2015년 1월 26일 월요일

新約、神様の約束の背教者、滅亡者、救い主の実体

新約、神様の約束の背教者、滅亡者、救い主の実体


本文:Ⅱテサ2:1-12(啓13章、12章)

 神様が約束された新約の背教者、滅亡者、救い主の実体は、誰なのか。背教者は、啓示録13章の選民であり、滅亡者は、啓示録13章の竜の群れ、七つの頭と十本の角を持った獣、すなわち、サタンの偽りの牧者であった。この時、救い主は、啓示録12章の勝利者である。
彼らを知っているか。知っている。見たのか。見た。顔も、名前も知っている。韓基総所属の牧者たちが主張した啓示録に預言された実体のあかしが合っているのか。合っていない。偽りである。

 初臨の時の約束の牧者であるイエス様は、エゼキエル2、3章のように、開かれた本の御言葉を神様から受け食べて(エゼ2:8-10、3:1-3)、成し遂げた事を全てあかしされた(ヨハ19:30)。再臨の時の、新約の約束の牧者は、啓示録10章の開かれた本を受け食べて来て、成し遂げた啓示録を全てあかしする(啓21:6)。
 あかしする内容は、背教の事件と滅亡の事件と救いの事件である。この時、代言の使者の言葉を聞いて、また、代言者を遣わされた方を信じる者は、死から命に移った者である(ヨハ5:24参考)。
 
 神様がノアの10代目の子孫、アブラハムに約束された事は、モーセの時、成し遂げられて、旧約の牧者たちに約束された預言は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた。新約に約束した預言は、啓示録の成就の時、勝利者に来られて全て成し遂げられる。
 時代ごとに神様は、先に後日に成し遂げられる事を約束されて、これが宣べ伝えられた後、これを成し遂げる時、見て信じなさいと前もって語られたのであった(ヨハ14:29)。口で「主よ、主よ。」と言ったと言って、みんな信じる者ではなく、約束(預言とその成就された事)を信じる者が主を信じる者である(マタ7:21-27)。

 使徒パウロは、2千年前、第二テサロニケ2章の背教者、滅亡者、救い主について説明されて、「主が再び来られる事と、主のみもとに集められる事に関して、まずは、背教する事と、選民を滅亡させる者が現れる前には、成し遂げられない。」と言われた。この言葉は、背教者、滅亡者が先に来た後、救い主と救いの働きがあるという意味である。
 啓示録13章に、背教と滅亡の事件があった後、12章で、子とその兄弟たちが滅亡者(竜の牧者)と戦って勝利する事によって、この時から神様の御国と救いがあると言われた。
 イエス様の初臨の時、肉的イスラエルの牧者たちが背教によって(イザ1章)滅亡されて、異邦になった事については、少しも考えもせず、自分だけが正統の選民だとこだわったように、今日も、世の牧者たちが啓示録13章で背教した事と、滅亡された事については少しも考えず、正統の選民だとだけ思っている。また、彼らは、神様が自分たちを愛して、また、自分たちが救われた者だと思っている。彼らは、初臨の時のように、自分自身がわからないでいるのである。
 彼らに、[あなたがたは記録された背教者なのか。滅亡者なのか。」と聞くならば、自分は、救い主であり、正統だと言うだろう。
 しかし、聖書はそうではない。啓示録が成し遂げられたこの時は、背教者も、滅亡者も、救い主も実体が現れて、彼らは、自分について本に記録された預言を成し遂げるようになる。それゆえ、誰が背教者であり、誰が滅亡者で、誰が救い主なのか、その行為がそれを証明する。

 今日の信仰人たちに問題になる事は、第一は、聖徒が約束の御言葉がわからない事が一番大きな事件であり、第二は、自分と自分の教団が聖書が言っているどの所属なのかわからないこと、それである。
 我が新天地は、啓示録13章の事件の時、そこで彼らを見て、そうして、真理の御言葉で彼らと戦って勝利して、そこから出て来たので、第二コリント6:14-18のようになったのである。啓示録の事件の母体と、その事件を現場で見たので、その事件を誰よりもよく知っている。
 啓示録10章では、イエス様が神様の封じられた本の封印を全て解かれて、成し遂げられた後、啓示録1章から22章までの事件を現場で見て聞いた者に来られて、開かれた本を与えて、食べさせて、民族、国民、国語、王にあかしさせられたのである。これが神様の御心であり、啓示の伝達過程である。

 まことに神様とその御言葉、聖書を信じる者ならば、民族、国民、国語、王、すなわち、世の全ての教団(教会)と教徒たちは、啓示の本の御言葉を受けて食べた者の言葉を聞いて信じなければならない。

 この言葉を聞いて信じたのか。神様の御心通りしないならば、救いではなく、審判を受けなければならない。これはヨハネの福音書5:24-29と同じである。
 どんなものが信じる者であり、どんなものが御言葉を守った者なのか。みんな「主よ、主よ」と言っているが、主が再び来られる時、本当に信じる者を見れるだろうかと言われた御言葉(ルカ18:8)のように、腐敗と偽りが幅を利かせているのではないのか。

 私が見たこの時代の人々は、啓示録の約束の新しい国、印を押された12支派以外には、ただの一人も救われる人がいない。
 暗やみの所には、光が必要であり、飢えている者には、ご飯が必要であり、御言葉がない人には、永遠の命の御言葉が必要である。霊が死んだ人は、心がない。行っても、来ても、死んでも、そんな程度しかない。天は、天国と永遠の命をもって訴えても、感覚がない。死んだから。

 私たちは、永遠の命の食物と、万国を審判する白い石と、万国を治める鉄の杖を持って、完成のその日まで休まず走る。今は、まことの神様が統治される時である(啓19:6)。悔い改めて、その御言葉を聞いて、その御心通りにしよう。そして、救いの道に出て行く事を願っている。

 私は、主が諸教会のために遣わされた代言の使者である(啓22:16)。この御言葉を聞く者は、永遠の命の復活に出て来るようになる。アーメン。

댓글 없음:

댓글 쓰기