2015년 10월 13일 화요일

神様の創造と各教団の創造の差

神様の創造と各教団の創造の差



本文:ゼカ12:1、ヨハ3:3-6、イザ1:22



 神様の創造と各教団の創造は、どのように異なるのか。

 神様が創造されたものがあり、各教団の牧者が創造したものがある。神様が人の心霊を創造されたが(ゼカ12:1)、この心霊に他のものが入るならば、まるでぶどう酒に水が混ざって(イザ1:22)、味も、色も変わってしまうのと同じになる。それで、神様が創造されたアダムにサタンの言葉と思想が入ることで、本質が変わるようになり、生が死に変わるようになったのであった。



 人は、誰もコンピューターや録音機のようで、聞いて見ることが人の心に刻まれて、それが自分の生活に必需品のようになったり、または導く役割をするようになる。

 信仰人に神様は見えないが、聖書は見えて、触ることができ、読むことができるので、聖書を神様のように、基準にして信仰するようになる。だが、熱心を尽くしても、記録された御言葉の意味がわからない内容が多く、区分が良くできないこともある。それで、各教団では、聖書に代わって牧者が注釈(聖書の解説集)を作って、それを聖書の上において、その内容で教える所が多い。しかし、各教団で教える注釈の内容が同じ意味ではない。だから、この教団の牧者があの教団に行けば、牧者の振る舞いができない。その教団の教理を学んで、認められる時、初めて講義ができる。また、牧者が教える内容も、みんな同じではなく、牧者も、聖徒も、聖書の解説も、千千万万の種類になる。それゆえ、自分が学んだ通り話して、学んだ通りに行う。この時、イエス様が来られたならば、彼らが解説した注釈と、その注釈の言葉を受けた人に、良くやったとほめるだろうか、間違っていると戒めるだろうか、考えてみなければならない。



 イエス様の初臨の時、旧約の預言の御言葉を本当に悟ったならば、彼ら(ユダヤ人)がイエス様を殺しただろうか。イエス様は、来られて、旧約を成し遂げられて(ヨハ19:30)、伝えたのであった。その時に牧者たちが御言葉を悟って教えたのではなく、人の考えと人の言葉で教えたので、聖書とは他人になった。イエス様が再び来られる時も、このようだとルカの福音書18章8節に記録されている。この時に、完全な真理を持って来られるとしても、彼らが学んだことと違うので、信じないだろう。この時、新約聖書に約束した牧者が来て、真理を教えるとしても、人の言葉、非真理をまことの真理と思っている人々が聞いて悟ることができるだろうか。かえって、異端だと言わないだろうか。

 地上には、数十種類の宗教があり、同じように神様を信じると言うが、彼らの経典も、内容も、意味も、行いも、儀式もみな異なる。仏教を学んだ人は、仏教の思想を、儒教を学んだ人は、儒教の思想を、イスラム教を学んだ人は、イスラム教の思想を持っていて、ヒンズー教、シーク教、ユダヤ教、カトリック教、プロテスタントなど、各宗教の経典も、教えることも、学ぶこともみんな異なる。

 

 神様の歴史と出現人物の系図を調べて見ると、次のようである。

 人(神様が認められる)の始まりをアダムで始まったキリスト教の歴史は、その流れがアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス様、カトリック、プロテスタントと続いてきた。これ以外の宗教は、アダムからイエス様に至るまでの人名を盗用しているものが多く、その流れ、すなわち、系図や歴史が合わない。約束した預言も、約束した牧者も、はっきりしていない。だが、人は、自分が学んだことに従って行動する。自分が学んだことが、自分の思想になって、それだけが真理だと誤解する。これによって宗教間の紛争が生じる。

 アダムの時から今日まで、その流れの歴史と、また、啓示でできた経典があるとしても、その意味がわからなければ、その経典がない人と違いがなく、恣意的な解説に従ってその道に行くならば、かえって、信仰をしない不信者たちよりも悪いだろう。キリスト教を除外した全ての宗教が、その始まりの牧者を見れば、恣意的な牧者が大多数である。神様は、時代ごとに以前の牧者を通して将来に成し遂げられることと将来に遣わされる牧者を、前もって約束されて、時になって約束した預言が成し遂げられた。



 神様が選民に信じよと言われたことは、約束した預言の事と牧者である。約束の牧者は、約束通り来た者であり、彼は約束したことを成し遂げて、神様と共に歩み、啓示を受けて指示によって行う。その例を挙げれば、神様がアブラハムに約束された預言は、モーセを通して成し遂げられて、旧約の預言者たちに預言されたことは、初臨のイエス様の時成し遂げられたので、イエス様は、約束した牧者であった。イエス様は、処女から生まれて(イザ7:14)、ベツレヘムで生まれて(ミカ5章)、子ろばに乗ってベツレヘムに入城される(ゼカ9章)など、イエス様は、旧約の預言を全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。

このように、再臨の時に成し遂げられることも、前もって啓示録に約束されて、加減しないと言われ、再臨の時も、約束した牧者がいる(啓2-3章、啓22:16)。そして、約束通り勝利することによって神様の国と救いがあるようになった(啓12章)。神様は、前もって約束されて、約束したことが全世界に宣べ伝えられた時、来られて、約束したことを成し遂げられた。



 今日の宗教が何を信じるのか。約束したことを信じるのである。何を約束されたのか。過去にも約束されて、成し遂げられたことがあってこそ、今日の約束も、その時のように成し遂げられることを信じることができるだろう。約束もなく、「信じなさい、信じる。」、これは偽りの言葉である。何を成し遂げるのかと、どんな牧者を遣わすのかを約束したことがなければならない。宗教だと言って、全て宗教になることはできない。偽りの宗教がまことの宗教を滅ぼしていて、偽りの牧者がまことの牧者を滅ぼしているが、自分の宗教にはまって、これがわからず、自分がする行動を正しいと思っている。

 だから、神様は、末世を語られた。自分の宗教にはまった者たちがそこから出て来ないので、置きっぱなしにはできず、ただ、約束したことを成し遂げて、新しい時代に新しい国、新しい民族を立てて、共におられることを約束されたのである。自分の宗教と自分の牧者にはまって、そこから出て来ず、新しいものを伝えても、信じない者たちの滅亡は、自分が自らが造ったのである。誰を恨むのか。



 神様は、6千年も伝えてこられて、待ってこられた。人類の滅亡は、準備されて(核)、地上の全ての宗教が悔い改めて、本当に神様の中で一つになるならば、神様は、御心も変えられるだろう。ニネベのようにということである。だから、宗教が一つになるようにするため、事務室を作ったのである(啓21:24-27参考)。



 宗教によって、人類世界の滅亡と救いが左右される。私たちみんな悔い改めて、人類が全て救われるようにしよう。アーメン。

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