2015년 7월 23일 목요일

道を整える者と約束の牧者についての 預言とその成就

道を整える者と約束の牧者についての

預言とその成就




本文:啓1、2、3章



 道を整える者と約束の牧者についての預言とその成就は、どんなものであり、彼らは、各々どんな者なのか。

 預言は、将来に成し遂げる事を前もって語られたのであり、成就は、この預言が全世界に宣べ伝えられた時、その預言を成し遂げるのである。



 道を整える者は、約束の牧者が現れる前にまず来て約束の牧者のために道を整える者で、この道を整える者が、聖書に預言された約束の牧者が現れる事を知らせる事が道を整える事である。旧約時代にモーセがアロンをまず遣わして話をさせた事も、道を整えた事であり、初臨の時、バプテスマのヨハネをまず遣わされた事も、イエス様の道を整えるためのものであった。これは、信じる人であるならば、誰もが知っている事実である。



 それでは、新約に約束した再臨の時の道を整える者と約束の牧者は、誰なのか。なぜ、牧者たちが彼らと、また彼らの働きを知らせないのか。これが新約時代の関心事に違いない。道を整える者が使命を果たせない場合、約束の牧者が来て自分の使命を果たすのが大変なのである。

 例えば、エバは、アダムを助ける配偶者として造られたが、エバは蛇が自分を惑わしたように、アダムに善悪の木の実を与えて食べさせて死なせた(創3章)。道を整える者アロンは、シナイ山で神様に会っていたモーセが山から下りて来るのが遅くなるのを見て、モーセを待たず、金の牛(偶像)を作って仕える事で、モーセと神様の御言葉を信じない行いをした(出32章)。バプテスマのヨハネはエリヤの名前で来たが、自分が道を整える者であるエリヤの名前で遣わされた事を知らず、「荒野で叫ぶ者」だとだけ言った(ルカ1:17、ルカ3:3-6、ヨハ1:19-23)。しかし、イエス様は、バプテスマのヨハネについて「来るべきエリヤがまさにこの人である(マタ11:10-14)。」と言われた。



 ヨハネの福音書1章で見たように、バプテスマのヨハネは、イエス様をあかしした。しかし、その後、自分が獄に閉じ込められるようになった時、自分の弟子たちをイエス様に遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と聞いて、この時、イエス様は、彼らに「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われ、バプテスマのヨハネについて、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われた(マタ11:2-12)。また、ヨハネの福音書10章では、バプテスマのヨハネを、羊を置き去りにして、逃げて行った雇い人の牧者だと言われたが(ヨハ10:1-15)、バプテスマのヨハネの言葉通り、イエス様が「来られるキリスト」であるならば、イザヤ書16章のように、羊の群れをイエス様に送らなければならなかったが、バプテスマのヨハネは、弟子たちを送らず、別に働いて、別にバプテスマを授けて、自分の弟子たちをイエス様に遣わして、たわごとを言ったのである。



 このようなヨハネの救いについては神様が定める事なので、「あれだ、これだ」という事はできないが、大きな失敗(背信)をした。「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」と言ったならば、バプテスマのヨハネは、天国のカッコの外ではないのかと思われる。道を整える者として羊の群れを保護しなければならないにもかかわらず、なぜ、エルサレムの羊たちを捨てて逃げて行ったのかという事である。また、なぜ、信じず、試みるような話をしたのかという事である。この事で約束の牧者イエス様は、ご自身の使命を果たすのが難しくなられたのだろう。だが、これとは違って、香油を注いだマリヤの言葉と行動は、イエス様に徳になったと言えるだろう。



 それでは、神様の最後の働き、啓示録の時は、どうなのか。啓示録1、2、3章で見たように、道を整えるともしびの働きをした七つの星(使者)は、主の再臨の道を整える者であった。この道を整える者は、初臨の時の道を整える者バプテスマのヨハネのように、羊の群れを捨てて荒野に出て行って(マタ11:10-14、11:7参考)、初臨の時、エルサレムの聖殿に蛇であるパリサイ人の牧者たちが侵入したように、今日、チョンジキ教育院(*主に長老教団が中心を成す牧者教育委機関であったし、現在の韓基総も長老教団が主流を成す)の牧者たちが侵入したのである。侵入した牧者たちは、初臨の時のように、蛇、すなわち、サタンの牧者たちであり、啓示録2章に見たように、偶像の供え物とサタンの教訓を食べさせて、サタンの神(霊)と不品行を行わせた。そして、13章で、道を整える幕屋の七人の使者と聖徒たちは、サタンの獣に滅亡された。



 どの時代も道を整える者は、信仰が弱く、行動が頼りなかった。初臨の時、イエス様がバプテスマのヨハネを指して「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、全ての預言者たちと律法とが預言したのです。」と言われた御言葉のように、今日も、新約の預言も、預言者、すなわち、牧者たちも、教会も終わったのである。これは、一つの時代が終わって、新しい時代が始まる送旧迎新の時である。この新しい時代に成就された事が永遠の福音になる(啓14:6)。



約束の牧者は、どの時代にも自分のいのちを尽くして国と民を守る。初臨の時のイエス様のように(ヨハ10章参考)。このような力(能力)は、全てのものを受けて知っていたので、持つ事ができたのである。



 一つの時代が行って、新しい一つの時代を迎えた(送旧迎新の)時に、以前の時代の聖徒が救いを受ける事のできる資格は、どんなものなのか。

 神様は、アダム、ノア、ロトの時にも、イエス様の初臨の時にも、少ない種だけは残しておかれて(イザ1:8-9参考)、この少ない種で新しい時代を開いて、大きくされた。これが聖書で見た働きである。



 今日、救われる者は、神様の種とイエス様の血で再び生まれた者である。2千年前、イエス様が蒔いた種の実を収穫して(啓14:14-16)、約束した啓示の成就である神様の印で(*啓示の御言葉が初めの御言葉である神様の印である)印を押された者とイエス様の血で罪を赦された(衣を白く洗った)白い群れが啓示録を加減しなかった者たちで、約束した新しい国12支派の祭司長たちと民たちであり、いのちの書にその名前が記録された者たちである。彼らが、すなわち、新約の啓示録の成就の時、救われる資格者である。



 啓示録の事件が成就されて、その核心人物である背教者・滅亡者・救い主の実体が現れた事もわからない者たちは、救われない。

 イエス様が新約の終末の事件についてヨハネの啓示録に詳しく記録して下さった。再臨の時の以前の一つの時代、すなわち、霊的イスラエルの終末があるという事である。肉的イスラエルの終末は、イエス様の初臨の時であり、霊的イスラエルの終末は、イエス様の再臨の時である。一つの時代の終末になる理由は、一様に腐敗したからである。だが、偽りの牧者たちは、同じように自分たち(信仰人たち)は救われて、不信者たちは、滅亡されると教育(説教)する。しかし、これは事実ではない。罰を受ける者たちは、世の不信者たちではなく、自分たち、すなわち、霊的イスラエルである。これは、新約聖書が語った事である。



 時代ごとに道を調える者たちが間違った理由は、彼らがまことの光ではない(ヨハ1:6-13)からであり、戦って勝利できないのも、完全な光ではないからである。イエス様は、啓示録2、3章のように、敵と戦って勝利する者に祝福を与えると約束された。イエス様も勝利したので(ヨハ16:33)万国を治める鉄の杖を受けて、永遠のいのちの食物を受けたように、イエス様が約束された勝利者も勝利する事でイエス様から万国を治める鉄の杖と永遠のいのちの食物を受けるようになるので(啓2:17、26-27)、約束の牧者である。

 

 天下の万民の全ての信仰人は、末世に約束の牧者に属してこそ、救いを得るようになる。これがわからないならば、どのように聖書を信じる信仰人だと言えるのか。信じて、救われる事を祈っている。アーメン。

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