神様の国と世の国
本文:ヨハ17章、Ⅰヨハ2:15-17、ロマ8:5-7
神様の国と世の国は、どのように異なるのか。
なぜ、神様が創造された世と人の肉体の考えは、神様と敵になると(ロマ8:5-7、Ⅰヨハ2:15-17参考)言われたのか。神様が創造されたものであっても、神様が主管されず、サタンのものになった時には、サタンの世とサタンの肉体に対して神様と敵になるしかないのである。
人も、世も、神様に戻ってきた時は、失ったものを再び取り戻すので喜ばれるだろう。だから、人も再び生まれなければならないし、万物も蘇醒されなければならないと言われたのである。
天地と万物を創造された方は、唯一神、神様であられる。
神様が創造された蛇、すなわち、サタンに惑わされたアダム、エバが神様から受けた万物を持って離れることで、神様は、彼らと共におられることができなかったので、神様は、サタンと人から離れられるしかなかった。
神様は、サタンが先に背教したので、アダムとエバにサタンの木、すなわち、善悪の木の実である善悪の実を食べてはならないと言われた。それを食べる日には、死んで、肉に戻って、再び土になると言われた。アダム、エバは、神様の御言葉を守れず、サタンの惑わしの言葉を信じて善悪の実を食べることで肉に戻って、土になった。
罪を犯したアダム以後、アダムの遺伝子で生まれた人は、全てアダムのような罪人であり、アダムの、その筋を持って生まれたのである。今は、アダムの原罪に祖先たちの遺伝罪と自分が犯した罪(自犯罪)が加重された罪人になった。
神様と人が再び結び合うことができるのは、人の罪をなくすことである。罪を犯した者はみな、罪のしもべになるとヨハネの福音書8:34に語られた。こうして神様は、人の罪を赦すために羊の血で捧げるいけにえと律法を下さったが、罪がなくならなかった。結局、人の罪を赦すことができるのは、義人の血だけであることを知っておられ、息子イエス様の血が必要であったのある。それで、万国の孝行息子、イエス様が来られ、神様の御心通り十字架に代りにかかられて、義の血を注がれることで、人類の罪が赦されたのである。
こうして、罪の赦しの血と神様の種と神様の霊で犯罪者であるサタン、竜を捕えて、罪を赦して、神様の種で再び生まれさせ、約束の神様の新しい国を啓示録の成就の時に創造されるようになったのである。これは、6千年目にして初めての事であり、約束した神様の新しい国と新しい民族である。
神様が創造されたアダムの世界は、本来アダムもその世界も、神様のものであった。しかし、アダムが罪を犯したことによって神様から受けた万物を持ってサタンに行って、神様は離れて行かれた。それで、世はサタンの世になり、善悪の実を食べた人には死が王となってきた。そして世は、6千年間、サタンが主管してきたのである。
一方、神様は、6千年間、失った地球村と万物を再び取り戻すために、今日まで働いてこられたのである。神様のものがサタンのものになって、サタンのものになったものが、再び神様に戻ってくることが、啓示録の成就の時のことである。
サタンのものになった世と人の肉体を愛することは、サタンを愛することになるので、神様と敵になって、世と人と万物が神様に戻ってきた時は、これを愛さないことが神様と敵になるのである。これがまことの道理である。
まことの神様の国は、罪を犯したアダムの世界でも、ノアの世界でもなく、モーセが導いた肉的イスラエルの世界でもない。イエス様から始まった2千年の霊的イスラエルの時代も、まことの神様の国ではなく、これは始まりであるのみで、まことの神様の国は、新約の啓示録の時である。この啓示録の時、2千年間、蒔いてきた種の実を刈り取って、印を押した12支派がまことの神様の国と民族である。
神様は、これを成し遂げるために6千年間、働いてこられ、息子イエス様に十字架を負わせられ、血を流させられた。その結果は、犯罪者、竜を捕えて閉じ込めて、神様のまことの国を立てるのであった。
啓示録に約束したこの新しい国が立つ前にあった6千年間の国々は、まことの神様の国ではなかった。啓示録に約束したこの新しい国だけが、永遠の神様の国である(啓22章)。これで見ると、この新しい国が立つ前に、伝統の民族と国々は、記録された預言のようになくなるのである。
この新しい国は、天地が一つになった国であり、聖霊と聖肉が一つになった国であり、霊界と肉界が一つになった国であり、神様が統治される国である。この新しい国は、アダムの犯罪の遺伝子で生まれた人ではなく、神様の義の種で再び生まれた義人たちである。神様の種で生まれた子どもたちである。
価値を計算するならば、この新しい国と以前の国は、貴族、庶民程度ではなく、天と地のような次元である。全てを成し遂げる時までは、しもべと違いがなく、管理者の下にいるが、成し遂げたその時には、主管者になる(ガラ4:1-7)。
聖書の預言は、神様の約束であり、この約束は、まことに偉大なものであり、あえて言葉で全て表現することはできない栄光である。パウロが、ローマ人への手紙8章に、私たち(キリストと苦しみを共にした者たち)が受ける栄光について語った御言葉と同じである
私たちは、アダムのように背教せず、約束を守って、あの栄光に入って、永遠に神様と主に栄光と感謝を捧げよう。
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