2015년 1월 10일 토요일

神様と竜の正体

神様と竜の正体 
(本文:啓20:1-3、創1:1、出3:14)


神様は、自ら存在される方であり、天地と万物を創造された創造主であられる(創1:1、出3:14)。これゆえ、神様は、天地万物の父であられる。
竜は、被造物で、背教した霊である。竜は古い蛇であり、サタンであり、悪魔である(啓12:9、20:2)。創世記3:1で見たように、これを神様が創造された野の獣のうちの一つ、すなわち、蛇だと言われた。これは、エゼキエル28章で見たように、自分を神だと言った敵対者であり、背教者である保護者ケルブであった。この保護者ケルブは、エデンの園で、火の石の間を歩み、各種の宝石で身を飾り、知恵が充満で、完全な印であった天使長であった。ケルブは、多くの天軍たちを持った者であり、その権威は、天軍を動かす(指揮する)権威であった。
竜、すなわち、蛇は、アダムとエバを惑わして、神様の世界を6千年間統治した者である(マタ4:8-9、ルカ4:5-6、エペ2:2)。これを解決するため、神様の回復の働きも6千年間、続けて来た。この竜が、今日、啓示録の時、捕えられて閉じ込められるようになったので(啓20:1-3)、今や、解放が来て、神様の世界になって、神様が統治する時代になったのです。
アダムの時、権威を持った竜は、アダムの時、ノアの時、モーセの時、初臨のイエス様の時にも神様の働きを妨害して、人々を惑わして、迫害とのろいをして、人々を混乱させて来て、殺人までした。

悪魔の武器は、偽りの言葉である。アダム、エバの時から偽りに専念して来た。これもまた、そうするしかないという事は、自分が神様にならなければならないので、まことの神様のものを盗用して、ここに自分の偽りの言葉を混ぜて、偽りに専念して来たのである。
この悪魔が一番不安な時は、時代ごとにあった神様の働きの代行者である牧者、預言者たちがあかしした時であった。悪魔が、なぜ、神様の代言者のあかしを恐れたのだろうか?これは、遣わされた神様の使者のあかしが本当だったからである。悪魔が、今日まで、あかしした事は、偽りの言葉であり、神様の使者のあかしは本当だったので、悪魔の牧者のあかしが偽りである事が明らかになるからである。この事で悪魔は、神様が遣わされた者たちを、さらに憎んで、彼らに悪い行いを専念するのである。それだけではなく、彼らを殺すまでした。イエス様も、その弟子たちも、旧約の預言者たちも本当に、まことのあかしのせいで、サタンに災いを受けたのである。

イエス様がヨハネの福音書8章に、ユダヤ人たちとパリサイ人たちに言われた御言葉を見る時、彼らは、イスラエルの人々であったが、悪魔と一つになって、悪魔の神を受けて、悪魔を神様だと思って仕えたので、悪魔が彼らの父になり、彼らは悪魔の子どもになった。それなのにもかかわらず、彼らは、まことの神様とにせものの神様である悪魔を区分できず、悪魔をまことの神様だと思っていた。

私は、天地人である。天の種で地から生まれたのでという事である。天と地、天地人は、新しい天、新しい地、新しい天地人である。これが天の種で新しく生まれた新しい被造物である。
神様が共におられる牧者がいて、悪魔(竜)が共にいる牧者がいる。初臨の当時、エルサレムを主管した牧者たち、すなわち、パリサイ人の牧者たちが悪魔の牧者であった。彼らを主が蛇だと言ったのでという事である(マタ23:33)。
時代ごとに神様が遣わされた預言者たちを迫害して、殺した者たち、すなわち、当時の牧者たちは、サタンの神が入った(イスカリオテのユダのように)サタンの牧者であった。この事は、聖書が証明している。
イエス様を殺したイスラエル(ユダヤ人)の牧者たちを神様の牧者だと人々は思っているだろう。しかし、事実は、その中にサタンが入って主管していたという事をわかるだろう。

2千年が過ぎた今日、啓示録の事件を見たように、誰が背教者で、誰が滅亡者で、誰が救い主なのか?啓示録には、この三つの存在が出現している。しかし、封じられた本の印を解く前には、この啓示録の意味をわかる者は天上天下に一人もいないと記録されている(啓5章)。この本の七つの印を解いた方は、ただ、イエス様であられ、開かれたこの本を受けて食べた者は、ただ、一人使徒ヨハネの立場のイギンジャだけ(新しいヨハネ)である。この御言葉とこの御言葉通り成し遂げられた事を聞いた者も、ただ一人だけであり、これを伝えよと指示された方も、啓示録10章のただ一人だけである。すなわち、新しいヨハネである。
この時、選民(霊的イスラエル)は、天の太陽・月・星のように、全て地に落ちて、啓示録13章のように、背教して、この背教者たちを滅亡させた者たちは、エルサレムを主管したパリサイ人のような教権主義者たちであった。啓示録13章に、選民を滅亡させた七つの頭と十本の角を持った獣は、竜の牧者たちであり、初臨の時の祭司長たちと大祭司長たちのような主管者たちである。この事実を見てもわからないならば、そのような者には、聖書が必要ないだろう。
このような時に、主の命令を受けて、悔い改めよという手紙を送って(啓2,3章)、見て聞いた事と開かれた本の御言葉を初臨のイエス様のようにあかしした者は、イエス様に属した救い主である。誰を救うのか?啓示録17,18章のように、竜の群れの牧者たちに捕らわれて、捕虜になっていてもわからない民族に行って、彼らを救い出すのである。

なぜ、聖書の預言と現実を信じないのか?彼らが与える不品行のぶどう酒は、蛇の毒であり、まむしの悪じなのに(申32:31-33)、これは良いと受けて食べながら、隠されたマナといのちの木の実は、なぜ、背を向けて受けないのか?今日、彼らの不品行のぶどう酒(善悪の実)によって万国が倒れた事を知っているのか、わからないのか?

イエス様は、ご自分の使者を諸教会に遣わして、この事実を知らせた(啓22:16)。遣わされた使者を迎え入れないという事は、イエス様を迎え入れない事と同じである。迎え入れない者は、アダムの家族たちのように(ノアの時、ロトの時)イエス様の初臨の時の肉的イスラエルのように、救われない。
聖書を持って、遣わされた使者の前に出て来て、正道に立て。聖書は、私たちの救いのために下さった御言葉である。聖書の約束を無視して、信じも、守りもしないという事は、背教と悪の神(霊)が自分をさえぎっているからである。

神様とその御言葉は信じず、自分の牧者のその言葉だけ信じるという事は、間違った信仰である。約束した神様の種で生まれず、収穫されず、印を押されず、約束の国12支派に所属されず、啓示録を加減して、いのちの書に名前を記録されなかった。天国と地獄、死と命のうち、どちらに行くだろうか?
聖書も良くわからないのに、無視して、のろって、このような者がどこに行くだろうか?初臨の時を考えよ。私は、あなたたちのために努めて祈っている。

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