末世の牧者と聖徒たちの心と希望
本文:マラ2章、ヨハ10章
牧者と聖徒たちの心と希望は、どんなものを言っているのか。
神(霊)も二種類があり、牧者も二種類の神によって二種類があり、彼らは心も希望も互いに違う。牧者が知識があれば、従う聖徒たちにも知識があるだろうし、牧者が知識がなければ、従う聖徒たちにも知識がないだろう。牧者が悪魔の神を受けて治めるならば、従う聖徒たちも、その牧者によって悪魔の神を受けて、悪魔の意志通りするだろうし、牧者が神様の聖神を受けて治めるならば、従う聖徒たちも、その牧者によって神様の聖神を受けて神様の御心通りするだろう。神様が選んで立てられた牧者だと言っても、腐敗するようになれば、神様は、その牧者から離れて行くようになり、代わって悪魔が入って、悪魔の牧者になる。これを悟れない聖徒たちも、自分の牧者に属して、悪魔の人になる。
牧者は、羊の群れを治めて、導いて、食べさせて、統治する者である。従って、羊は治める牧者に従う。だが、神様のまことの御心ではなく、他の道に導く牧者からは離れる事が羊の群れ、すなわち聖徒たちが生きる道になるだろう。
(Ⅱコリ6:14‐18)不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。15キリストとベリアルトに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、18わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
このようにするためには、まず、自分自身が知識があるべきであり、義と不義、真理と非真理をまず、確認しなければならない。羊のような聖徒は、牧者を信じて、信仰と思いを尽くして、奉仕と献金をして、忠誠を尽くす。希望のために神様に代わって牧者を信じるからである。ところが、この羊のような聖徒が自分の牧者を通して信じる事が何であり、それは、天国と永遠のいのちを保証できるのか。聖徒が天の啓示と御言葉に精通するならば、自分の牧者が正しい指導をしているのか、正道を教えているのか、偽りを話しているのか、まことの牧者なのか、偽の牧者なのか、わかるだろう。
まことの信仰は、御言葉を基準にした信仰でなければならない。御言葉を離れては信仰とは言えない。自分を導く牧者がマラキ書2章のように、契約の御言葉の中で神様と共に歩む代言の使者なのか、その口から真理を求める事ができるのか、その中に神様もなく、真理もなく、信仰もなく、恣意的な思想と一つになった牧者ではないのか、また、本当に羊の群れのことを大事にする神様の牧者なのか、白く塗られた偽りの牧者なのか、確認をしてから信じて従うべきだろう。もし、羊の群れの希望を裏切って、自分のからだの生活のための偽りの牧者ならば、また、教えるべき約束の御言葉と成就されたものがわからない偽りの牧者ならば、それでも羊の群れがその牧者に従わなければならないだろうか。
このように話すのは、マタイの福音書24章で言ったように、偽りの牧者が世に多いからであり、アダム以後、今日まで6千年の間に数多くの偽りの牧者たちがいたからである。聖書の御言葉もわからない者が、どうして神様の牧者だろうか。
聖徒の立場はどうなのか。マタイの福音書24章で見たように、末世には神様の教会と聖徒たちが滅亡者に滅亡されて、滅亡者が聖殿の聖なる所に立つようになる。これは、まるで天に属している太陽・月・星が暗くなって、光を発せず、地に落ちるようになる事だと言われた。もし、教会の牧者が、この事実を悟って、知って、自分の聖徒たちに前もって知らせてあげたならば、聖徒たちがこのような悔しい事には出会わなかっただろう。この牧者は、聖徒たちにとってまことの牧者になるだろうか。
この後、イエス様が御使いたちと共に来られて、東西南北から聖徒たち(穀物の実)を収穫して集める。この収穫された聖徒たちと滅亡された地(肉)に落ちた以前の教徒たちが同じだろうか。
啓示録13章には、竜の牧者、獣(七つの頭と十本の角)が神様の幕屋に入って、神様の聖徒たちと戦って、竜の牧者が勢力で勝利して、聖徒たちの額と手に竜の牧者、すなわち獣の名で刻印を押して、聖徒たちは、獣に拝んだ。この時、幕屋の牧者が聖徒たちに七つの頭と十本の角を持った獣の牧者がサタンの牧者だという事を聖徒たちに知らせてあげたならば、聖徒たちは、彼に従ったり、額と手に刻印を押されて拝んだりはしなかっただろう。狼、すなわち、サタンの牧者が来る事を見て、幕屋の牧者が聖徒たちを捨てて逃げて行くならば、聖徒たちが自分たちが従った牧者をまことの牧者だと言えるだろうか。
それでは、この時のイエス様の御言葉を聞いて見よう。
(ルカ13:23‐30)すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。24「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。25家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。26すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』27だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』28神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりをしたりするのです。29人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。30いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、今先頭の者がしんがりになるのです。」
新約聖書の中には、初臨の時のように、教会の終末があり、サタンの働きである滅亡の働きが記録されている(Ⅱテサ2章、啓6、13章)。このような事実に対しては気にもせず、「救われた、聖霊を受けた、祝福を受けた、末世に滅亡される者は不信者たちだ。」と言いながら、聖徒たちに奉仕と忠誠だけ要求する牧者が本物だろうか、イエス様のように、教会の終末についての事を詳しく知らせる者が本物だろうか。末世には諸教会も聖徒たちも破壊(破滅)されて、万国が天から地に落ちて、倒れる滅亡がある事を、イエス様も聖書も語っている。このような警告にも、牧者も聖徒たちも気にもしない。これでどうして救われるだろうか。神様が自分から離れて行かれても、聖霊が離れて行っても、約束の御言葉の意味を知らなくても、それだけである。これがどうして信仰人と言えるのか。
まことの牧者(約束の牧者)には、神様が共におられる。偽りの牧者には悪魔が共にいる。偽りの牧者は、心が夜のようで、盲人になって、耳しいになって、神様も、悪魔も、末世も、収穫についても知っていない。預言とその成就されたもののまことの意味を話してあげようとしても、受け入れる者がなく、結局、偽りの牧者とその所属の聖徒たちは、完全に肉に戻って行った。
神様の幕屋が倒れた事も(啓13章、マタ24章)、万国が倒れた事もわからず、神様から外に追い出された事もわからないので、まさに死んだ者と同じである。そして、まことを話せば異端だと言う。これが末世の信仰世界である。初臨の時と何が違うのか。
したがって、神様は、約束通り選民世界の滅亡の後、東西南北、四方から収穫して、印を押して、神様の新しい国の祭司長と新しい民の白い群れを創造される(マタ24:29‐31、啓7章)。2千年前にゴルゴダで流されたイエス様の血は、末世、すなわち啓示録の成就の時、その能力と効力があるようになる。再び来られる神様と天国とイエス様は、約束の牧者、勝利者に来られる(啓3:12)。神様と天国を探す聖徒は、まさにここを探すべきだろう。初臨の時は、神様も、天国もイエス様にあった(マタ3:16‐17、4:17、ヨハ1:51、14:10‐11参考)。このように、再臨の時も、神様と天国が約束の牧者にある事を聖書は語っている。
どんな目で聖書と約束の牧者を見るべきなのか。神様の目で見るべきなのか、悪魔の目で見るべきなのか。なぜ、神様の御言葉より自分の牧者の言葉を信じるのか。悪と善に対する判断は、聖書の御言葉が基準にならなければならない。御言葉のない恣意的判断は、間違いである。色眼鏡で見れば、元の色をどうしてわかるだろうか。
啓示録成就の時には、背教者の働きと滅亡者の働きと救い主の働きがある。その牧者がどんな働きをするのかによって、彼が背教者、滅亡者、救い主のうち、誰なのかを判断する事ができる。盲人でなければ、耳しいでなければ、心が夜でなければ、という事である。
新約で成し遂げられる事は、ヨハネの啓示録である(*ヨハネの啓示録は、新約を総合して語ったものなので)。この啓示録を加減しても救いがあるだろうか(啓22:18‐19)。啓示録が成し遂げられたにもかかわらず、これを信じない者が救われるだろうか。約束したこの啓示録には、以前の世界が終わって、約束の新しい国と新しい牧者と新しい民族が創造される事が記録されている。この時、竜、すなわちサタンに属した者たちは、サタンと共に地獄に行き、神様に属した者たちは、神様と共に天国に行く。アーメン。
「光と光の出会いは勝利。」
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