万よろずの宗教の中でどの宗教が第一なのか
本文:創1章、ヨハ1:1-5、啓21章
世の中には万の宗教がある。数多くの宗教の中で一番優れている宗教は、どの宗教なのか。宗教人たちは自分が信仰している宗教を一番良い宗教だと思うので、自分の宗教を信じて伝えている。例えば、人が中国で生まれて見て聞いて生活したなら、中国の言葉と文化が体に染み付いているだろうし、ロシアで生まれたなら、ロシアの言葉と文化が体に染み付いているだろう。人が生きて来たこの世界で20世紀の文化の差は国によって、民族と氏族によって大きく異なる。
本文で言われたように、創世記の再創造があり、ヨハ1:1-5で見たように、神様と御言葉によって創造されなかったものは一つもない。ところが、どうしてお一人の神様が万の宗教を造ったのか。本当に神様が造ったものなのか。真の神様の他に、異なる神である偽物の神がいて、真の神様を装って人を欺き、自分が真の神のふりをしながら多くの宗教を造ったのではないのか。そうであるなら、神様と神は幾つあるのか。本当に紛らわしい世である。混沌として虚しくて暗やみに満ちている。地球上の中は数多くの宗教によって混沌として虚しい。どれが本物で、どれが偽物なのか。
6千年の聖書の歴史の中で神様が導かれたアダムの世界、ノアの世界、モーセの世界、初臨のイエス様の世界の差も見た。再臨の時、成し遂げる世界も異なる。宗教が多いのも、互いに異なるのも理由がある。記録されたように、神だからと言ってみな信じてはならないと言われた御言葉もある。Ⅰヨハ4章1節を見なさい。
唯一であられる真の神様はお一人であるのに、神様が創造された被造物の中で自分の知恵と能力を信じて自分を創造してくださった真の神様を裏切って自分こそ神であると言った天使長がいた(Ⅱテサ2:1-4、イザ14:12-20、エゼ28:1-19、創3章参考)。このように霊界で背教した一人の天使長がサタンになったのであり、肉界でもサタンの群れがあるようになったので、この者(サタン)が真の神様と戦争を起こした(啓13章、12章参考)。
多くの宗教がある理由は、真の神様の宗教があり、他の背教した神によって造られた多くの宗教もあるからである。
人は自分に与えられたもの、考えたこと、開発したことを真の神様が与えてくださったものだと思い、最高の教訓、最高の真理であると思って伝える。しかし、真の神様はお一人であり、真の神様が伝えてくださったものは一様に一定して一つである。それでは、数多くの宗教と経書は誰が与えたものなのか。正しい言葉、善良な言葉を話すからと言って、神様が与えたものではない。
記録されたように、第二コリント11章13-15節で、「サタンさえ光の御使いに変装して、偽使徒も自分をキリストの使徒に変装する。」と、言われた。サタンが神様の真似をして騙して道を造ったのが偽宗教である。偽宗教が多いが、信じる者たちが偽宗教を真の神様がくださったと勘違いをしているのである。
神様の真の宗教は創世記から啓示録まで続いて来た。誰かの宗教を盗用したり、かこつけたりしていない。しかし、偽宗教は神様の6千年の聖書の歴史の中にあったことを盗用しているものが多い。これは騙すためのやり方である。神様の御言葉と働きは、続いて来た時代と系図がはっきりしていて、前もって約束(預言)され、預言したことがすべての民族にあかしされるために全世界に宣べ伝えられた(マタ24:14)後、その預言通り成し遂げられた。
神様とアブラハムとの約束(預言)はモーセの時に、旧約の預言者たちとされた約束はイエス様の初臨の時に成し遂げられたのであり、イエス様とヨハネを通して預言された新約は今日、その預言通り加減することなく成し遂げられた(ヨハ19:30、啓21:6参考)。神様は預言せずに成し遂げたことはない(アモ3:7参考)。預言とその成就がなければ、どうやって信じることができるだろうか。
正しい良い心を持たせるのは人の基本である。これを宗教と言うには不足である。宗教は神の教えである。正しい良い心を持つということは世の中の学校でも各家庭でも教えることである。これらは人の知識と戒めに過ぎず、神様の預言した約束はそれとは違う。神様は約束したことを成し遂げる時、信じなさいと言われた(ヨハ13:19、14:29)。
神様が申命記18章18-22節で、「神様のことばを授けた預言者を起こす」と言われたのであり、「彼が告げることばに聞き従わない者は罰を受けるようになる」と、言われたのであり、「わたしが告げよと命じていないことを不遜にもわたしの名によって告げたり、他の神々の名によって告げたりする預言者は死ななければならない」と言われた。また、「あなたが心の中で、私たちは主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか、と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」と言われた。
真の神様から受けた宗教であり、経書であるなら、必ず歴史と教訓と預言と成就がある。歴史と人の教訓だけがあり、将来に成し遂げる預言も成就したこともなければ、これは真の神様の御言葉ではなく、信じて待つ理由もない。昔、約束した事に対する成し遂げた実体があり、また、約束した事もその通りに成し遂げるという言葉があってこそ、成し遂げられる事を信じる事ができるのである。中身もなく、「正しい良い行いをして、正しい良い心で生きなさい。」は、人の戒めの一つであり、宗教と言えないのである。
もう宗教に対する審判の時となった。全ての宗教が一つになって各宗教が自分の宗教の経書を持って出て来て、万民の前で真の宗教について確認をする時である。そのようにして、信じるに値するものを選ばなければならない。私が見た地球上の経書と宗教は、人の知識と戒めに過ぎない。そして、宗教人たちは自分の宗教に陥っている。
経書の中でキリスト教の経書は66冊からなっている。ここには多くの預言者たちが神様から聞いたことを記録した預言と成就があり、彼らが見て聞いたことが記録されている。その内容はアダムの時から今日まで続いており、時代ごとに前もって約束された約束の牧者がいた。この経書が聖書なのである。カトリックの聖公会、正教会、プロテスタントは同じ聖書で信仰をする。
神様がアブラハムと約束された通りモーセの時、成し遂げられて、旧約の預言者たちと約束したことはイエス様の初臨の時に成し遂げられた。
このイエス様こそ旧約に約束された牧者であった。イエス様について多くの預言者たちが預言された。すなわち、イザヤは「(イエス様が)処女から生まれる(イザ7:14)。」、ミカは「ベツレヘムで生まれる(ミカ5:2)。」、ホセアは「エジプトから出て来る(ホセ11:1)。」、ゼカリヤは「子ロバに乗ってエルサレムに入られ、平和を叫ぶ(ゼカ9:9-10)。」と、言ったのであり、その通り成し遂げられた。このように、預言があり、その通り成し遂げられたことがあってこそ、約束(預言)を待ち望み信じるのではないだろうか。新約の約束の牧者もこのように預言されている。しかし、他の宗教、経書ではこのような預言も成就もない。
ところが、神様が新約に、今日について言われた御言葉は、地球上の全ての宗教が腐敗したと言われた。いくら真の宗教の経書を持っているとしても宗教人自体が腐敗したので、末世、すなわち世の終わり(宗教の末年)が来ると言われたのである。経書、すなわち聖書が完全であると言っても宗教人が腐敗したなら、その経書は無駄な書物になってしまうのであろう。
神様は新約通りに成し遂げるだろう。この時、約束を悟って知った者は、ノアのように、ロトのように、イエス様の弟子たちのように救いを受けるだろう。しかし、腐敗して悟れない者は自分の考え、自分の判断によって滅亡を免れない。それゆえ、神様の御心通りにしてこそ生きる。
真の神様が与えて下さった真の聖書は、新約に成し遂げる事を詳細に記録して下さった。背教者たちと滅亡者たちと救い主が記録されていて、背教者は誰であり、何で、なぜ、背教したのかが詳細に記録されているのであり、滅亡者たちは悪魔の所属の牧者たちであることが詳細に記録されている。そして、この時、いつ、誰が、どのような者を救い主として選んで、どこから何で、どのように救うのかを詳細に記録して知らせられた。
この三つの存在の秘密、すなわち背教者、滅亡者、救い主の秘密とその実体が分からなかったらどのように救われるだろうか。自分が滅びて、自分が腐敗したのに、誰を救えるのか。自分が天門が塞がれて通れないのに、どうやってこれが分かるだろうか。それで、末世の事件をノアの時、ロトの時のようだと言われたのである(ルカ17:26-30)。
悪魔は自分の牧者たちを殺して、牧者は自分の信徒たちを殺して、悪魔の所へ突き出しているのではないか。アンチカフェ(anti cafe)の学生と青年の悪評、悪口、呪いの声は道徳が地に落ちてしまった事を示すのであり、不法に満ちた言葉で呪う。この行為は家庭や学校で学んだのではなく、彼らのこのような行為が、自分の教団の牧者から学んだことではないと言い切れるのか。彼らの教会は、世の教会と言うよりは、悪魔の教会と言うべきであろう。こうだから神様がこの腐敗した宗教をどうされるだろうか。それで、世の終わり、すなわち宗教の終末を言われたのである。そして、再創造する事を約束されたのである。
今、再創造が成し遂げられている。来てみなさい。確認しなさい。そして、信じて救われる者になりなさい。アーメン。
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