2014년 12월 17일 수요일

初めの御言葉と自由と平和

初めの御言葉と自由と平和

(本文:ヨハ1:1-5(ヨハ8,17章))



初めの御言葉と自由と平和は、どんな事だろうか?

罪悪に捕虜となった人が、真理の御言葉を悟って、罪悪から抜け出る事が自由であり、平和である。



(ヨハ1:1-5)初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(しかし、やみはこれを悟らなかった。)



初めの御言葉が神様であられ、万物がすべて初めの言葉で造られた。初めの言葉の中にいのちがあった。このいのちが人々に光を照らした。このいのちの御言葉が、すなわち、神様の種である(ルカ8:11)。私たちが新しく生まれなければならない事も、神様のいのちの御言葉でである(Ⅰペテ1:23)。神様の種で生まれた神様の息子イエス様も、初めの御言葉であった(Ⅰヨハ1:1)。

肉で生まれたものは肉であり、霊で生まれたものは霊である(ヨハ3:8)。地から生まれた者は地に行って、天から生まれた者は天に行く。私たちが聞いて、学んだ世の知識と教訓ではなく、天のものを聞いて、見て、学ぶのであり、これが宗教である。

本文の光(いのち)が暗やみ(御言葉がない者)に輝いたが、暗やみが悟れなかったと言われた。

人々が教会に熱心に行く。牧師の言葉を聞いて、「アーメン」と言う。忠誠して、献金もたくさん出す。彼らは長老、歓士、伝道師、執事などの使命を受けた。そして、信じる。何を信じるのか?牧師の言葉である。イエス様は、当時の牧師たちとその教徒たちに天の福音、すなわち、御言葉をあかしした。しかし、彼らは信じず、かえって、イエス様に悪霊がついていると言って、イエス様のあかしを異端だと言った。これが当時の暗やみの人が言った言葉である。

もし、彼らが記録された旧約の御言葉を信じたならば、その御心を悟ったならば、約束の御言葉を待っていたならば、旧約の預言とその成就についてのあかしを確認して、信じただろう。信じなかった暗やみの人々は、神様の御言葉について関心もなく、わかりもしないので、信じず、自分の牧者から世の言葉、世の事、人の戒めだけを学んだので、学んだ事と異なるので、信じず、かえって、異端だと言ったのである。

神様の使者は、神様から見て、聞いた事と約束した預言が成就された事を指示に従って伝えるのである。しかし、聖書も、約束も信じず、また、わかりもしないのに、どうして約束の牧者の御言葉を信じるだろうか?

天地を創造した創造主神様がおられて、代言の使者(旧・新約の預言者たち)を通して、歴史と教訓と預言と成就を知らせて、記録させたので、その記録されたものが旧・新約聖書である。記録された御言葉は、神様の御心であり、約束である。それゆえ、約束の御言葉の意味をわからなければ、その御心通りできない。聖書にどんな御言葉があるのか、何を私たちに約束されたのか、わからないので、牧師の言葉だけ信じて従うのが、今日の信仰人の現実である。

神学校に聖霊がないので、御言葉がなく、御言葉がないので、人の戒めだけを教えて、人の戒めだけ学んだ牧師が、自分の教徒に人の戒めを教えたので、これは神様のまことの御心と関係がないのである。地から生まれて、地のものを学んだので、これは宗教ではなく、世の人で、世に属したので、どうして天のものをわかる事ができるだろうか?地から生まれたので、地に行くのであり、神様の御心通り天のもので再び生まれるならば(Ⅰペテ1:23)、天に行くだろう。天のもの、すなわち、宗教についてわからないので、光、すなわち、いのちの御言葉(啓示)を伝える時、光がない夜である人が、どうしてこれを悟れるだろうか?

約束の牧者が伝える御言葉(新約の啓示の御言葉)が自分たちと合わないので、異端だと言ったのである。自分たちのものは世のものであり、イエス様が下さるものは天のものであった。どうして天と地が同じだろうか?

使徒パウロの言葉を聞いて見る。使徒パウロは、律法に傷がなく、知識においては誰にも劣らない大学者であった(ピリ3:6)。彼が自分が知っている律法によってステパノを石で打って殺した(使7:58-59、*使13:9 パウロ=サウロ)。このパウロがイエス様の光を受けた後、話す言葉を聞いて見る。



(ガラ1:11-12)兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

このパウロは、自分が信じたもの(律法)も、自分が人から学んだ知識も、ちりあくたのようにみんな捨てて、天から来る啓示の御言葉を伝えたので(ピリ3:8-9)、この御言葉が、すなわち、本文の初めの御言葉であった。

人は、自分よりも優れたものがある時は、自分のものに対する信仰がなくなる。さらに優れたものを持つようになる。

イエス様の初臨の働きの後、2千年が過ぎた今日、地球上の信仰は、どうだろうか?お金さえ払えば牧師にもなって、会長にもなる。御言葉よりも世をさらに好む。神様の御心よりもお金を好んで、お金と権威と名誉のために牧者になろうとする。それゆえ、真理よりも名誉と権威を信じる。諸教会は、まるで牧者たちの職業のための会社になっている。聖徒たちは、神様と御言葉より牧者の言葉をもっと好む。これによって教会は、人間による、人間の一つの組織体になったのである。

地球上には、数多くの教会と牧者と教徒たちがいる。しかし、ただの一人も天国に入る資格者はいない。みんな腐敗したので、末世になった。記録されたように、聖書の御言葉を神様だと言われた(ヨハ1:1)。「目に見える」神様であられる。この偉大な神様を本当に好んで、愛するならば、貴重に思って従うだろう。まことの神様を信じる人は、御言葉を信じて、この御言葉の意味通りするだろう。これが信じる者である。

第一ヨハネ1:1に、初めの御言葉がイエス様であった。本当にイエス様を愛して、信じる者であるならば、イエス様の御言葉を信じるであろう。なぜ、信じないのか?なぜ、その御心をわからないのか?イエス様の御言葉を信じず、その御心をわからないという事は、聖霊が共にいないという証拠である。

聖徒は、誰に学ぶ事を望むのか?イエス様の聖書である。イエス様の生前には、私の目の外におられる(私の目に見える)イエス様を見て信じた。しかし、亡くなられた後には、イエス様が私の中に入っておられるので、私の中におられるイエス様を信じて共に生きる(ガラ2:20)。イエス様は、これによって十字架にかかられて亡くなられた。神様とイエス様が私の中におられるならば、その約束の御言葉と御心を知って、その御心通りするだろう。

啓示録は、神様とイエス様の御心であり、成し遂げられる事である。これを成し遂げて、伝える時、信じない理由は何なのか?悪魔の子、毒麦だからである。それゆえ、神様の真理の種で再び生まれなければならない。

私(筆者)は、私が見て、聞いた啓示録を世の全ての諸教会に知らせてあげたい。これは、神様の最後の働きである。これをわからなければ、救いがなく、わかるならば、救いを得るようになる。アーメン。

댓글 없음:

댓글 쓰기