まことの宗教と非宗教
本文:ロマ8:1-11(ヨハ3:3-8、マラ2:1-8)
まことの宗教と非宗教は、どんなものなのか。
まことの宗教は、天のまことの神様から来る教育であり、非宗教は、神様から来たものではなく、ほかの神から来たものや、または、恣意的な教育(宗教)である。宗教人たちは、誰でも神様を信じると言い、自分たちが教えて学ぶ御言葉が、神様の啓示の御言葉だと言い、自分たちの宗教が一番だと信じている。そうならば、私が学んで信じて従う神とその教育が、まことの神様の啓示なのか。そうでなければ、にせものの神様の啓示なのか。恣意的判断によるものなのか。国教2)なのか。文化的なものなのか、迷信的なものなのか。
人は、神の家であり(Ⅰコリ3:9)、神の種を受ける畑(ルカ8:15参考)と同じである。言葉は、その神と同じで(ヨハ10:35参考)、その教訓の言葉が人に入るならば、その人は、その言葉を信じて従うので、その神のしもべになるのである。
人(教徒)の数が多いと言って、また、伝統宗教だと言って、まことの宗教と見る事はできない。確実なのは、まことの神様とその啓示であってこそ、まことの宗教になることである。まことの宗教は、始まり(初め)から、その創造した主人と、また創造したもの(内容)があり、四季と年限があり、歴史と系図があり、続く預言とその成就された事がある。どんなものが、まことの神様の宗教であり、どんなものがにせものの宗教なのか、調べて見る事にする。
宗教人はみな、自分の宗教の神にはまって、他人の宗教について最初から信じようとせず、聞こうともしない。だが、審判の時には、その行いに従って本に記録された通り審判されるという御言葉(啓20:12)が応じざるを得ない。
宗教(最上の宗、教える教)の意味について、その漢字の根源を調べて見よう。宗教という漢字を分析してみると、「宀(うかんむり部、家『メン』、宀は、『屋根、天』を象徴)、示(しめす『ジ』)、孝(孝行『コウ』)、1)攵(=攴:打つ・むち打つ『ボク』→むちで打って教える)」であり、従って、東洋では宗教という言葉が「最上の教え」、すなわち「天のものを見て聞いて、その御心と孝行を教えるもの」という意味になる。西洋では、宗教をリリジョン(religion)と言ったので、この言葉は、切れてしまった命の綱をつなげるという意味である。以上のように調べて見た事が、宗教を教える理由である。
多くの宗教人たちが一様に神様を信じて、神様のもので教育すると言う。しかし、宗教の名称も異なり、経典も異なり、行動(宗教的規範に従った行為)も異なり、儀式も異なる。神様が約束された祭司長、すなわち礼拝を導く牧者は、神様と共に歩む者であり、その口には、神様の御言葉を代言する真理があり、民たちが、その口から真理を求めるようにならなければならないし、神様の代言の使者にならなければならない。これがマラキ書2章に記録された、神様と祭司長、すなわち牧者との契約である。
宗教があかしする言葉は、六何の原則に基づかなければならないし、系図と年代と流れが正常でなければならない。また、昔から続いて来た預言とその成就が今まで続かなければならないし、預言が成就された実体を示す事ができるあかしがなければならない。時代ごとに出現した神様の約束の牧者は、以前の時代に前もって約束しておいた牧者で、彼について約束(預言)した事がなければならないし、その約束通り現れた者でなければならないし、約束した事をする者でなければならない。
その例を挙げれば、初臨のイエス様は、旧約の約束通り処女から生まれて、神様がこの子と共におられ(イザ7:14→マタ1:18-25)、ベツレヘムで生まれて(ミカ5:2→マタ2:1-6)、またロバの子に乗ってエルサレムに入って平和を叫ばれた(ゼカ9:9-10→ルカ19:33-42)。そして、旧約の約束を全て成し遂げられた(ヨハ19:30)。そうしてこそ、約束の牧者として認められるようになるのである。
今日、世の終わりに創造される国も、約束の牧者が経典(聖書)に前もって定められている。この牧者も経典の約束通り来て、約束した事を成し遂げる事によって、神様が約束された牧者になり、神様の遣わされた牧者として認められるようになる。
経典の内容は、大きく歴史、教訓、預言、成就で記録されている。そして、預言が成し遂げられる時は、三つの事件、すなわち、背教、滅亡、救いの働きがあるようになり、この働きを任された三つの存在(背教者、滅亡者、救い主)が現れて、記録された自分の事を各々成し遂げるようになる。そこで、聖徒はそのする働きを見て、その存在がわかるようになる。
たとえ、自分の宗教と経典がまことだとしても、経典の意味もわからず、その御心通りにできない牧者ならば、神様と共に歩む代言の使者とは言えない。教団の名称と経典と行動が神様が与えられたものではなく、恣意的なものであるならば(例:注釈)、サタンの神による偽りを教えて、天が命じなかった儀式と法度と行動をするならば、これは、神様と敵対して、敵になるだろう。
神様を信じるという宗教が各々違うという事は、同じ神様ではないからである。そして、地球村で起こる戦争のうち、約80%が宗教によって起こる紛争と戦争であるという事は、神様の宗教ではないからである。神様は、天地創造主であられ、創造した万物を愛され、創造された人に生めよ、増えよと言われた。そして、互いに赦し合って、愛し合いなさいと言われ、祝福しなさいと言われた。すなわち、神様は、互いに争て、戦って、殺して、のろいなさいとは言われなかった。従って、戦って殺してのろうのは、その神が各々違うからである。
私教3)と国教と迷信と恣意的宗教と文化的なものをまことの宗教に誤解して作り出した偽りの集団が多い。従って、今日、宗教が腐敗したという事は、幼い子どもでもわかることができる。本当に義と真理と完全なものと神様を信じる宗教ならば、腐敗した宗教をまことの神様に捧げて、神様の中で宗教が一つにならなければならない。そうして、2014年、平和会議で各宗教人たちは、宗教大統合をする事で、神様の中で一つになる事を、天地と神様と世界の万民の前と平和の使者の前で誓約をした。これだけが地球村の戦争を終息して、平和を成し遂げて、後代の遺産とする唯一の方法である。
教団も宗教も牧者も聖書も、それを信じる民たちのためのものであり、牧者と聖書と教団のためのものではない。まことの牧者は、神様と共にいる者にならなければならないし、公義行動を行わなければならないし、経典に精通しなければならないし、万民がその口から真理を求める事ができなければならないし、神様の使者になって、啓示を伝える代言の使者にならなければならない(マラ2:7参考)。経典に精通できなかったり、神様が共におられなかったり、啓示(啓示の御言葉)がなかったり、真理がなければ、彼はまことの牧者とは言えない。このような者の宗教は、私教であるのみであり、生計の手段のための職業としての恣意的宗教に過ぎないのである。
神様も、聖徒たちも、隣人も、御言葉も愛さない牧者ならば、これはサタンの偽りの牧者なのである。まことの牧者は、神様と共に歩み、神様の御言葉を代言する牧者で、聖書に精通しなければならないし、永遠に生きる食物を聖徒たちに食べさせてあげなければならないし、審判する白い石で義の審判をしなければならないし、万国を鉄の杖で治めなければならない。また、地球村に戦争をなくさなければならないし、平和を成し遂げて後代の遺産になるようにしなければならないし、赦して愛して、神様が統治される平和の世界になるようにしなければならない。
また、まことの牧者は、敵に復讐せず、敵をも愛さなければならない。世界は、まことの神様が創造されたものなので、これを愛さなければならない。華麗な楽園の世界に創造しなければならないし、万国を蘇醒させなければならない。祈りと啓示で万民に神様を知らせなければならない。天地万物と人々を本来の姿と形に戻して、永遠に神様に感謝と栄光を捧げる天民になるようにしなければならない。
私は、熱心を尽くして、この働きをしている。アーメン。
1)「宗教」の「教」の原字は、「敎」であり、「教」は、俗字である。上の本文の破字は、俗字である「教」を分析したものである。
2)国教=その国が認めている宗教
3)私教=自ら作り出した宗教
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