2015년 8월 31일 월요일

霊肉の天地創造と再創造

霊肉の天地創造と再創造



本文:創1章、啓21章



 霊肉の天地創造と再創造は、どんなものであり、創造と再創造をする理由は何なのか。

 

 創世記は、神様がモーセを選ばれて、罪を犯した国である、ノアの子孫カナンの地(世界)を征服して、住ませるために知らせて下さった御言葉である。



 初めの神様(唯一であられる神)が天と地を創造された。 

 第一日に、光を探して、光があるようにされて、第二日に大空、すなわち、天を水の真っただ中に造られ、第三日に水の中からかわいた所が現れ、地と名づけられた。

 第四日に、大きな光る物、小さな光る物、そして星を造られた。

 第五日に、地の上に空中を飛ぶ鳥と水に住む魚を造られた。

 第六日に、地(野)の獣と地の家畜とはうものを造られて、人を神様の形として、神様に似せて創造された。



 神様は、第六日まで創造の働きをされて、第七日に安息された。六つの創造したものを分析してみる。

 第一日、神様が天地を創造される(創1:8-10)前に、地も天もあった。茫漠として何もなかった地があり、やみの天があり、神様の霊は水の上を動いていたので、水もあった(創1:2)。

やみはあったが、光はなかった。光があった(創1:3)後に夕があり、朝があった(創1:5)。光がある前にもやみの天があった。





 第二日、神様が動いていた水の真っただ中に大空(天)を造られた。これを天と言われ、上の水と下の水とを区別された。

 第一日の「やみの天」と、第二日の「水の真っただ中に創造した天」は、どのように異なるのか。また、第三日、「水の中から現れたかわいた所、すなわち、地」と、第一日の「茫漠として何もなかった地」は、どのように異なるのか。



 第三日にかわいた所、すなわち、地に草と植物と実を結ぶ木が生じた。

 第四日に、水の真っただ中にある大空(天)に、大きな光る物(太陽)と小さな光る物(月)と星を造って、昼と夜を主管させ、光る物がしるしと季節と日と年のためにあるようにされた。

 では、夕があり、朝があった第一日は、何なのか。第一日の光と、第四日の光る物は、どのように異なるのか。

 第一日の光が光(太陽)でなければ、第三日の草と植物と木が生じる事はできないだろう。そして、この光がまことの光ならば、第四日にまた光を造ったので、天には大きな光る物二つと、小さな光る物一つ、すなわち、光る物が三つなければならないだろう。



 記録された御言葉を見ると、創世記1章の天地創造は、自然界の創造をたとえた霊的な創造ではないのか。自然界の創造と見る時には、合わないことが一つや二つではない。

 第一日に、天がやみで、地が茫漠として何もなかったと言ったが、これが、天地創造の経緯についておおまかに語ったものだとしても合わないことが多いが、自然界の創造をたとえて霊的創造を言ったのならば理解できる。



 神様がモーセ以前の世界を概略でモーセに語られた(創2:4)。ここで将来に成し遂げる預言(エレ4章)をエレミヤから聞いてみる。

 エレミヤが聞いて見たこと(エレ4:23-28)は、肉的イスラエルの終末を見たのであった。



 (エレ4:23-28)私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24私が山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。25私が見ると、見よ、人はひとりもいなく、空の鳥がみな飛び去っていた。26私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、町々は主の御前で、その燃える怒りによって、取りこわされていた。27まことに主はこう仰せられる。「全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさない。28このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。わたしが語り、わたしが企てたからだ。わたしは悔いず、取りやめもしない。」



 これは、創造されたものが荒れ果てたことを語られたもので、イエス様の初臨の時の肉的イスラエルがこのようであり、光のないここに神様がイエス様を選ばれて、イエス様は、光として来られた(ヨハ12:46)。従って、エレミヤに預言されたことも、イエス様の時に成し遂げられる預言であり、イエス様の初臨の時、地である人々は茫漠として、夜であって、イエス様は、昔の秘密を比喩で現された(マタ13:34-35)。 

 イエス様の初臨の当時の状況と創世記1章の状況が何が違うと言うのだろうか。肉的イスラエルの腐敗が創世記1章の第三日までであり、この時、光として来られたイエス様は、海のような世(ダニ7:3,17参考)の中に天を創造されて、星である弟子たちを創造された。この時から新しい日が数えられるようになるので、すなわち、年があるようになったのであった。これが第四日と同じである。



 第五日は、地では鳥が飛び、海では魚が生息する。初臨のイエス様に聖霊が鳩のように臨まれて、この聖霊がマルコの屋根裏部屋の弟子たちにも臨んで、海のような世に魚のような聖徒たちを養育したので、これがどうして第五日と違うだろうか。

 第六日の家畜とはう(はって飛ぶ)ものと地の獣を種類に従って造られた。啓示録4:6-7に見ると、霊界の神様の御座の周りにいる四つの生き物は、その御座の周辺にいる天軍の天使長である。第六日には、霊界の神様の国の四つの生き物のような組織が、この地に創造される。



 ところで、神様は、人を神様のかたちとして神様に似せて創造される。神様の種で再び生まれるならば、神様のかたちのようになり、神様に似るようになるだろう。神様は、彼らに生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従えよと言われた。

 これは創造の始まりも再創造も、このようになるだろう。これはアダムの時にも、ノアの時にも、アブラハムの時にも、イエス様の初臨の時にも、イエス様の再臨の時にも、このようになるのであった。信じられないことを信じると言っても、これは信じるのではなく、確実に悟った時、信じられるのである。地がどうして混沌として空虚だ(茫漠として何もない)と言えるだろうか。やみが大水の上にあるということは、光がないからであり、太陽・月・星が暗くなって落ちるならば(マタ24:29、啓6:12-14)、そのようになるだろう。



 光、すなわち、太陽を「造られた」のではなく、水の上で「探された」。そして、天(大空)を水の真っただ中に創造された。どうして、天が水の真っただ中にあるのか。天を基準とするならば、どうして上の水と下の水があるのか。地が、どうして水から出て来たのか。

 光が第一日にあったのに、第四日にもまた光があるのか。そして、なぜ、この光を水の真っただ中にある大空に置かれたのか。

 水の魚も、天を飛ぶ鳥も、家畜、獣も、男女の人も、各々その始まりになることができる。自然界の太陽と月は、昼夜をつかさどる。しかし、星は、光とやみを分けられるとは思えないし、昼には見えないので、昼をつかさどることはできない。

 ヨハネの福音書9:4-5に、イエス様は、光であり、昼であり、イエス様が離れて行かれるならば、やみと夜になる。



 創世記1章の内容は、肉的創造として見るには合わないし、霊的創造として見ることもできないし、肉的創造をたとえて霊的再創造をしたものとして見る時に理解することができる。

 地は、人の肉体で、地が混沌(茫漠)としているという事は、精神思想が善と悪が混ざって混沌としているという事であり、空虚(何もないこと)は、神様が人の心におられたのに離れて行かれたので空虚だと言えるし、やみは光であられる神様が離れて行かれたのでやみと言えるだろう。そして、離れて行かれた神様は、水の上(海)、すなわち、世(ダニ7:3,17)を通われて、光、すなわち、真理(=御言葉)の所有者を探される。これは光であられるイエス様を選ばれた(ルカ9:35)ように探されたのであり、光を探したことによって、やみと光があり、夜と昼があるようになるので、これは第一テサロニケ人への手紙5章と同じである。従って、イエス様は、ヨハネの福音書8章に、ご自身を光だと言われ、これに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのだと言われた(ヨハ8:12-16)。第二日に、水の真っただ中に天を造ったという事は、水、すなわち、世の中に神様の一つの幕屋を造ったので、これは御心が天で行われるように、この地でも、そのように創設されて、これを天の幕屋だと言われた事と(啓13:6-7)同じである。また、モーセの幕屋も、天のものを見て、そのように造った事と同じである。

 この時から上の水、すなわち、「啓示の御言葉」と下の水、すなわち、「地の言葉(=肉の言葉)」とを区分するようになった。これは光(いのちの御言葉)があった後の事である。



 第三日に、水からかわいた所が現れて、木が生じて、実を結んだ。

 水からかわいた所が現れたということは、水、すなわち、世の中から一つの幕屋が立つようになることを言ったのである(ノアの洪水の時のように、船、すなわち、幕屋とその基盤)。この幕屋で木のような人から実ができるので良しとし、この人々によって第四日にはじめて年があるようになる、天に属する組織が創設される。すなわち、太陽と月と星のような、国の系列があって、聖徒たちをつかさどるようになる。



 神様は、詩篇78篇に「たとえ話を物語り、昔からのなぞを、後の時代に語り告げよう。」と言われ、イエス様が来られて、天国の秘密を比喩で語られたし、秘密で語られた比喩は、時になるとはっきりとあかしされる(ヨハ16:25)。比喩で隠したのは、サタンとサタンの種族の牧者たちのためであった。

 今日は、時になったので、全ての秘密、比喩がはっきりと明らかに見える。



 私たちは、再び生まれた(神様の種で)新しい被造物であり、再創造された天民である(啓21章)。

 創世記1章の内容を見ると、霊的再創造であって、肉的な再創造ではなかった。ノアも、モーセも、初臨のイエス様も、啓示録の時にも霊的再創造であって、肉界の自然の世界の再創造ではなかった。啓示録21章のなくなる以前の天、以前の地も、自然界の天地を言ったのではなく、再び創造される新しい天、新しい地も自然界を言ったのではなく、宗教的・霊的世界を再び創造するという事であった。

 従って、終わる霊的世界(昔の天地)があり、再び創設される新しい天地がある。この新しい天、新しい地は、啓示録に約束した12支派である。彼らは、神様の種で新しく生まれた新しい被造物であり、神様の子どもたちである。この時、この啓示録の成就以前にあった全ての宗教的・霊的世界は、啓示録21章のように終わってなくなる。従って、一つの時代が終わって、新しい一つの時代が到来して、新しい国、新しい民族、すなわち、神様の約束の国と民族が新しく創造されたのである。これが信じる者たちの希望であり、神様が約束された御心と目的が成し遂げられたのである。



 悟って、確実な信仰と天の知識を持った者たちは、天国で住むようになった。天の戒め、天法を守ることで、永遠に神様と共に住むようになる。

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