活者的灵,若住在你们心里,那叫基督耶稣从死里复活的,也必借着住在你们心里的圣灵,使你们必死的身体又活过来。

( 启 21:1-4 ) 我又看见一个新天新地。因为先前的天地已经过去了。海也不再有了。 * 我又看见圣城新耶路撒冷由神那里从天而降,预备好了,就如新妇妆饰整齐,等候丈夫。 * 我听见有大声音从宝座出来说,看哪,神的帐幕在人间。他要与人同住,他们要作他 的子民,神要亲自与他们同在,作他们的神。 * 神要擦去他们一切的眼泪。不再有死亡,也不再有悲哀,哭号,疼痛,因为以前的事 都过去了。

( 约 14:16-17 ) 我要求父,父就另外赐给你们一位保惠师,(或作训慰师下同)叫他永远与你们同在。 * 就是真理的圣灵,乃世人不能接受的。因为不见他,也不认识他。你们却认识他。因他常与你们同在,也要在你们里面。

( 约 14:20 ) 到那日,你们就知道我在父里面,你们在我里面,我也在你们里面。

( 启 3:20 ) 看哪,我站在门外叩门。若有听见我声音就开门的,我要进到他那里去,我与他,他 与我一同坐席。 ( 加 4:6 ) 你们既为儿子,神就差他儿子的灵,进入你们(原文作我们)的心,呼叫阿爸,父。

此上的经文,说的仅是灵能得永生,还是肉体也能得到永生呢?难道在天国里也会有死亡吗?

耶稣曾说“人唯有成为借着水和圣灵而蒙重生的被造之物才能进天国”(约3:5—7,哥后5:17)。而且使徒保罗也说“人若要变化,这必死的总要变成不死的;这必朽坏的总要变成不朽坏的;死被得胜吞灭”(哥前15:51--54)。难道我们要否认这些话吗?

耶稣背负起了十字架的理由大体上可以分为两个部分:一是为了使人的罪得赦免;另外就是神和耶稣要与无罪的人合为一体(哥前3:16,约14:20,启3:20,加4:6,罗8:9 )。如果成为了活在耶稣和神里面的人的话,曾为必死的身躯必成为不死的,就像死了又复活了的拿撒路一样,这样的人也不会品尝到死的滋味(约11章)。

属神的人就是听了并相信神道的人。如果听了神道却不相信的话,这就证明其是不属于神的(约8:
46--47)。施洗约翰是以以利亚的名字而来(太11:10—14、17:10—13,路1:13--17);耶稣是奉神的名字而来(约5:43);真理的圣灵保惠师则是奉耶稣的名字而来,而且还住在蒙神拣选的人里面(约14:16—17、26,启10章)。

因为真理的圣灵与新天地耶稣教同在,使得新天地耶稣教人通晓了圣经,而且还十分准确地传扬圣经。无论是混沌中的人还是醒悟的人,都不要行逼迫。还是从现在起就悔改吧,来到这传扬真理的地方学习神的正道才是上策。新天地耶稣教以圣经为依据,如实地讲授圣经,难道这有什么不对的吗?若在新天地耶稣教所讲授的圣经知识中,有任何一处与圣经相悖的话,就请用圣经来对此加以论证。不了解圣经真谛的人,为什么在背后对新天地耶稣教指手画脚的,还捏造谎言说新天地就是像加尔文主义一样的异端呢?在我们新天地耶稣教看来,因为强解圣经而编造出来的教理才是有悖于圣经的异端教理。

在我们心中真爱、宽恕和真理,我们会坚持不懈地为普天下的人们祷告,求神的的爱和恩典充满全世界。

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2014년 12월 5일 금요일

真言和谎话

真言和谎话




真理是从神生的,谎话则是从魔鬼而生的(约 8:41-47)。

新天地牧者曾与某一牧师进行过一次书面上的论争。只是在事发之前,新天地的牧者根本不知道对方要拿什么样的理论以什么形式来进行辩论。经过几个回合的争论,结果发现对方只不过是对新天地的牧者进行人身攻击罢了,其所提出的问题根本就没有涉及到任何有关圣经的解释或见证。此举动完全丧失了作为牧者间对话的价值。因此,新天地牧者提议“不要人身攻击,而是用圣经上的道来进行对话。如果对方能回答出来新天地所提出的有关圣经内容(与经文相关联)的40道题,那么新天地方面就将继续进行这场书面上的论争;若回答不上来,那么新天地就将停止这场对话”。新天地认为这种单方面地进行人身攻击的行为,完全是作为牧者缺乏教养的举动。此后新天地给对方出了40道有关圣经话语的问题。但是对方牧者不仅没有回答上来40道中的任何一道题,反倒是在网上发表了一篇主题为与新天地书面论证得胜的文章,但对于新天地所出示的40道问题却是只字未提。这完全是一意孤行的举动。

此后,对方牧者到警察局投诉了新天地牧者。所以就因为这件事新天地的牧者与那位牧师在警察局见了面。当时双方决定再次会面。于是就在第二天两人便见了面。对方牧师为了壮胆又多领了两个人来。新天地的牧者把录音机放到桌上说:“为什么没能回答上来我们所提出的40道问题,又怎么能大肆地主张自己取胜了呢?现在再问你10道题,请对此做出答复”。随后,问题一道道(经文)地念给了他听。可还不到5分钟,那位牧者不但没能回答出所提出的问题,还又硬找借口说有约会,起身就逃走了。那么在这场书面论争中,到底谁是赢家谁又是败家呢?

谎话是绝不可能变成实话,实话也无法变为谎话。与其说谎话来讨人喜欢,还不如说真话来讨神的喜悦(参照加1:10)。我们新天地耶稣教,奉神的旨意和指示,力求向所有的信仰人见证那天上地上无人知晓的从天而来的启示神学(启 10章)。因为这是我们新天地的使命。凡接受启示真道的就能明白真神(太 11:27),并且还认得神与神所差来的使者,从而能得到所期望的永生(约 17:3)。让我们在凡事上确认、领会并相信真理吧。愿我们每一个人都能成为得到真正救恩的信仰人吧。

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2014년 12월 4일 목요일

真言和谎话

真言和谎话




真理是从神生的,谎话则是从魔鬼而生的(约 8:41-47)。

新天地牧者曾与某一牧师进行过一次书面上的论争。只是在事发之前,新天地的牧者根本不知道对方要拿什么样的理论以什么形式来进行辩论。经过几个回合的争论,结果发现对方只不过是对新天地的牧者进行人身攻击罢了,其所提出的问题根本就没有涉及到任何有关圣经的解释或见证。此举动完全丧失了作为牧者间对话的价值。因此,新天地牧者提议“不要人身攻击,而是用圣经上的道来进行对话。如果对方能回答出来新天地所提出的有关圣经内容(与经文相关联)的40道题,那么新天地方面就将继续进行这场书面上的论争;若回答不上来,那么新天地就将停止这场对话”。新天地认为这种单方面地进行人身攻击的行为,完全是作为牧者缺乏教养的举动。此后新天地给对方出了40道有关圣经话语的问题。但是对方牧者不仅没有回答上来40道中的任何一道题,反倒是在网上发表了一篇主题为与新天地书面论证得胜的文章,但对于新天地所出示的40道问题却是只字未提。这完全是一意孤行的举动。

此后,对方牧者到警察局投诉了新天地牧者。所以就因为这件事新天地的牧者与那位牧师在警察局见了面。当时双方决定再次会面。于是就在第二天两人便见了面。对方牧师为了壮胆又多领了两个人来。新天地的牧者把录音机放到桌上说:“为什么没能回答上来我们所提出的40道问题,又怎么能大肆地主张自己取胜了呢?现在再问你10道题,请对此做出答复”。随后,问题一道道(经文)地念给了他听。可还不到5分钟,那位牧者不但没能回答出所提出的问题,还又硬找借口说有约会,起身就逃走了。那么在这场书面论争中,到底谁是赢家谁又是败家呢?

谎话是绝不可能变成实话,实话也无法变为谎话。与其说谎话来讨人喜欢,还不如说真话来讨神的喜悦(参照加1:10)。我们新天地耶稣教,奉神的旨意和指示,力求向所有的信仰人见证那天上地上无人知晓的从天而来的启示神学(启 10章)。因为这是我们新天地的使命。凡接受启示真道的就能明白真神(太 11:27),并且还认得神与神所差来的使者,从而能得到所期望的永生(约 17:3)。让我们在凡事上确认、领会并相信真理吧。愿我们每一个人都能成为得到真正救恩的信仰人吧。

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2014년 12월 3일 수요일

逼迫与祝福 (善与恶)

逼迫与祝福 (善与恶)


<逼迫>
分辨善与恶的基准就是圣经(约 10:35)。生命树就是与神同行的人,而善恶树则是与撒但同行的人(约 15:1-8,但 4:20-22)。
行逼迫、诅咒、杀死人灵魂的都是与撒但恶灵同行的人;相反,祝福人的则是与神的圣灵同行的人。在圣经6千多年的历史中不难看出,属肉体的以色列人遭到了来自外邦埃及人的逼迫及虐待(出 1:10-14,3:9-10);初临时耶稣也遭到了惨不忍睹的逼迫。而这行逼迫的正是作为自己百姓的属肉体的以色列人(太27章,约 5:15-18)。今天,新天地也同样遭到了来自于属灵以色列的逼迫。神曾经确实与摩西、耶稣在一起同行。而现在,神和真理之圣灵与新天地同在(启 21:1-3)。有行逼迫的就有受逼迫的;还有赐祝福宽恕并爱那些逼迫自己的人(太 5:44)。在圣经6千多年的历史长河中,遭到最严重迫害的就是耶稣以及跟随其的门徒们(来 11章),紧随其后的可谓是今天的新天地耶稣教了。
在属灵的世界里存在圣灵和恶灵。而这恶灵本非为恶,乃是原本是由神所创造的众天使中的一名。但就是因为这灵离开了自己的本位和住处,结党与神对抗,结果成为了恶灵(赛 14:12-15,犹 1:6)。这恶灵降到人间,进到人的里面行恶,结果遭其利用的人也成了“恶人”。但问题在于,灵是用肉眼看不见、用手摸不着的,更没有任何气味。那么怎样才能分辨得出一个人是与圣灵同在还是与恶灵狼狈为奸呢?圣经晓喻众人的就是怎样分别善与恶,因此惟有通过圣经才能对此加以正确地判断(约壹 4:1-6)。所以对于信仰人来讲,圣经是必不可少的。凭着果子,便可识别出此树为何树;凭着一个人的一举一动,就可以识别出住在其里面的灵来(太 7:15-20)。
因为摩西成就了神与亚伯拉罕所立的约,由此我们便相信摩西就是属神的牧者;与此恰恰相反,法老(埃及王)万般阻挠神的百姓和神国历史,从而我们便可以得出结论:法老是行恶的人。同样,耶稣按照神与旧约先知们所作的约定而来;又按照约定成就了相关的预言,因此我们完全有理由相信耶稣就是那由神所要差遣来的约定的牧者(约 5:39-40,约 19:30)。依此类推我们还可以得出这样的结论,即当时的法利赛人及大祭司们,处处阻扰为神做工的人或事,是行恶之辈。今天,这新天地耶稣教的牧者就是按照新约的约定而来的约定的牧者(约 14章),并且按照其新约的约定成就着其新约,因此可以知道他的的确确是神的牧者。然而,那些阻碍成就神所约定的和新天地的人就是行恶的人。
<祝福〉
耶稣治好了很多病人(约 5章);使死人起死回生(约 11章);仅用五饼和两鱼喂饱了众人(太 14:16-21);传讲了真理和启示之道(约 17:7-8,17),并赐祝福给万民,为万民牺牲了自己的生命,最后复活升上了天上(太 16章)。这些就是神所赐予的祝福。
<诅咒〉
正如在路加福音第二十章里所记载的一样,当时属肉体的以色列大众祭司,他们明明知道耶稣就是那承受神基业的,是神的爱子,但也不愿交出葡萄园(教会)。他们不仅不信耶稣,还凌辱、诅咒、行逼迫、捏造各种谎言,甚至以异端的罪名来排挤耶稣,最后还把他钉死在了十字架上。这些都是诅咒。
在我们这属灵的以色列人看来,当时(耶稣初临时)的异端究竟是谁,受恶灵掌控的人又是谁呢?答案是肯定的:就是当时的大祭司人们(约 8:40-44);还包括那些听从并遵照那些大祭司的话一同诅咒、谩骂耶稣的人们(太 27章)。历史和圣经都在为当时所发生的事情做着见证。那么,当时的这些人为什么会如此地残忍呢?就是因为他们受了恶灵的摆布。如今的基督教信仰世界处在末日,与初临时一样,万国都在撒但迷惑下沦为了属撒但的世界(启 18章)。这些预言早已在新约圣经启示录里被记载了下来。也就是说,万国吞吃下了属撒但的善恶果,领受了撒但的教训(启 2:14-15,2:20-21),敬拜撒但。
从初临时算起,在大约历经了2千多年后的今天,让我们回顾一下儿初临耶稣所作的预言吧。即:当人子再来的时候,遇得见世上有信德吗(路 18:8)?侍奉主的两个见证人会遭到杀害(启 11章)。因不法盛行于世,灭亡者将把持圣殿并站在其上(太 24章)。在启示录17章和18章里面记载说,万国会吃偶像的祭物,并遭迷惑倾倒在淫乱的酒之下,与魔鬼新郎成亲。就在这个时候究竟是谁杀死了主的使者呢?是与主同行的约定的使者,是不信的人,是外邦人,是一般的牧者还是一般圣徒呢?试问,那行逼迫、诅咒、杀死与主同行的,就是在新约里所立的约定的使者,作恶的这些人的灵是属乎恶灵的呢,还是属乎圣灵的呢?这些人的所作所为并不是出自于圣经和圣灵。而是随心所欲地做着所谓“荣耀自己的事情”,是出自于恶灵的行为。这才是对他们最正确的评价。
新天地耶稣教的牧者,与初临耶稣时候一样,是应验了新约圣经而来的,成就了圣经中的预言。他所传扬的并不是人的诫命,而是由其所见证了的从天而来的启示之道和成就了的实像话语(启 10章)。传扬神的真道,这有什么错误吗?圣经指着今天说,人子的降临,好像诺亚的日子,又好像罗得的日子一样(太 24:37-39,启 11:8)。我们可以想想看,在这最后的日子里会发生什么的事情。如果想得到救恩的话,那么就务必要来到这受逼迫的地方,只有这样才能得救恩。就让我们以历史为鉴,不要再重蹈覆辙了。
属神的圣灵所行之事乃为宽恕与仁爱,圣灵做工的地方就是预言得到成就的地方。在这个地方既有启示之道,也有祝福的话语,还有神见证的道。但恶灵魔鬼的行为则是诅咒、行逼迫、论断人、捏造谎言、行批判以及杀害人的灵魂等。作恶的是离开自己本位和住处的人,是结党迷惑他人的人,是与魔鬼行淫的人(犹 1:6,17-19)。今天与初临时一样,如果一个人未能得到在启示录中所约定的启示之道的话(启 10章),那么他就不可能认得出以及由神所差遣的使者,也不可能得到救恩(太 11:27,约 17:3)。凡是相信神与耶稣的信徒们都要都到有启示之道的地方去,只有这样才能得到神所要赐予我们的救恩。
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2014년 12월 2일 화요일

神的国度天国

神的国度天国


圣徒们的信仰目的就是天国和永生。神、耶稣和众天使们一同生活在天国里面。那么这个天国在什么地方呢?对于这个地方,虽然全天下人都不可知,但是新天地耶稣教的圣徒们却知晓这一切。
佛教信徒僧人们,削发上山,进庙修道。但他们不是为了单纯地佛经而上山修身养性,而是冲着释迦牟尼而去的。 同样,天主教的神父和修女们,他们选择抛弃了属世的生活,选择离开家人走进修道院。也不是单纯地为了到修道院生活而去,乃是冲着天主而去的。那么,释迦牟尼和天主果真的是在这些地方吗?
创造了天地的创造主神曾住在伊甸园。因为当时伊甸园的人们犯下了罪,神离开了人类(创第六章1—3节)。基督要向那等候他的人,也就是与罪无关的人第二次显现(来9:28)。曾经因为罪离开了人类的神,要与这些无罪的人同在。
在旧约圣经中,曾约定好要来到这个地上的神、天国和天使们都临在了耶稣一个人身上。但是当时属肉体的以色列(日头、月亮、星星:以色列,创第三十七章9—11节)处于黑夜(黑夜:没有光)的状态,他们不但厌恶诅咒辱骂神和天国,更是没有走向神和天国。如果说天国、神与耶稣同在的话,那么走到耶稣的面前,就相当于走到了天国,也相当于走到了神的面前(约14:6)。在当时的以色列人中光芒不见,生活在黑夜里。但光照在黑暗里,黑暗却不接受这光(约1:5)。成就着新约的今天,如果看启示录第三章12节的话,神、耶稣还有天国都临在得胜者之上。如今作为属灵的以色列,如果真的相信圣经和神的话,如果真的想与神和耶稣在天国里同在的话,那么就务必要走到在新约圣经中所说的神和耶稣还有天国所在的地方去。那个地方就是约定的牧者得胜者所在的地方。得胜者与耶稣一同坐在了神的宝座之上。他得到了辖管列国的铁杖,得到了行审判的白石,还得到了永生的粮食,并且把这永生之粮分给受了神印的十二支派的圣徒们(启第二、三章)。相信圣经的人会在确认了事情真实与否而坚信自己的信仰;不相信圣经的人则会行逼迫。但是救恩只会赐给相信圣经的人。

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2014년 12월 1일 월요일

新旧约中的约定的牧者

新旧约中的约定的牧者



 1. 旧约中的预言和约定的牧者
如果看玛拉基书第三章第一节经文的话,神差遣预备道路的使者,并预言说人们所寻求的主必忽然进入那预备道路的使者的殿中。还说神要将基业赐给其爱子,并赐给他辖管万国的铁杖,让世人都领受神的管教(赛 2:7-12)。神的爱子早已在圣经中被约定好了:出生于伯利恒(弥5:2),由童女而生(赛7:14);代替世人的罪背负起十字架(诗40—41篇),赐人们救恩;撒下天国福音的种子(耶 31:27)等,这些内容在圣经中均有记载。
从立约(耶31:22)算起后约过了六、七百年,应验了预言由童女生下了神的儿子,而且神与其同行,成就了旧约的预言(约19:30)。耶稣战胜了世界(约16:33),终结了属肉体的以色列和摩西的律法时代。与此同时,耶稣还创建了属灵的以色列十二支派。耶稣立了约,在撒下了天国福音种子之后,其必要为了收割而再来(太13:30,36-40)。这即是我们如今所说的新约。
 2. 新约中的约定的牧者
我们不要怀着半信半疑的态度来对待初临和再临的历史(旧约的成就和新约的成就)。而是要怀着一颗正义的心来正确地看待这一应验了约定而出现的实相,要清清楚楚地知晓这应验了约定而出现的实相是谁要赐给谁的。
神首先开启了预备道路灯台的历史,好让耶稣成就这一切(启第一章12—20节)。得胜者由妇人而生(启第十二章)。神拣选其为爱子并把所有的基业赐给他(启21:7)。耶稣展开了被封严住了的默示书卷,把这开启的书卷赐给了得胜者并让其吃尽(旧约:赛29:9—14,哈2:2—3,结1,2,3章,太15:24 / 新约:启第五章,第六章,第八章,第十章),同时还命令其指着多民、多国、多方、多王再说预言。依据在启示录第二、三章中所记载的内容看,就像神把万事交给了耶稣一样,神也把永生的粮食、审判的白石和铁杖交给了这位得胜者;而且圣城新耶路撒冷还临在得胜者之上,所以得胜者本身就成为了圣殿。还好比在耶稣在战胜了世界后与父合为一体一样,得胜者也得到了坐到耶稣的宝座之上的权柄。
初临耶稣战胜了世界,终结了律法、预言和先知(路第十六章16节)。然后创建了属灵的以色列十二支派(启第十二、七章)。
就象耶稣按照旧约预言(耶31:27)撒下了天国福音种子一样(太第十三章),如今按照新约的预言耶稣像贼一样来到这个世上收割麦子圣徒;把神印印在这些圣徒们的额上,创造属神国的十二支派(太24:29—31,贴前5:1--11)。与耶稣初临时宣扬天国近了一样(太4:17),今天蒙拣选的牧者得胜者也在宣扬着天国近了这一事实(路13:28--30)。
对于初临与再临,两个时代的历史、预言和成就,就让我们通过圣经来核实并相信吧。即便是查考了圣经也不知道圣经所要晓喻我们的旨意,这种信仰状态就是信仰中的大疾病患,是有罪的。
初临时耶稣用自己所洒下了宝血立下了新约(太第二十六章26-29),又靠着这宝血买来了众人,使他们在再临时成为神的国度和祭司,也就是属灵以色列十二支派(启第五章9—10,第七章,第十四章);同样还借着这宝血洗净了数不清的人所穿的白衣。相信圣经的约定也就是预言的人,都要在确认的情况下相信而非盲信,只有这样才能得到神所要赐予的救恩。就让我们成为学唱在新约中所约定好了的新歌的天国百姓吧。

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