私のする事と使命と約束
私たち聖徒の中には、未だに私をよくわからず、私のする事もわからないので、誤解する人もいるように思われる。
第一、約束の御言葉を信じよう。私は、とても時間が足りない、死んだ者でもできるならば、働かせたい。イエス様も、市場で遊んでいる人を働かせようと連れて来たと言われた(マタ20:1~7)。
仕事がない人は、空想が多く、仕事がないので、他の人がしている事を悪く言って、干渉する人である。
私は、聖書で語っている事のように永遠の命の食物と、白い石と、万国を治める鉄の杖を持って来た(啓2、3章)。そして、今、万国を治めている。その多くの映像を見ても悟れないのか。
見ても悟れない者は、死んだ者であり、呪われた者であり、悪魔の神を受けて、迫害する者だろう。見ても、聞いてもわからなければ、何によってわかるようになるのか。
私は、一つの教団でも一介の一国でもなく、世界を相手に治めている。これは、万国を治める鉄の杖を受けた使命を果たしているのである。だから、忙しくて、一番忙しい。
地球上の数多くの著名人たちにイーメールで手紙を書かなければならないし、送らなければならないし、その国の言葉で翻訳しなければならないし、送らなければならない。また、各国の数多くの著名人たちのイーメールを受け取って、翻訳して見なければならない。各国の前・現職の大統領、各国の大法官、各国の女性グループ、各国の青年グループ、各国の大学の総長および大学生たち、各国の平和グループ、各国の宗教の代表や指導者たちとやり取りするイーメール、各国に送る手紙と映像物(DVD)、各国の宗教連合事務室と宗教・経書統一の作業、各国の外国人の御言葉の勉強のセンター運営、海外の新天地の教会と国内の新天地の教会の統治、これが万国の統治である。
どれくらい忙しいだろう、どれくらい仕事が多いだろう、どれくらい苦しいだろう。 座っても立っても、行っても来ても、食べても寝ても、ただ頭の中の考えは、いまずまに乗って回っているようで、精神に響く音は雷鳴のようで、心は、地球上を数十回も回り続ける。受けて送って記録して翻訳してコンピューターは休む日がない。なぜ、こんなにも忙しいのか。目が回るほど忙しい。
地球を回りながら心の家も建て、彼らを教える研修院も建てた。農業もして、果物の木も植えて育てた。働く忙しい心情、わからず誤解する人々、本当に気楽な人生を送っている。なぜ私はこんなにも忙しいだろうか。夜も昼もない。こんな中でも本を7冊も書いたが、これは誰のためなのか。聖徒たちの知識のためである。私が書いた本を見ながらも、私の心情がわからず誤解する人々、薄情だ。本当に薄情だ。
人ならば、知っているはずなのに、使命のために、私のように一度して見る考えがないのか。一度走って見よ。できるのか。私がしている事が何々か、知っているのか。私がどれくらい寝ていて、どれくらい働いているのか、知っているのか。盗人は盗む事しかわからず、迫害者は迫害する事しかわからず、遊ぶ者は遊ぶ事しかわからない。する事がない人が、たわごとを言って、問題を起こす。私は罰を与えたくても時間がなく、賞を与えたくても時間がない。働く人に向かって悪口や陰口を言う人は、時間が多いので誤解して問題を起こし、しなさいと言う伝道はしない。申命記32章に、最も良いものを食べさせたのに、むさぼり食って、肥え太って、異なる神々に仕えたという言葉のように、私は人類の歴史上、最高の初楽道を食べさせてあげた。このように受けて食べた者がアダム・エバのように、問題を起こすならば、獣よりも悪いだろう。獣もノアの時、救われたのを見た。だが、怠けて口数の多いばかは救われない。脱落してはいけないという事を知っているならば働きなさい。今は、死んだ霊たちも起きて働いている。
私は、地球上を回り続けて行きながら、時にはラーメン、時にはおこげを食べながら38,000フィート(約11,500M)の上空の飛行機の中でも文書を書いて働いた。私は今85歳。生きている者なのか、死んでいる者なのか、地下にいるのか、地上にいるのか、天空にいるのか、空をも飛んで、雲の中でも回って、暴風にも、霧雨にも打たれながら、ひたすら私の神様が来られて統治される世を造ろうと身もだえしている。私は私の家も、私の体もなく、万民にすべて与えて、何もない。ただ神様の働きのために。
一度でも、私が24時間する事を考えて見よ。考えてみたのか。肉的に人に付き合って、肉的に愛して、希望を捨てて、神様の御言葉を信じず、苦労をしても、その苦労をどこに使うだろうか。
まだ肉体と世の考えだけに染まって、私を判断する人がいるならば、ありがたいが、先に自分の人となりを考えなければならないだろう。イエス様とマグダラのマリヤは恋愛したのではなく共に働いたのであった。私もそうである。この、仕事もできないように問題を起こして、誤解する人がいるならば、その者は信仰人ではないだろう。
今日、啓示録の預言が肉体となって現れた。これを見ても信じないならば、立ち去るのが正しいだろう。聖書の66冊で、働いた事と成し遂げる事と信じるべき事は、ただ啓示録の成就である。私はこの事に、私の体を捧げた。そして、休まず働いている。信じず背教する行為をする者は、審判の日に、再び会うだろう、神様の御前で。
命がけで積み上げた新天地の初めの愛、
聖書の中に彩られた彼らの姿、
血よりも濃い愛、背教者は知らない。
涙を飲みながら、それでも愛する。
悲痛極まる哀願も、あがいてみても
一度離れた君は再び戻りはしないだろう。
イマンヒ、赤く燃える心情、背教者は知らないだろう。
心をまぎらし、祈りをしよう。
きらきら光るともしびの下、センターに集まって来る
聖徒たちの勉強する声、聞こえて来る。
手を繋いで聖書の中に主と共に歩いて行き、
センターで出会った人、永遠に忘れない。
あああ~~~ 新しい日が明けてくる
昨夜、夢で聖霊の夢を見た。
聖徒たちよ、陽気に楽しもう。讃美で叫ぼう。
天に名前をかけて、故郷に錦を飾るその日には
何を神様に買って持っていこうか。
あああ~~~平和の国。
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