いのちの木の実と善悪の木の実
本文:創2:9(創2:17、創3:22-23)
いのちの木とその実(果実)は何であり、善悪の知識の木(善悪の木)とその実は何なのか。いのちの木は、神様であられ、その実は神様のまことの御言葉である。善悪の木は、悪魔であり、その実は悪魔の偽りの言葉である。
本文の善悪の木の実を食べれば死んで、いのちの木の実を食べれば永遠に生きると言われた(創2:17、3:22)。人の生死がこの二種類の木の実によるのであった。罪の始まりも、死も、善悪の木によるものだったが、永遠に生きるという事はいのちの実によってあるようになる。
聖書を通して救われようとする人は、まず、この二種類の木とその成分を知る事が優先であり、さらにはこの二種類の木を知る事が信仰の全てだと言える。救われる事も、地獄に行く事も、この二種類の木にかかっているので、これを知る事が救いと直結されていると言えるだろう。
そして、アダムの時からあった二種類の木は6千年の年月の中、どこへ行き、どこにあるだろうか。 今日までの偉くて有名な牧者たちが正統であるならば、この二種類の木とその実の実体をどうして教えもせず、見せもしなかったのか。
アダム、エバは、この二種類の木の実に関する神様の御言葉(願いと警告)を信じて守ることができなかったとしても、今日の私たち信仰人は、食べてはならないと言った善悪の木の実は、食べないで、いのちの木の実だけ食べなければならないだろう。
エデンの二種類の木、すなわち、いのちの木と善悪の木が啓示録に登場した。まことの信仰人ならば、この二種類の木について知る事を願うだろうし、目的がまことの信仰ではなく、「神様」と「信仰」という言葉を利用して、世の中の肉的な生活のためにするのであったならば、この二種類の木について別に関心もないだろう。
創世記とイエス様の初臨の時と啓示録の成就の時である再臨の時、登場した二種類の木について調べて見よう。
神様は、詩篇78篇に「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを後の時代に語り継げよう。」と言われ、このように語られたその神様がイエス様に来られて比喩(たとえ)で語られた。これは、マタイの福音書13:34-35に記録されている。昔からのなぞがあり、イエス様は(神様がイエス様を通して)これを明らかにしたが、比喩でだけ語られ、はっきり告げる時があると言われた(ヨハ16:25)。それゆえ、昔からのなぞ(天国の秘密)は、イエス様の比喩の中にあると言えるだろう。
イザヤ書5章の記録を見ると、神様が良いぶどうの木を植えて、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいたが、野ぶどう(酸いぶどう)ができてしまったと言われた。そして、このぶどうの木は、イスラエル(ユダ)の人だと言われた。これは木(ぶどうの木)をたとえて、人をぶどうの木に比喩したのであった。このように、神様から遣わされたイエス様は、ヨハネの福音書15章で、まことのぶどうの木であり、その弟子たちは枝であり、自分が木についていてこそ、(あなたがたがわたしの中に住んでこそ)、この枝に、多くの実を結ぶと言われた。
それだけではなく、蛇、すなわち悪魔の国バビロンの王ネブカデネザルは、たくさんの実がある大きな木だと、ダニエル書4章に記録されていて、啓示録18章には、このバビロンを悪霊の住まいとあらゆる汚れた霊どもの巣くつとあらゆる汚れた憎むべき鳥どもの巣くつと言った。
イエス様は、まことのぶどうの木であり、バビロンの王は、野の獣が住む野ぶどうであり、この野ぶどう(野ぶどう酒)は、申命記32:33の、蛇の毒であり、まむしの毒だと言った。人がぶどうの木ならば、天国の王イエス様と、悪霊の国バビロンの王ネブカデネザルのうち、誰がいのちの木であり、誰が善悪の木だろうか。
ヨハネの福音書1:1-4で、初めの御言葉が神様であられ、御言葉で創造されないものはないと言われ、この御言葉がいのちであり、光だと言われた。ルカの福音書8:11には、種は神様の御言葉だと言われた。いのちの種を蒔けば、いのちの木になる。それゆえ、いのちの根源であられる神様のいのちの種で生まれた者がいのちの木であり、枝と実である。一方、悪魔、すなわち、竜の邪悪の種で生まれたものは、死の木、すなわち、善悪の木である。
いのちの木の実を食べれば、永遠に生きて(創3:22)、善悪の木の実を食べれば、死ぬと(創2:17)言われ、ヤコブの手紙1:18に、私たちを初穂にするために真理の御言葉でお生みになったと言った。この言葉は、御言葉によって実、すなわち果実になるようにするという事である。従って、人が木であり、この木の実は、この人の言葉なのである。これを見ると、いのちの木も善悪の木も霊と人であり、その実は、霊と人の言葉である。
神様の種は、神様の御言葉であり、悪魔の種は悪魔の言葉であり(エレ31:27、マタ13:24-30、38-39、ルカ8:11参考)、言葉(御言葉)は、まさにその神(霊)であり(ヨハ10:35)、神様のいのちの種で生まれた者がいのちの木であり、悪魔の邪悪の種で生まれた者が死の善悪の木である。真理は、いのちの種である神様の御言葉であり、非真理の偽りの言葉は、死の毒麦の種である悪魔の言葉である。
誰の種で生まれた者なのか、聖書の御言葉で自分を知らなければならない。悪魔の非真理の種で生まれたならば、真理のいのちの種と聖霊で再び生まれてこそ、天国に入る事ができる(ヨハ3:5-6)。
前で言った言葉の核心を簡単に整理すると、いのちの木は、神様と人であり、善悪の木は竜と人である。
続いて、いのちの木と善悪の木について整理をしてみる。
イザヤ書5章で、良いぶどうの木が野ぶどう(酸いぶどう)を結んだという言葉は、神様の選民が悪魔(竜)の霊を受けて生んだ実を言っているのであり、神様(霊)は天国の国であり、イエス様(肉)は、天国のぶどうの木(ヨハ15:1-5、マタ13:24-32、啓22:1-2)であり、毎月、十二弟子を通して十二種の実を結ぶいのちの木であり、その木に巣を作る鳥は、聖霊であり、その木の葉は、万国を蘇醒する薬の材料である(エゼ47:12、啓22:2)。
一方、竜(霊)は、地獄の底知れぬ穴の国であり、ネブカデネザル(肉)王は、地獄の野ぶどうの木(申32:33、ダニ4:20、啓18章)であり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その木の下には、獣が住み、木の枝には鳥が宿り、実も豊かで、全てのものの食糧があると言った。
神様の息子イエス様を木、羊、石だと言ったように、二種類の木も、イザヤ書5章のように、木をたとえて人を比喩した言葉であった。
創世記の証言(内容)は、モーセ以前の事件を神様がモーセに概略を知らせたものであり、秘密は残っていた、詩篇78篇のように。今日、啓示録の預言が成就されて、この秘密が解かれる事によって、約束の牧者、勝利者は、ヨハネの福音書16:25のように、完全な所(Ⅰコリ13章参考)、啓示録で、その実体を見てあかしするので、このあかしが本物である。
神様は、勝利者ヤコブの時も、勝利者イエス様の初臨の時にも、今日、啓示録の成就の時である勝利者の時にも、12支派、すなわち、十二種の実を結ぶ木がいのちの木であり、その実がいのちの種(ヨハ1:1-4、ルカ8:11、マタ13:24)でできた12支派の聖徒たちである。
イエス様が創世から隠された昔の秘密(二種類の木)を比喩を施して現わしたのがマタイの福音書13章の種と木であり、これを事実通り現わした(実体)のが、今日、啓示録14章(4節)と22章(2節)のいのちの木である。
いのちの種を蒔けば、いのちの木になり、この種は、人の心の畑に蒔かれるのである。いのちの種は、ヨハネの福音書1章の初めの御言葉である神様の御言葉(ルカ8:11)であり、それゆえ、神様の種で生まれたイエス様も御言葉である(Ⅰヨハ1:1)。初めの御言葉が神様であられ、神様は、霊、すなわち、神である。そして、神様の初めの御言葉を受けたという事は、神様の種、すなわち、神(霊)を受けた事になり、これゆえに、この御言葉を受けた者を神と言ったのである(ヨハ10:35)。従って、初めの御言葉を受けた人は、神様の神(霊)の子孫である(使17:28-29)。
竜(サタン、悪魔、蛇)の種で生まれた竜の子どもにならないで、神様の種で生まれた神様の子どもになってこそ、天国に入る事ができる(マタ13:37-39)。そして、イエス様の初臨の時は、エレミヤ31章の預言通り、二種類の種が蒔かれ、この二種類の種のうち、一つはイエス様が、もう一つは竜、すなわちパリサイ人の牧者たちが蒔いた。この二種類の種は、同じ畑(教会)に蒔かれて、今日、収穫の時(啓14:14-20)、神様の種で生まれた者たちだけ収穫して、印を押して、12支派、新しい国が創造された(啓7章)。彼らはいのちの木で、毎月、真理の御言葉で12種の実として結ばれた者たちである(ヤコ1:18)。あらゆる教団とあらゆる霊たちが集まった悪霊の国バビロン(啓17、18章)は、善悪の木であり、その実は、毒麦の種で生まれた悪魔の子どもたちで、審判を受けて、硫黄と火の池に入り、存在するのは、いのちの木の実、すなわち、啓示録14章のシオン山の12支派の家族だけである。
永遠のいのちと天国は、宇宙よりももっと大きい。このため、心と誠意と思いを尽くし、力を尽くし、努力して得なければならないだろう。働く通り報いて下さるものは、まさに永遠のいのちと天国である。アーメン。
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