2015년 8월 25일 화요일

マタイの福音書24章、終末論

マタイの福音書24章、終末論



本文:マタ24章



 マタイの福音書を記録したマタイは、イエス様の弟子で、本文(マタ24章)を語られた所は、オリーブ山であり、時は約2千年前であった。



 マタイの福音書23章の事件は、その当時、すなわち、初臨の時の事件であり、マタイの福音書24章の事件は、イエス様の再臨の時、起こるようになる事件である。そして、24章で質問した人は、イエス様の弟子たちであり、答えを言われた方は、イエス様であられた。質問の内容は、下記のようである。



 (マタ24:3)イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」



 弟子たちが質問するようになった動機は、イエス様から、エルサレムの聖殿では、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してないという御言葉を聞いたからである。真っ先に言われた答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい。」という御言葉であった(4節。*以下、節数だけ表示されたものは、マタ24章である。)。「わたしの名を名のる者が大ぜい現れて『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう(5節)。」と言われた。そして、続けて言われた御言葉は、次のようである(6-14節)。



(マタ24:6-14)また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。



 前で見た国と国は、どの国であり、ききんと地震は、どんな事であり、人々が試みに陥り(大ぜいつまずき)、引渡す(互いに裏切る)のは、誰が誰に引渡す(裏切る)のか。

 一つの国は神様の国、エルサレムの選民の教団であり、もう一つの国は、エルサレムを倒した悪霊の国、バビロンである。この時、エルサレムの聖殿を倒すと言った事や、にせ預言者が多く起こると言った事を見ると、この戦争は、宗教の戦争であり、惑わしと試みに陥って、バビロンの国、すなわち、殺す所に同僚を引き渡す事を見ると、この戦争は、肉的戦争ではない。方々に地震とききんがあるという事は、地震は土でできた人の心が揺れる事を言うのであり、ききんは、戦争によって御言葉(水)がない霊的なききんを言うのである(アモ8:11)。

 この戦争は、初臨の時、バプテスマのヨハネとパリサイ人の牧者たちが戦った戦争と同じである。滅亡者が聖なる所、すなわち、聖殿の壇上に立つのを見ると言われたように、宗教戦争であり、世の戦争ではない。



 この時、逃げて行くべき山は、神様がおられるシオン山(啓14章)である。屋上に(天)にいる者たちは、神様に属した者たちを言い、家の中にある物は、サタン、滅亡者の物を言っている。従って、家の中にある物を持ち出そうとしてはならないという事は、滅亡者の物(不品行のぶどう酒:善悪の実)に未練を置いてはいけないという事である。

 

 畑にいる者は、世で伝道する者たちを言うのであり、身重の女と乳飲み子を持つ女は、滅亡者に占領されたエルサレムの牧者たちで、身重の女は御言葉(ルカ8:11)を持った(御言葉で聖徒を教えて導く)牧者であり、乳飲み子を持つ女は、神霊な乳(御言葉の乳)、すなわち、御言葉を受けて聖徒を養育する牧者(伝道者)を言っている(Ⅰコリ3:2)。これは使徒パウロが記録したガラテヤ人への手紙4:19の御言葉と相通じる言葉である。



 逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさいという事は、冬や安息日のように休まず、目を覚ましていなさいという言葉である(目を覚まして、滅亡者から逃れて逃げなければならない時は、逃げなければならないという意味である。)。

 末世である再臨の時、神様の選民の幕屋である霊的エルサレムが、異邦の滅亡者に滅亡される時に起こる大きな患難(苦難)は、創世以後、初めて起こる事である。滅亡者に捕えられて捕虜になる時、肉体が救われるために、その期間を減らすと言われた。旧約時代のエルサレムの捕虜の期間は、70年であったが(ゼカ1:12-16、ダニ9:2、エレ25:11)、減らして下さった期間は、3年半である(啓11:2-3、13:5)。



 この患難(苦難)の時、にせ預言者たちとにせキリストたちが多く起こって、できれば選ばれた者たちも惑わそうとすると言われたので、本文4節を覚えておかなければならないだろう。主が前もって語られ、「キリストがここにいらっしゃる、ほら、あそこにいらっしゃると言っても信じないで、荒野にいらっしゃると言っても出て行ってはならない。」と警告された(23節、26節)。イエス様は、この時、いなずまのように臨まれると言われたので、これは、イエス様が霊で来られて働かれる事を知らせられたのである。



 その日の患難(苦難)に続いてすぐに、太陽と月が光を失って、星が地に落ちると言われた(29節)。これは、エルサレムの選民が天の太陽・月・星のように、天、すなわち、神様に属していたが(創37:9-11参考)、滅亡者によって落とされて、滅亡者の所有、すなわち、捕虜になった事を言ったのである。従って、これは選民の幕屋であるエルサレムの終末を言うのであり、滅亡者サタンとサタンの牧者が主管するようになる事を知らせられたのである。太陽・月・星、すなわち、イスラエルが光を失ったので、夜になったのである。

 この時、人の子のしるしが天に現れて、御使いたちを遣わして、四方から選ばれた者たちを全て集められる(30-31節)。再び来られるイエス様も、御使いも霊であられる。この霊たちは、誰を用いて収穫されるだろうか。わかるのか。見れば悟るだろうか。見てもわからなかった初臨のイエス様の時のようではないだろうか。約束の御言葉(新約)に背を向けた者(背教者)と知識のない者は、これを見ても、聞いてもわからないだろう。だからこそ、選ばれた者たちを集めると言われたのである。



 今まで説明したこのような事を見ると、主が戸口まで近づいていると知りなさいと言われた(33節)。しかし、盲人は見てもわからないのである。イエス様は、「天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われた(35節)。なくなる天地(啓6:12-14、啓21:1)があり、再び創造される天地がある(啓7,14章)。これを知っているのか。イエス様は、見て知りなさいと言われ、その日、その時がいつであるかはだれも知らず、ただ、父だけが知っておられ、知らせないと言われた(36節)。だから、この時をノアの時、ロトの時のようだと言われた(37-39節、ルカ17:26-30)。



 霊的イスラエルの滅亡の後には、収穫、すなわち、集める事があり、再創造がある。これは霊的イスラエルが無知で傲慢で腐敗して滅亡されたのであり、神様の新しい国の再創造が必要であった。従って、いつ、どんな時、収穫の刈り手が自分に現れるのかわからないので、いつも目を覚ましていなければならない(40-44節)。



 この時、家の中にいる人(教会の人)を任されて、時に応じた食物を与える者に、主の全てのものを任せる事を約束された(45-47節)。この「時に応じた食物」は、マタイの福音書24章の事が起こるようになる時には、マタイの福音書24章の御言葉がこの時の食物であり、啓示録全章の事が起こるようになる時には、啓示録全章のまことの意味の御言葉が、この時のまことの食物になる。だが、無知で、盲人になった者は、時の事件も、時の食物もわからない。



 本文をもう一度整理してみる。

 マタイの福音書24章の事件がある前まで、神様に属した教会、すなわち、エルサレムの聖殿と聖徒があった。だが、マタイの福音書24章の御言葉を成し遂げるためにバビロンの悪霊の国、滅亡者がエルサレムの聖殿(教会)に侵入して、教会を滅亡させる。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してないと言われたのは、すべての教会に該当する御言葉である。これをまるで天に属した太陽・月・星が光を失って、地に落ちる事にたとえて語られたのである。そして、エルサレムの教会と聖徒は、滅亡者の捕虜になる。光がないこの夜に、光であられる主が御使いたちと共に来られて、東西南北、四方から選ばれた者たちを盗人のように集めると言われたのである。盗人のように集める理由は、全てがバビロンに捕らわれているからである。

 これが諸教会の終末であり、滅亡であり、こうして、収穫と新しい国の再創造があるようになる。



 まことの聖徒は、聖書も知って、御心も知ってこそ、自分に食物となって、救いを得る事ができる。そして、時に応じた食物を与える者に所属してこそ、その御心通りする者になり、救いがあるようになる。アーメン。

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