神様の目的であられる御心と
聖徒たちの立場と希望
本文:啓1:1-3
神様の目的であられる御心と聖徒たちの立場と希望は、どんなものなのか。
神様の目的であられる御心は、目的とした事を成し遂げる事であり(イザ14:24)、聖徒たちの立場と希望は、天国と永遠のいのちである。
神様は、預言者たちを通して約束された事を聖徒たちが信じて守ってくれる事を願われて、聖徒たちは、神様が約束された事を悟る事と、成し遂げて下さる事を願う。神様は、約束した事を成し遂げられる時、約束の牧者にその成し遂げた事を見せて下さった後に、聖徒たちに遣わされて、知らせられた。これは、初臨のイエス様の時もそうであったし、再臨の啓示録の成就の時にも啓示録22章8節、16節に見たように、そうである。
時代ごとに神様が約束された牧者は、二人である。一人は、成し遂げられる事をまず、幻で見て預言する牧者であり、もう一人は、約束、すなわち、預言した事を成し遂げる時、見て、伝える約束の牧者である。この約束の牧者が出現して、また、預言した事を成し遂げる前には、一般の牧者が聖徒たちを導いて来た。この一般の牧者が聖徒たちに、将来成し遂げられる預言の本当の意味を知らせてくれたならば、成し遂げられる時、その実体を見てわかるだろうが、その実体について知らせてくれなかったならば、聖徒たちは、この事に知識がないので、悟れない。
マラキ書2章に、神様が祭司長と結んだ契約がある。祭司長は、神様と共に歩む者であり、その口に真理があり、聖徒たちがその口から真理を求める事ができなければならず、神様の使者として代言者にならなければならなかった。だが、祭司長、すなわち、牧者(牧師)でありながら、その中に神様もなく、真理もなく、神様の御心を代言してくれもしないならば、神様と結んだ契約を破る者になる。
今日、牧師たちが新約の啓示録を加減して、その意味が何なのかわからなければ、啓示録を成し遂げる時、聖徒が、どうして悟って信じる事ができるだろうか。これでも恥ずかしいとも思わず、肉に戻って、私利私欲に陥って、聖徒たちを自分の権威と生活の道具にするならば、どうして神様の使者と言えるだろうか。
神様は、肉的イスラエルと契約をして(出19:5-6)、契約した肉的イスラエルの聖殿エルサレムの牧者たちと聖徒たちは、神様とその子イエス様を受け入れず、かえって、異端、悪魔だと迫害して殺した。この牧者たちが旧約の預言を知って、聖徒にまで知らせてくれたならば、聖徒たちは、悟って、信じただろう。従って、エルサレムの牧者たちと聖徒たちは、サタンの牧者と民になって、サタンは、彼らを用いてイエス様を打つに至ったのである。
主の再臨の今日は、どうなのか。
韓基総(韓国キリスト教総連合会)は、伝統教団で、韓国の諸教会の総本部である。この韓基総の牧者たちは、旧約に神様が約束された事と、その成し遂げられた事を知らせて、また、今日、新約に約束された事を聖徒たちに知らせて、その約束された事を成し遂げる時、見て、悟って、信じさせなければならなかった。韓基総が、神様が約束して、成し遂げられる啓示録を加減して、聖徒たちに知らせもしなかったならば、初臨の時のエルサレムの牧者たちと違いがないだろう。
約束した預言がわからなければ、それを成し遂げたとしても、わからない。イエス様が旧約を全て成し遂げられたが、エルサレムの牧者たちは、わからなかったので、イエス様を受け入れなかった。このように、今日も、韓基総が啓示録を加減して、わからないので、その成し遂げた啓示録の実体、すなわち、背教者と滅亡者と救い主がわからず、約束の牧者をまた迫害したのである。事がこうならば、韓基総の牧者たちはもちろんであり、それに従う聖徒たちも救われない。
彼らは、かえって、悪の神に染まって、自分自身も、神様も、イエス様も、いのちの預言とその成就された事も、約束の牧者も、確認しても見ないで、また対話も、弁論もしないで、無条件、異端だという言葉で葬り去る事を日常にしている。
神様の目的であられる御心は、約束した事を成し遂げる事と、その成し遂げた事を聖徒たちが見て悟って、喜んで、信じる事である。このように信じる者たちを約束の牧者を通して集めて、新しい国と祭司長にして、新しい時代を開かれるのである。
約束の牧者は、新約の預言が成就された事を見て聞いて指示に従ってあかしする。
ここでヨハネの福音書3章31節-34節の御言葉を聞いて見る。
(ヨハ3:31‐34)上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。32この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。33そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。34神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
神様が遣わされた牧者は、神様の御言葉を話して、天で見て聞いた事をあかしするが、このあかしを受け入れる者がいないと言った。そして、このあかしを受け入れる事は、印を押されるという事だと言った。これが遣わされた牧者の事情であり、立場である。
エゼキエル書3章では、本を受けて食べて、行ってあかしするが、イスラエルの家が聞かないと言い、エレミヤ6章には、神様の御言葉を悪口に思って聞かないと言った。神様の約束の牧者は、神様の目的であられる御心も、その成し遂げた実状も見て聞いたが、人々がこれを聞かず、信じず、敵対するので、使命と立場が並大抵の苦しさではない。もし、神様の御心が成し遂げられなければ、人類の救いも、神様の国もなく、私たちの希望もない。従って、休まず、最善を尽くして、努力を尽くして、我慢して、耐えて、時には、馬鹿みたいに、何もわからない者のように、旅人のように、道行く人のように、孤独でも、苦しくても泣く事もできず、耐えて天を眺め見る。
心を決めて、千回万回決心して、天の御使いたちを呼んで助けを求めて、主の手と殉教者たちの手を取って、走って走って、決議する。休まず、祈る。1秒でも呼吸のように祈る。主と共に歩んで代言の使者になって、任された使命を果たすぞと、主の希望が私の希望であり、主の働きが私の働きであり、この一つの命、全て捧げて、私たちの神様の願いをかなえて、楽園の世界を創造し、永遠無窮の神様の家で主と共に歌を歌おう。
天よ、助けて下さい!万物よ、助けてくれ!
新しい天地、新しい時代の天国を成し遂げて、永遠に私たち共に生きよう。
私たちは、天国の担い手たちである。アーメン。
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