信仰と惑わし
本文:ユダの手紙(マタ24:4、ルカ13:23-30、ガラ3:23-29)
信仰と惑わしはどのようなことを言ったのだろうか。
パウロはアブラハムを信仰の父祖と言い、アブラハムについては「行いによっては義と認められないが、信仰によって義と認められた。」と言った(ロマ4:1-11)。
惑わしについては、イエス様が終わりの時、人に惑わされないように気をつけなさいと言われた(マタ24:4)。創世記3章に、エバが蛇に惑わされて善悪の知識の木の実(善悪の実)を食べて死んだ。このアダムとエバが惑わされた後、身を隠し、神様の御前に現れもせず、惑わされる時も神様に尋ねもしなかった。これは、すでに精神が蛇に奪われたからである。
マタイの福音書4章で見たように、イエス様は蛇、すなわち、悪魔の試みにあった時、御言葉によって戦って勝利した。今日、私たちの中では大勢の人々が敵の群れの試みに会って惑わされたが、勝利した者たちがたくさんいる。記録されたように、サタンも自分を光の御使いに変装し、サタンの手下どもも義のしもべに変装すると言った(Ⅱコリ11:13-15)。私たちの信仰は、人の肉体よりもまず、御言葉である。御言葉があれば、試みから勝利するだろう。
試みる者がいて、A、B、Cの人がいる。AとBは試みから勝利した。Cは試みに負けた。勝利した者と負けた者がいるので、彼らは各々どのような者なのか。AとBは御言葉が十分にあり、一方、Cは勝てる御言葉がなかった。啓示録13章に、天の幕屋の人々が竜の七人の牧者が入って来た時、勝利できず、負けたと言い、竜の群れが勝利することによって聖徒たちの手と額に自分たちの名前で刻印を押して、刻印を押された者たちは、獣のような牧者に拝んだと記録されている。だが、啓示録12章では、子とその兄弟たちが竜の牧者と戦う時、あかしする言葉で勝利したと言った。このように、御言葉のある者は、彼らの行いを見て、サタンの牧師であるとあかしする事によって勝利する事ができるのである。
イエス様はマタイの福音書7章に、その実によってその木を見分けることができると言われ、知る事によってあかしして勝利するのである。ガラテヤ人への手紙3章に、啓示の信仰が現れた時、啓示の御言葉で勝利する事によって、勝利されたイエス様と一つとなり、相続を共に受け継ぐ事を語られた。口先だけで信じると言いながら啓示の御言葉がない者は、形式的な信仰人なので、試みが来る時、耐える事ができず、負けるようになり、負けた者は、利した者のしもべになるのである(Ⅱペテ2:19)。
ユダの手紙は、イエス様の弟子であるユダが記録した。17節には「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」と言った。
私たちの中から出て行った者たちがユダの手紙のように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、党派を作った。これは使徒たちが前もって言った事と同じで、第二ペテロ2章に、バラムのように、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、昔の所(昔の教団)に戻って、またそこ(泥の中)に転がって、昔のもの(昔の教団の非真理)を再び食べているので、これは、豚が身を洗って、また泥の中に転がることとなり、犬が自分が吐いた物に戻ることとなるのである。
現在、私たちから出て行った者たちが、このようではないのか。マタイの福音書12章43-45節を見ると、悪霊が人から出て行って、出て来た自分の家に帰ってみると、家は空いていて、掃除してきちんとかたづいていたので、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て入り込んだ。そうしたら、その人の後の状態は初めよりもさらに悪くなったと言われた。私たちから出て行ったこの人は、プロテスタントから来て、以前の敎の悪霊が離れて、私たちに来て、その家(心)が御言葉で掃除された。彼が背教して、昔の所に返って、昔の悪霊が掃除された彼の心に七つの悪いほかの霊を連れて来て入り込む事によって、昔よりも七倍もさらに悪い行いをするので、これは御言葉通りになったのである。今の現実がそうではないのか。見てもわからないと言うのか。死んだ者でなければわかるだろう。このような者に惑わされたのなら、信仰も御言葉もない者ではないだろうか。
信仰の兄弟たちの中には、ヨブのように全身が踏みにじられていても、心の信仰は変わらない者がいて、両手両足、体が丈夫でも、信仰がなくて惑わされて、堕落した者がいる。私も苦痛の中にいた時、信仰がなかったら、今の私はいないだろう。その苦痛を、どうやって言葉で言い表す事ができるだろう。御言葉を本当に悟って信じているのに、どうして惑わされることができるのか。なぜ御言葉を信じないのか。
今日の私たちは、預言の御言葉が肉体となって現れたので、預言とその実体までも見て信じている。どんなに大きな信仰なのか。これを信じない者は、信じる者ではない。神様も私たちの信仰も、約束した預言とその実体がある。ルカの福音書13章の御言葉を私たちは常に覚えておこう。裏切って出て行って、再び戻ろうとした者たちもいて、いま先頭の者がしんがりになり、今しんがりの者があとで先頭になるとしたその御言葉(ルカ13:25-30)を覚えなければならない。惑わされた者は自分を隠す、アダム·エバのように。これが惑わされた証拠である。
私たちは、信仰によって永遠の命を得て、天国に入る資格を得たのである。最後まで私たちの信仰を守る事によって、希望に入るようになる。アーメン。
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