2014년 12월 30일 화요일

三種類の人

三種類の人


―神様の種で生まれた者、悪魔の種で生まれた者、未信者―

(本文:啓21:8(創6:1-3))




三種類の人は、各々どんな者であり、私は、この三つのうちのどこに属するのか?

世には、いろいろな宗教があり、未信者もいる。神様が天地を創造されて、生死禍福が神様からあるという事は、全ての宗教が一致して考えている。

しかし、彼らの経書と行動は、各々違う。それゆえ、死後の世界で祝福を受けるという内容と、現世で祝福を受けるという内容も互いに違っている。これは、いろいろな経書の神がみんな異なる神だという事になる。では、どんな宗教が一番完全な宗教なのか?これは、各宗教人たちの経書を照合して見なければならない。もう一つは、自分の宗教の経書に通達する宗教人は一人もいないという事である。知っている事と教える事は、自分の判断、恣意的な考えで世の中に従って、人の戒めで教えている。

経書の系図や流れを見る時、果たして、自分が信じる宗教の創始者が神様から何パーセントくらい聞いて見た事を記録したのか?

キリスト教の聖書を見ると、どの時代の、誰の息子で、どの時からどの時まで、何年間聞いて見た事を、何章何節に記録したと言い、このように聞いて見た預言者が数十名いて、神様は、各々に将来の事の一部を知らせて下さって、彼らの事を総合すると、預言した実体がいつ、どこで、誰によって、どんな事の後、現れるのかが出ている。しかし、このような内容(預言)は、聖書の一部であった。

キリスト教の聖書(旧・新約)といろいろな宗教の記録を見ると、約束した預言と成就に関する内容が見えず、結論もなく、一般的な内容に過ぎない。また、約束が成就された事があってこそ、信じる心があるのである。イスラム教の経書とヒンズー教の経書と仏教の経書も、預言とその成就に関するものは、一部に過ぎず、キリスト教のアダム・ノア・アブラハム・イエス様についてのあかしも一部に過ぎず、キリスト教の新約の啓示録に対しては、そのあかしした事が「あまりにもない」というほどである。宗教の結論は、啓示録に結論が出て来るようになっている。しかし、このような預言と成就がなければ、何を望んで経書を信じるのか?

人が善良で、善行を行うという事は、信仰の基本であって、預言にも、成就にもなれない。このような事が現れる時、すなわち、これを成し遂げる時、見て信じなさいという(ヨハ14:29)約束があってこそ、その約束を信じて、信仰する事ができる。何の約束も契約もなく、何を信じなさいというのか?

経書を通して神様の御心を本当にするならば、また、天の啓示があるならば、仏教もすでに昔、すなわち、2千年前に終わらなければならないし、キリスト教の先天であるカトリックも新約の啓示録が成就されたこの時は、終わらなければならない。終わらないと言って、終わらないのではない。神様の御心とされる事があるので、終わるのである。仏教のように(2千年前に終わらず)今まで延長させたと言って認められるものではない。

各宗教は、善良で良い行いをたくさんして、献金をたくさんして、奉仕をたくさんすれば、極楽・天国に行くという神の信仰をして来た。極楽と天国は、どこにあるのか?道は、天国を探して行く道である。そして、「創造主、神様がどこにおられるのか?」と聞くならば、どこにいると指摘できない。患難の時の避難所がどこにあるのかも見えない。そうしながら極楽・天国に行くと言い、忠誠、奉仕しなさいという言葉自体が合わない。生きて目が覚めていても行かれない天国を死んだ者が、どのように探して行く事ができると言うのか?宗教を立てて、人々をだまして、私欲を満たす事は、地獄を自ら招く行為である。

キリスト教の経書は、神様と天国がどこにあるという事を、詳しく知らせていて、避難所も、死んだたましいたちが行く所も、目で見る事ができるように詳細に伝えている。それだけではなく、この世に誰が来て、どんな事をするのかと、天国に導く人が、いつ、どこに来るのかも、詳細に知らせている。

自分が信じて、参考にしている宗教と経書が、本当に信じるくらいなのか、自分の宗教の経書と違う宗教の経書と照合して見なければならない。盲従になって、無条件、人の言葉だけ信じて従うおろかな信仰は、地獄に行くしかない。宗教と言って、みんな宗教ではなく、牧者と言って、みんなまことの牧者ではなく、経書と言って、同じ経書ではなかった。無知、無識な者が、どうして天国に導けるだろうか、自分もわからないのに。

宗教と宗教人(信仰人)は、二種類がある。まことと偽りの二種類である。これは、神が二種類だからである。悪魔の神による宗教と、まことの神様による宗教がある。そして、まことの神様による宗教の信仰人(神様の種で生まれた者)と、悪魔による宗教の信仰人(悪魔の種で生まれた者)がある。もう一つは、肉体にあって宗教をしない不信者である。不信者は、天国に入る事ができないが、偽りの宗教人よりは善良だと思う。その理由は、偽りを教えて、お金をもらう事がないからである。これが三種類の人である。

二つの教団が争う事は、同じ神と道ではなく、同じ宗教の信仰ではないからである。これは、神様と悪魔との戦争と見なければならない。しかし、宗教人は、不信者とは、戦わない。その理由は、不信者は、神を持っていないからである。

天国は、まことの神様の同を完全に悟って、信じて、その御心通りした者だけが行く事ができる。神様の実心もわからないのに、形式的な信仰をする者は、無駄骨を折ることになる。昔も今も、まことの信仰をする人は、悪魔の信仰人に迫害されるようになる。これによってまことの信仰人と偽りの信仰人をわかるようになる。審判の時は、迫害される人は天国に、迫害する者は地獄に行くようになる(啓21:8参考)。これは自分の行いによって聖書に記録された言葉で審判されるのである(啓20:12)。

誰でも神様の種と聖霊で再び生まれてこそ、天国に入る事ができる。アーメン!

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