(本文:啓1章、啓13:1-2(イザ29:11-13))
神様が約束として立てられた牧者がいて、竜、すなわち、サタンが立てた牧者がいる。神様は、正直で、信仰がある者を選んで、ご自身の牧者として立てられ、サタンは、自分のように背教して、不法に明け暮れる偽りの牧者を選んで、自分の牧者として立てた。人の牧者は、人々(牧者たち)が集まって、自分たちの主管者である代表の会長を選ぶので、この者が人が立てた牧者である。
神様が旧約を成し遂げられる時、約束されたイエス様を選んで(ルカ9:35)、牧者とされた。竜、すなわち、蛇も(マタ23章、啓13章)自分のような者を選んで牧者にした。
世を主管して来た霊物である竜は、神様と神様が選ばれた牧者が現れる時は、力ある主管者である代表の会長を選んで、権威を与え、代表の会長は、その権威を利用して、神様の牧者と戦うようになる。イエス様の初臨の時のエルサレムの主管者が、すなわち、蛇であるパリサイ人たちであった。
啓示録1章で、イエス様から選らばれて、按手を受けて、指示を受けた牧者が、人が立てた牧者から按手を受けて、その所属(教団)に登録しなければならないのか?約束の牧者が、竜が共にいる牧者に按手を受けて、その所属に登録しなければならないのか?
神様も、竜も、互いが二種類の牧者についてよく知っている。このように、選ばれた二種類の牧者も、互いを良く知っている。その理由は、互いに敵だからである。もう一つは、その行いを見てわかる(マタ7:15-20)。聖書には、神様の牧者がする働きと行いがあり、サタンの牧者がする働きと行いがある(ヨハ15:18-19)。これは牛と犬がする事と声と行動と食性が違うように、二種類の牧者の働きと行動が違うので、互いが良く知っている。
背教者は、聖書に記録された背教の働きをして、滅亡者は、記録された惑わしと滅亡の働きをして、救い主は、記録された救いの働きをする。これが互いに違う点である。これをわからせる事が聖書である。聖書の意味をわかる事によって、上の二種類の存在を区分することができ、わかるようになる。
聖書は、「神様の民が知識がなければ滅ぶ。」と言った(ホセ4:6)。聖書は、私たちにまことの神様が遣わされた使者をわからせ、悪魔と悪魔の牧者をわからせる。信仰人が記録された聖書の御言葉のまことの意味をわからなければ、神様も、悪魔もわからず、不信者よりももっと悪い悪人になる。
宗教は、神書であり、神の御心を教えて学ぶものである。聖書を見たように、「私が教会に行く。献金と祈りをする。」と言ってまことの信仰人になって、神様が認める者になるのではない。約束の御言葉を悟って、信じて、心に刻んで、その御言葉通りする時、御言葉の本体であられる神様が共におられて、神様が導かれるようになる。このような人が、すなわち、神と言えるし、まことの信仰人と言える(ヨハ10:35)。
御言葉があれば、神様が共におられ(ヨハ1:1)、御言葉がなければ、神様が共におられない。教会に(牧者)御言葉がないのは、御言葉であられる神様がおられないからである。いくら偉そうなふり、よく信じるふりをして、教権と権威が高いとしても、御言葉がなければ、殻であるのみである。
神様の牧者は、神様が共におられ、悪魔の牧者は悪魔が共にいる。神様も、悪魔も共にいない者は不信者たちである。神様が共におられる牧者は、天国に行って、悪魔が共にいる牧者は、地獄に行く。不信者は、どこに行くのか?不信者は土なので、土に戻る。しかし、その霊は、アダムの遺伝子で生まれたので、罪によって地獄に行く。
韓国の韓基総の会長は、韓国の信仰の顔であり、信仰の顔であり、標本であり、指導的、道と光である。もし、代表の会長が不正を行えば、韓国の全ての信仰人は、みんな不正をするのである。これは、彼が信仰の顔であり、信仰の標本だからである。韓基総で、もし、代表の会長になろうとお金をやり取りして会長の地位を売り買いするならば、韓基総は、悪魔の集団なのであり、お金を渡して、牧者の按手を受けた牧者が聖徒を治めて導くならば、信仰の世界は、アダムの世界よりももっとひどい罪悪におちいった所になるのである(Ⅱコリ6:14-18参考)。
彼らが異端だと言えば、異端になって、彼らが正統だと言えば、正統になるのか?そして、彼らが二つ三つに分かれて、互いに異端だと言い、紛争するならば、この二つ三つの所がみんな信仰人ではなく、悪党になるだろう。彼らが悪党でないならば、何を悪党だと言うのか?これは、神様の戒めになる事もできず、悪魔の行いを見せる顔だと言えるだろう。これがどうして韓国の代表的な信仰の顔であり、標本だろうか?
天地万物は、創造主、神様が創造された。それゆえ、万物の父は、創造主、神様であられる。それで神様は、万物を愛される。万物もまことの神様を愛さなければならない。人の牧者は、神様も、悪魔も共にいない、自らなった牧者を言うのであり、この牧者の教徒たちも、人(どんな神も共にいない)に過ぎない。
神様は、今日の人々に信じるくらいの根拠を与えられた。「新約の預言」である。神様とイエス様は、今日、成し遂げられる事を新約としてくださって、私たちが信じるものは、新約である。これを成し遂げる時、見て、信じなさいと言われたのである(ヨハ14:29参考)。これを信じる事によって約束を信じる信仰になる。この約束は、背教、滅亡の働きがあった後にあるようになる、この地の印を押された144,000人(祭司長)と白い群れ(民)の創造である。これが、神様が共におられる天国である。これを信じない事が不信である(ヨハ16:8-11)。信じる者が救われるのか、信じない者が救われるのか?
私たちみんな、新約を信じて、天国に行こう。天国は、啓示録3:12にある。私たちみんな、約束の御言葉を道として、神様に行こう。アーメン!
댓글 없음:
댓글 쓰기