2015년 7월 9일 목요일

惑わしと試みとききん:時に応じて与える食物



本文:マタ24章



 本文の惑わしと試みとききんと時に応じて与える食物は、どんなものなのか。

 惑わしは、相手によって自分の精神が魅了されて混沌として、そこにかかって入る事を言うのであり、試みは、信じる事のできない言葉と行動によって落胆させられる事を言うのであり、ききんは、凶作を言うので、これは、雨が降らず、農業ができなかった事を言うのである。



 まずわかるべきは、前で言ったものがイエス様が旧約の預言(詩78編)通り、比喩を施して語られた御言葉であるという事である(マタ13:34‐35)。

 イエス様がエルサレムの聖殿のそばにあるオリーブ山におられる時、弟子たちが質問した事は、聖殿が倒れる事と、主の降臨と、世の終わりの前兆についてであった。ところが、イエス様は、人々に惑わされないように気をつけなさいと言う警告からまず語られた(*使徒パウロは、第二テサロニケ2章で、救い主イエス様は、背教の事と滅亡の事の後に来られると言った)。戦争が起こって、惑わす人々が多くいるという御言葉である。



 誰が誰を何によって、どのように惑わすのか。

 啓示録2章には、サタン・ニコライ派が神様の幕屋に入って、聖徒たちに偶像の神にささげた物とサタンの教訓を食べさせて、しもべたちを惑わしてサタン・ニコライ派の神と不品行を行わせるという御言葉がある。惑わす者たちは、サタンの所属の牧者たちであり、惑わされる人は、神様の所属の人々である。

 何によって惑わすのか。偽りの牧者が自分を見せてキリストだと言って、イエス様の名前で惑わして信じさせる(Ⅱテサ2:4参考)。この時、二つの国と民族、もう一度言えば、二つの教団が互いに自分が真理だと戦って、惑わすという御言葉である。この言葉は、不信者と世の人々に言った言葉ではなく、また、戦争は、世の国と国の戦争ではなく、宗教的戦争、すなわち、神(霊)の戦争である。

 試みとは、安逸で静かに、熱心に信仰をしていた信仰人が、考えもしなかった問題と言葉などによって、自分が知って信じていたものについて落胆して、失望と失意に陥るようになる事を言う。

 そして、ききんは、もちろん凶作を言う。凶作は、雨が降らなかったり、適切な時、降らず、農業がうまくいかず、農業ができない事を言う。ところが、宗教的な問題は、国も、戦争も、惑わしも、試みも、ききんも世の問題とは違う。このききんについて言ったアモス書8:11‐13を見てみよう。



(アモ8:11‐13)見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。*彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを探し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。*その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。



 これは世のききんを言うのではなく、天から雨が降るように、天の啓示の御言葉が臨まないので、心霊が干からびた霊的日照りを言ったのである。

 神様がこの(戦争の)時は、天を閉じて御言葉を与えないので、霊が飢え渇く事を言われたのである。

 記録されたように、マタイの福音書24章の預言が肉体となって成し遂げられたならば、これを見て悟って信じる者が地球村に何人になるだろうか。この時には、滅亡者が聖なるエルサレムの聖殿を滅亡させて、そこに立つようになる。この時に、救われる者は、山に逃げて行った者である。あなたがたは逃げて行ったのか。

 この時、滅亡された者たちは、伝統の霊的イスラエルたちである。彼らの滅亡は、まるで太陽と月が光を失って、星が天から地にみんな落ちた事と同じである。これが宗教世界の終末であり、教会の終末であり、世の終わり(末世)である。



 このように、選民の幕屋が滅亡された後、主が再臨されて、穀物の実を収穫するようになり、この時、時に応じた食物を分け与える者がいるので、これを主がご覧になって、全ての財産をこの人に任せると言われた(マタ24:45-47)。この時、与える「時に応じた食物」は、どんなものなのか。

 パウロが前にはユダヤ教の忠臣であり、律法にこだわっていたが、このパウロもイエス様の啓示を受けた後、啓示をあかしした、ガラテヤ書1、3章に。このように、ヨハネが啓示録10章で開かれた(啓示)本を受けて食べてあかししたこの啓示は、成し遂げられる預言であり、この預言通り成し遂げられたものがマタイの福音書24章と啓示録の成就である。よって、時に応じて与える食物は、マタイの福音書24章が成し遂げられる時には、マタイの福音書24章の預言の御言葉とその成し遂げられた実体であり、啓示録全章の預言が成し遂げられる時には、啓示録全章の預言とその成就されたものである。



 預言の御言葉の意味もわからず、預言が成就されてもわからなければ、その結果は、滅亡のみだろう。イエス様は、旧約の成就の時、ヨハネの福音書6章で、二種類の食物を語られて、一つは肉の食物、一つは霊の食物として区分して語られた。この霊の食物である永遠のいのちの食物は、イエス様ご自身であり、イエス様はいのちの木なので(ヨハ14:6、15:1、5参考)、イエス様を食べる事が、すなわち、永遠のいのちであった。



 人は罪人である。神様は、いと高き聖なる方であり、天地創造主であられる。個人の事情より神様の事情は、どれほど大きいかわかるだろう。よって、神様がアダムが罪を犯した後、失った神様のものを再び探して主管されるのである。それゆえ、人の事情のせいで神様の大きな御心をあきらめる事はできない。ただ、神様は、神様の御心と戒めを守った者たちで新しい国の家族と民族に創造される。新約は、これを設計したものである。そして、この設計図通り創造される(創1:26-27参考)。

 聖書(新約)の意味がわからなければ、不信者というよりも、神様に敵対する不法者であるのみである。御心がわかる者は、その御心通り行うだろう。



 世の終わりである主の再臨の時、惑わされないで、試みに陥らないで、ききんに飢え渇かないで、時に応じて与える食物が準備されたので、これを食べなければならない。今からは、神様の御心通りになるだろう。

 初臨の時、そうであったように、神様が来られても、イエス様が再臨されても、イエス様が遣わされた者が来ても、信じない習慣と迫害をする習慣は、再臨の時だからと言って違いはない。そして、審判があるようになるのである。



 誰でもみんな、今からは、聖書の外で信仰しないで、神様、すなわち、御言葉の中に入って信仰して、悟って、救われる事を願う。アーメン。



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